子供扱いはやめて

「遅かったじゃねェか…」

 それだけ言うと、奈良上忍はぴたりと黙りこんだ。すっかりくつろいだ視線を私に定めて。
 ひとり酒の途中らしいお猪口のなかでは、透明の液体にゆるい波紋がひろがっている。

「ごめんなさい、お風呂に」

 半開きの障子からは青白い光が覗く。空気がひえるせいか、やけに輪郭のくっきりした月が怖いくらいにきれいだ。
 冬の空に背をあずけ、ゆるい笑みをはりつけた彼は、かすかに眇めた目をこちらに注いだまま。歪んだくちびるは、じっと動かない。部屋がじわじわと密度をあげてゆく。濃さを増す。
 いきぐるしい。


「あの、」

 つづく沈黙と、なにもかも見透かしてしまいそうな視線。なめるように肌をたどるそれに堪えかねて、重い口を開きかけた刹那、男はかすかに鼻で笑った。凝っていた空気がゆれる。ふ、とそれだけで、感情がゆすぶられている。


「なん でしょうか」
「いや………

 ………随分と念入りに磨いてきたんだなァ、と思ってよ」

 っ!
 不意打ちのそのセリフに、ちいさく息がもれた。細胞のつなぎめが、ゆるむ。故意に、ゆるめられた。

「すみません」

 反射的に謝ってしまったけれど、男の目に怒りの色はない。待たせたことへの厭味というよりこれは、ただ私の反応を面白がっているだけのような、そんな。
 楽しげな双眸がじっとりと衿元に寄せられたまま留まっている。見られている。つよい目だ。

「奈良…上忍」
「おいおい、今は任務じゃねえぞ」

 こんな晩くれェ俺を解放しろ阿呆。冗談めかした口ぶりとは対照的なつよい目が、私をみている。
 つよい目が、私に命じる。さあ名を呼びやがれ、と。


「……シカク さん」

 途切れとぎれにそう呼べば、男はまた、ふっ、と鼻で笑う。ほんのかすかな空気のゆらぎで、めまいがした。
 ぐらつく身体を何とか支えて、男の方へにじり寄る。一歩、また一歩。膝をすすめる。息がかかるくらい近くへ。その間も、男は視線を外さない。見られている部分が、焦げるように熱を上げている。じわりと溶けて、穴があく。それを早く埋めたくて、埋めてほしくて、手をのばす。


「まあ、そう慌てんなって。夜は長ェんだから、」

 触れる寸前でかわされて、てのひらはむなしく空を切る。私なんかの拙い語彙力では到底あらわせないくらい、いい笑顔が目の前にある。

「……………な?」
「はい」

 力無く落下していく指先が畳をなめる手前で、硬いてのひらがそっと掬い上げる。
 いたい。胸が。

 指を絡めとられたまま、縋り付くように見上げた。明らかにぜんぜん待っていなかったのがわかる、余裕の表情。待ち焦がれるとは無縁のその空気が憎々しい。
 引き寄せて、突き放しておいて、掬い上げる。そしてまたすぐに離される。小娘を簡単に翻弄するその態度がホントに憎らしい。悔しい。


「オメェも一杯いくか」

 無造作にお猪口をさしだす節くれだった指も、ゆるく持ち上がる口角も、つれない台詞も憎らしい。なのに一瞬たりとも私の上からはなれない視線に組み伏せられる。心が。
 もう、なびいてなんてやらない。この人に絶対になびくもんか。そう、何度誓っても無意味なのだ。青臭い意地なんて、この人の前では子供の屁理屈以下。風前の燭。なんの力もない。

「ええ」

 素直に杯を受けながら、狡い男だと心の内で叫んでいる。なんて狡くてつかみどころのない男。

(嗚呼…だけど私は、そんなシカクさんが大好きなのです。)

 片膝を立てた着物の裾がわずかにはだけ、くるぶしと筋張った脛が見えた。そんなやる気のない、なげやりな姿さえも、かんたんに心を掻き乱す。あふれ出る艶に、むせそうになる。
 この人にかかれば、どんな相手を落とすのも赤子の手を捻るようなものだと思う。昼も、夜も。
 その鋭い瞳で、本当はもう、すべて見抜いているのでしょう。私の大人ぶった仕草の裏に隠したどうしようもないガキっぽさも、心の奥に潜めた浅ましさも。ぜんぶ。


「いい飲みっぷりじゃねェか。ん?」
「………」

 ぐい、と飲み干した杯を奪うフリして手繰り寄せられれば、声も出ない。息すらできない。さめた態度からは想像もできないくらい、かたい皮膚は熱い。触れあった肌がにわかに泡立っている。内側がまたゆるみはじめる。
 そうやって勝手に私の熱をあげたくせに、まるで小さな子供にするようにひょいと膝の上に乗せる。子猫でも扱うように髪をくしゃくしゃとなでられる。

「ここで暫く大人しくしてやがれ」

 また鼻で笑って突き放す。
 この人が、なにをしたいのか分からない。わざわざ呼び付けておいて、膝で抱いたまま放置なんて、私は人形か愛玩動物かなにかと思われているのだろうか。彼にとってはそんなものなのだろうか。

 横抱きにしたまま、器用に本を読む男の匂いがいっぱいにまといつく。ページをめくる指に見惚れて文字を追えない。

「オメェも一緒に読むか」

 肌を介してつたわる低音が身体じゅうにひびく。無言で首を振れば、また頭をなでられた。
 低く漏れた笑いに、顔を見上げたら顎髭が思いがけず間近にあった。綺麗に生えそろった顎髭。指先で感触をたしかめて、頬をはいのぼる。こめかみの傷をたどり、見慣れないメガネの縁をなぞる。そうしながら、下からのショットをまぶたに焼き付ける。


「老眼鏡?」

 ちょっとした仕返しのつもりだったのに、心ぼそそうな声がでた。

「阿呆」

 まだそんな歳じゃねェよ。その言葉が本当か嘘かは分からないけれど、案の定、男にはぜんぜん効いていないらしい。メガネの下から覗く鋭い瞳と目が合ったとたん、胸の奥がずくずくとうずいた。
 こんなに近いのに、でも、遠くて。ゆるんだものが内側から氾濫しそうになる。網膜がしっとりとうるんでいる。
 この人の言う「阿呆」がすきだ。蔑みの言葉なのにやさしくて、あたたかくて、いつもいつも泣きそうになる。


「なんだァ?構って欲しいのか」
「ちがう」

 強がりは、こわばりをよぶ。固まった身体のなかで、体液がさざめいている。ゆらゆらと。男の目を見上げたまま、ささやくように、名を呼ぶ。


「シカク、さん」

 呼んだら、すこし近づいた。匂いが濃くなった気がした。吸い込むことに集中したくて目をとじる。まぶたにくちびるが触れ、髭がやわらかく頬をなでた。その感覚にもってゆかれる。吐息がかすれた。


「ったく。ガキは我慢が効かなくていけねェ」
「あなたも、ね」

 目を瞑ったまま言った。精一杯のつよいセリフは、半分かすれたまま熱いくちびるに吸い込まれる。うすまって、きえる。

「言うじゃねェか」

 楽しげにひとつ笑って、またくちびるを吸われる。さざめいていた内側が、もっとにじみはじめる。どんどん気がとおくなる。
 ふるえる指先で両頬をたどる。盲目のまま彼の眼鏡をはずして、そっと目をあける。シカクさん、ささやくようにまた呼ぶ。
 すこしだけ余裕をなくした裸の瞳を見据える。じっと。ざらざらと涸れた声が私を呼んで、

「そんな目でねだるな、阿呆」

 むせ返る香りに閉じ込められた。



供扱いはやめて

ほんとうに憎らしい人。
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2011.12.18
ドMホイホイなシカクさん
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