「なあなぁ 林檎ちゃんには好きな奴とかいねぇのか?」
「うーん、いませんねぇ」
「その位の歳の女の子だったら、恋とか愛とかに夢中になるもんじゃねぇの?」
「私、犬塚さんと一つしか違わないじゃないですか」

 その位の歳だなんていう表現をする犬塚さんが、まるで随分歳上の男の人に思えて、可笑しかった。

 そうなのかな…
 確かに周りの女友達は、会えば彼氏の話ばかりしてるし。給湯室の女子社員の会話からも、きっと犬塚さんの意見は一般論なんだろうなと思うけど。

「俺はいつも天姫ちゃんに夢中だぜ?」

 ええ、知ってますよ。笑いながら犬塚さんの方を見ると、彼は思ったよりずっと真剣な表情をしていて。天姫の事が本気で好きなんだなあと、伝わってきた。

「私は…いま、仕事に夢中ですから」

 別に興味ありません。笑顔のままで犬塚さんに答えながら、お腹の底を軽く弄るようなかすかな切なさを感じて。
 その緊張感にも似た、苦しいともむず痒いともつかない微小な感覚を、見過ごすべきなのかどうか迷っていた――




-scene06 煽り-






 犬塚さんと会話をしながらふと顔を上げると、猿飛さんと打ち合わせをしていた奈良さんに目が止まる。そのまま視線を外すことも出来ずに、真摯で涼やかな横顔を見つめ続けた。
 やがて私の視線を感じたのか、図面から顔を上げた奈良さんは、こちらを見ながら僅かに眉を顰めていて。
 その表情が何を物語っているのかも分からないのに、何故か鳩尾の辺りに不思議な熱を生み出した。

 奈良さんと目が合うまで、私は随分と長いこと彼の方を見ていたらしい。

「林檎ちゃん、どうかした?」
「え?」

 その声にはっと視線を戻すと、何やら意味ありげな笑いを浮かべた犬塚さんが、煙草を手に立ち上がるところだった。

「一服、しに行こうぜ?」

 頷いて立ち上がると、犬塚さんの背中を見ながら喫煙ルームへと移動した。


 最近、すこし本数が増えている。
 基本的に煙草は仕事中のみ、プライベートには吸わない主義だから、3〜4日でひと箱というペースだったのにな。

 赤いラークの箱から、手慣れた様子で煙草を取り出して火を付ける犬塚さんの仕草を、ぼんやり見つめて。自分の煙草を取り出すと口に咥えた。

「で、林檎ちゃん。今年一級受けるんだよな」
「はい。学科は去年受かってるんで、製図だけ」
「すげえな。あの人を混乱させて面白がってるとしか思えねぇ、バカみたく難しい試験に受かった?」
「一応。犬塚さんは?」
「あー…俺は取り敢えず、今年は施工管理だけ受けようかな」

 犬塚さんが施工管理技士というのは、何だか似合っている気がして口元が緩む。
 薄く細く煙を吐き出しながら喫煙ルームの外へ視線を動かすと、ふたたび奈良さんと目が合った。
 またすこし、眉間に皺を寄せている。

 何か、気に入らないことでもあるんだろうか。

「シカマルのやつ、さっきからこっちばっか見てるよな」
「そう、なんですか?」
「ああ、何でだろうなァ?」

 不思議な声音を発した犬塚さんを見上げると、楽しそうな笑みを浮かべていた。

 犬塚さんの笑顔は、明るくていつ見てもふっと気合いが抜けるように温かくて、大好きだけど。いったい今の犬塚さんは、なにがそんなに楽しいんだろう。

「じゃあ、林檎ちゃん学科は一発合格?」
「はい」
「マジすげぇな」
「いえ、製図は落ちましたし。それに、我愛羅さんやサイさんに色々教えてもらいましたから」
「それでも、独学で学科一発合格っつのはすげぇって!あぁ、俺も早く取りてェ」
「私はそれよりも、早くたくさん経験積みたいです」
「なんかシカマルと同じこと言ってんな」

 同じこと?と、聞き返しながら、いま聞いたばかりの犬塚さんの言葉が何故かとても嬉しく感じた。

「ああ。資格より経験のが大事だって、よく言ってんぜ」
「 私も、そう思います」
「でもよ、んな事言ってるくせにシカマルも一発合格だったんだから、やっぱすげぇけどな」

 ふーん、やっぱり。
 一度で合格するってのは奈良さんらしいな。

 犬塚さんの言葉を聞きながらそんな事を思っていると、喫煙室のドアが開いて奈良さんが現れた。

「あんなめんどくせーもん、何回も受けられっかよ」
「あ。シカちゃん、聞こえてた?」

 照れ臭そうに頭をガシガシと掻いている奈良さんを見ながら、微笑ましい気持ちが込み上げる。

「ああ。キバ、声でけぇからな」
「で、アスマさんとの打ち合わせは終わったのか?」
「一応な。わりぃけど、今日も残業してもらう事になりそうだぜ」
「私は全然構いませんよ」
「じゃあ、また天姫ちゃんに会えんじゃん」

 奈良さんと顔を見合せて笑いを噛み殺している横で、いつも通りに明るい犬塚さんの表情が何故か眩しかった。

 裏表のない愛情を素直に表現出来るこの人になら、天姫の事を任せられる気がする。
 天姫も多分、本気では嫌がってないと思うんだけどな…

(犬塚さんって、本当に天姫の事が好きなんですね)
(ああ、どーしようもねぇな)




 そういえば、週末の送別会の件、私まだ奈良さんに伝えてなかったよね。
 言っておかなくちゃ。



 悠然とした様子で燻ぶる紫煙を身に纏っている奈良さんを見ると、確かに皆が噂する通り、とても綺麗な手をしていた。
 給湯室で女の子たちが会話するのをいつも聞いているからなのか、ついつい最近では奈良さんの指に目が行く。
 ほんの少しだけその様子に見惚れた後で、私は会話を切り出した。

「奈良さん」
「ん?」

 やわらかく力の抜けた、この相槌がすきだ。

「金曜の晩なんですけど、定時に上がらせて頂いてもいいですか?」
「勿論、構わねぇけど」
「実は、……」

 理由を説明しようとした所で猿飛さんが喫煙ルームのドアを開き、会話が中断された。

「シカマル、ちょっといいか」
「まだ何かあんのか」

 肩を並べて綱手サンの席へと向かう奈良さんと猿飛さんの背中を見送りながら、犬塚さんとデスクへ戻る。
 送別会だってことは後で伝えれば良いや。と、思っている内に忘れてしまった。




 席に戻り仕事を再開して30分程経った頃。
 不意に耳元で聞こえてきた奈良さんの声に、びくっとして顔を上げた。

「わりぃ、森埜」
「!」
「これ、やっといて」

 机に向かう肩越しに書類を差し出している奈良さんから、その束を受け取って。ぱらぱらと捲ると、ひとつひとつに指示事項が書き記された付箋が、たくさん貼られていた。

 こんな風にしてもらえると、すごく仕事がやりやすい。
 それに、奈良さんって字もキレイなんだなぁ。

「いつまでですか」

 首だけで振り返ると、びっくりするほど近くに奈良さんの綺麗な顔があって、思わずどくりと心臓が跳ねる。
 そんなに近くにいるとは思わなかったから。

「森埜、顔赤ぇぞ」
「えっ?」
「今朝は顔色悪かったし、大丈夫か?」

 大丈夫です。と、返事をしながら、奈良さんにこんな風に心配して貰えるのが嬉しくて、ついつい顔が綻ぶ。

「調子わりぃ時は無理すんなよ」
「はい。で、いつまでですか?」
「じゃあ、今週中に」
「分かりました、急ぎで欲しいものとかあります?」

 書類の束を捲りながら指示事項を確認している私の横で、奈良さんはふっ、と表情を崩す。
 大きな掌をポンっと私の頭に乗せると、何度かやさしく撫でた。

「気合い入れ過ぎんな?一緒に楽しもうぜ」

 その微笑みを交わし合う私と奈良さんの姿を、犬塚さんと猿飛さんが見ていただなんて。
 全然気が付かなかった――







 翌日も、いつものように早朝から喫煙ルームで森埜と打ち合わせ。そこへ、煙草を吸わない筈のナルトが、満面の笑みを浮かべて現れた。

「おはようごさいます」
「どーしたんだよ、ナルト。お前、煙草吸わねぇだろ?」
「ふたりが見えたから、ちょっと覗いてみたってばよ。シカマル、この子が我愛羅の会社の子?」

 ああ、桃地さんとこの森埜。と、紹介すると彼女はナルトに笑顔を向けて喋り始めた。

「森埜林檎です。我愛羅さんにはいつもお世話になってて、お友達なんですよね?」
「俺は、うずまきナルト。我愛羅とは親友だってばよ」
「んで、俺とキバの中・高の同級生で、所謂“腐れ縁”ってヤツ」
「そうなんですか、宜しくお願いします」

 それから他愛もない世間話を暫くして。じゃあ、私はお先に。と言葉を残して出て行った森埜の背中を、ナルトとふたりで見送る。
 直後、楽しくてたまらないと言いたげな笑みを浮かべたナルトが、顔を寄せてきた。

「シカ、我愛羅が言ってたんだけど」
「何だよ?」
「あの子、会社でなかなか人気あるってよ?」
「へえ…」

 気のない返事を返しながら、俺の心のなかでは僅かに不穏な波が生まれていて。それに気付かれないように、ポーカーフェイスに力を入れた。

「それにゲンマさんやアオバさんも、可愛い子だってすっごい噂してたってば」
「へぇ、そうかよ」

 俺の顔を覗き込みながらニシシと歯を見せて笑ったナルトは、いきなり肩に腕を掛けて。まるで俺のなかの小さな焦燥を煽るように、言葉を続けた。

「シカが指名したんだろ?」
「まあ、」
「早いトコ、モノにしちまえよー」

 ばっ!んなこと言われて、俺は何て返事すりゃいいんだよ?
 別にそういうつもりで指名したんじゃねぇっつうの。
 ただ純粋に今回のプロジェクトを成功させるため、一緒に楽しんでひとつのものを創り上げるため。
 そういう意識だけで森埜を選んだ。

 だから…――

 相変わらず俺を見て楽しそうに笑っているナルトに向かって、口を開こうとした瞬間。怒りの表情を浮かべたサスケによって、勢いよく喫煙ルームの扉が開かれた。

「ナルト、行くぞっ!」








 ――今日はうちはクンもうずまきクンもスーツだったねー。
 やっぱり男の人って、スーツ着ると印象変わりますよね?
 うんうん、鋭さが増すのかな…うちはクンなんて、ますます麗しくて見惚れちゃう。
 うずまきさんも可愛いですよー。
 不知火さんや山城さんも、渋みが増して素敵だけどね!ライドウさんとか。

 そう言えば、山城さん達と組んでるJVの担当者さんって、すごい美人ですよね?
 彼女、綺麗なだけじゃなくって、仕事もバリバリらしいよ。不知火さんが、ビビっちゃうくらいだって。
 そうなんですか、あのプロジェクトも今が山場ですもんね。

 それより、早くまた奈良クンと犬塚クンのスーツ姿見たいなー。
 来週プレゼンって言ってたから、その時はきっと見れますよ!
 そうだね――


 喫煙ルームを出て、化粧室へ向かう。相変わらず噂話の絶えない給湯室の前を通り過ぎると、慌ててデスクへと戻った。

 山城さんのプロジェクトのJV担当者ってのが、この前名前を聞いたテマリ女史って人なのかな?
 その内分かるか。

 一瞬頭の中を横切った思考が、未来でどんな意味を持つのか、この時の私にはまだ分からなくて。
 目の前の仕事を確実にこなしていくことばかりを、ただ考え続けていた――






 金曜日の午後のプロジェクトブースは、とても静かだった。
 犬塚さんは現場を飛び回っていて、プロジェクトメンバーで会社に残っているのは私と奈良さんだけ。

 もうそろそろ、時間だな。

 この前渡された書類の指示事項は全て終わらせ、最終チェックまで済ませた。トントンと書類の角を揃えると、帰る準備をして、奈良さんの席へと移動する。

「奈良さん、出来ました」
「ん。あぁ、サンキュ」
「すみませんけど、今日は定時であがりますね」
「あー…あれって、今日だっけ?」

 ええ。と返しながら上着に袖を通していると、首だけを私の方に向けた姿勢で奈良さんはやわらかく微笑んだ。


 今日は眼鏡なんだ?
 何だか、最初に出会ったあの屋上での奈良さんを思い出すな。
 あの時の私は、眼鏡のレンズの奥に隠された奈良さんの双眸をじっくり見てみたい……と、思ってたんだよね。


「で、どっか行くのかよ?」
「会社の方で、送別会があるんです」

 へぇ、楽しんで来いよ。と言葉を掛けてくれる奈良さんは、あの頃から随分距離が近くなったのに、あの日感じた不思議な予感は、今でも薄れず形を変えずに私のなかにある。

「お先に失礼します」
「おつかれさん」

 その6文字の言葉から溢れ出る奈良さんの人となりが、限りなく好ましいものに思えた。


 事務所を出て化粧室に向かいながら、慌てて仕上げた書類の事がどうしても気になって。また何か奈良さんに迷惑を掛けるんじゃないか、あの微笑みを曇らせてしまうんじゃないか。
 そんな謂れのない不安に駆られたのは、きっと私のなかで奈良さんの役に立ちたい、期待に応えたいという気持ちが大きくなり過ぎていたから。

 でも私はまだ、そんな気持ちが生まれる本当の理由には、思い至らなかった――







 森埜の定時上がりの理由を“送別会”と聞かされて、妙な具合に胸が騒いだ。
 事務所から出て行く細い背中を見送り、机に向き直ると いつも背後から感じている彼女の気配がないことに、思った以上の寂しさを感じている自分がいて。

 たまたま今はうちの会社に出向して貰っているが、実質森埜は桃地さんの社に所属している。送別会があれば出席するのが当然だし、業務に支障がない以上は俺がとやかく口を出す問題じゃねぇ。
 それは、分かっているのに、胸の奥がもやもやと澱んでいた。

 さっさと仕上げて、偶には俺も早く帰るか。


 森埜から受け取った書類をぱらぱらと捲りながらチェックしていると、さっき出て行ったばかりの彼女が戻って来て。その変わらない笑顔を見ながら、馬鹿みたいに動悸が激しくなった。

「あの、」
「行かねぇの?」
「行きますけど。さっきのヤツ、大丈夫かなって不安になって」
「ああ、今見てる部分は取り敢えず大丈夫みてぇだけど?」

 安心しろよ。笑顔を返すと森埜は手に持っていたちいさな紙を俺の方に差し出した。

「もし何かあったら連絡下さい。これ、私の携帯の番号とメアドです」

 何気なく渡されたその紙片を受取りながら、かすかに触れ合った指がやけに熱を帯びているようで。

「じゃあ、行きますね」
「ああ。気ぃつけてな」

 軽く言葉を交わしながらも、思わず緩んじまいそうになる口元に、密かに力を込めた。


 何事もなかったかのように立ち去る森埜の背中を目で追う。見えなくなってからもしばらく。誰もいないそのドアを見つめ続けた。
 俺はバカか。
 止まってしまった思考の続きを促すように、頭を何度かガシガシと掻くと、紙片をデスクの脇に置いて、書類に向き直る。


 登録、しといた方が良いよな。
 つうか、森埜のヤツ、どういうつもりなんだ?
 まあ、あの仕草からすっと、深い意味なんてねぇんだろうけど。

 さっきまでチェックしていた書類の続きを暫く目で追ってみたが、どうしても脇に置いたその小さな紙片が気に掛かって。気にかかって。携帯を取り出すと、電話帳を開いた。

 メアド登録って、めんどくせー…
 俺の携帯で女の番号登録すんのって、5人目か。おふくろと、イノの奴に無理やり登録させられたイノ・サクラ・ヒナタだけだもんな。
 勝手に削除したらこえ〜から、そのまんまにしてあっけど、別にメールなんて送んねぇし。

 心の中でぶつぶつと呟きながら、携帯のキー操作をする俺は、多分自然に目元が弛んでいて。ひさしぶりに登録する女性のアドレスが、森埜のものだという事が、訳もなく嬉しかった――


2008.04.19
[補足]
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