「ほら、貸せよ」
「え?」
「持ってやるっつってんだ」
「奈良さんっ…いつもありがとうございまーす」
「別に、たいしたことじゃねぇだろ」


 事務員の女の子が重そうに運んでいたダンボールを、まるで軽い荷物のように容易く抱えあげる。無造作に彼女のデスクに運ぶ奈良さんを見ながら、いかにも彼らしいと、ほほえみが零れた。

 そんな事をするから、女の子たちはみんなあなたに夢中になるんだろうな。
 さり気ないその類の所作は、案外心に響くものだから。

 微笑みを崩さない表情のままで、遠目にその光景を見守る。
 そのときは、まだ 誰にでも等しく注がれている彼のやさしさを、好ましいものとして認識しているだけだった。
 いつも不機嫌そうに顰められた奈良さんの眉と、歪んだ口元が、隠喩のように炙り出す精神の豊かさ。
 それらに目を奪われる理由が何なのかなんて、考えもしなかった――




-scene05 フェミニスト-






「森埜、大丈夫か?」
「え、何がでしょう」
「いや。ちっと顔色わりぃぞ」

 昨日の余りに屈辱的な失敗が、いつまでも心に残って。眠れない一夜を過ごしたことを奈良さんに見透かされてしまったようで、すこし恥ずかしくなる。

「仮眠室、行くか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと資料庫行ってきます」

 訝しげに首を傾げている奈良さんの前を立ち去りながら、彼に見えないように唇を噛み締めた。

 せっかく私を選んでくれたのだから、奈良さんの期待に応えたい、と思う。
 そのために出来ることは、何でもやっておきたかった。



 ――今朝、奈良さんに荷物持ってもらっちゃった〜
 あーはいはい、見てたわよ。羨ましいこと…
 今日は奈良クン、スーツ姿だったもんね。カッコ良さ5割増し?
 それより私は、うちはさんの方が良いな。あのクールな視線が、堪らなくカッコいい!
 でも、うちはクンって彼女いる噂があるわよ?
 えぇー、そうなんですか?じゃあ、うずまきさんに乗り換えちゃおうかな。
 全然キャラ違うじゃない、あんた誰でも良いの?
 だってふたりともカッコいいじゃないですか〜
 確かにね――



 給湯室での会話を通りすがりに聞きながら、資料庫へと急ぐ。
 今日は午後から現調の予定だから、その前に一通り目を通しておきたい。


 膨大なファイルを抱えて事務所に戻ったのは、それから20分後の事だった。

 両手に抱えたファイルの束。このままでは扉をひらけない。一旦足元へ置こうか、それとも不自然な姿勢のまま無理をしようか。ドアの前で悩んでいると、書類を抱えた奈良さんがこちらへ近付いて来て、さり気なく扉を開けてくれた。

 奈良さんって、こういう時にすぐに気付いてくれるんだよね。
 でも、何でそんな開け方なの?
 これじゃ、奈良さんの腕の下を潜らなきゃ、事務所に入れないじゃない。

「ほら、入んだろ?」
「あ…りがとうございます」

 自分も書類を持っているからなのか、片手で扉を押さえながら小さくドアを開く仕草。
 奈良さんは早く入れよと言うように笑顔を浮かべていて。
 その胸元に触れそうになるくらい近くを通り過ぎながら、ふわりと漂う奈良さんの香りが、心地良かった。

 私と同じ香水とは思えないよね。
 何でこんなに違う香りになるんだろう。

「すげえ量だな。ちっと持ってやろうか?」
「いえ、大丈夫です」

 事務所から出て行くのかと思っていた奈良さんは、私の横に並んでデスクの方へ歩き始める。
 彼はドアを開けるためだけに私の方へ来てくれたんだと気が付けば、それがとても嬉しかった。

「現調、14時からだから13時には事務所を出んぞ」
「はい。じゃあ、午前中の内に急いでこれに目を通しておきます」

 あんま、無理すんなよ。私の眼を見つめる奈良さんを見上げながら、早く彼の役に立ちたいと、気持ちばかりが逸っていた――







「天姫ちゃん、今日もキレイな脚してんな」
「毎日脚が変わる訳ないでしょ。犬塚さん、そんな所ばっかり見ないでください」
「だって、マジでキレイなんだもん。仕方ねえだろ」

 確かに、制服の短いボトムスから伸びている天姫ちゃんの脚は、俺が見ても綺麗だと思う。
 思うけど、キバ……心ん中で思ってんのと、そうやって口に出すのとじゃすげぇ違いなんだって。分かってねぇのか、それとも分かっててわざと言ってんのか。
 つうか、毎回そんなこと言うのって、やっぱ立派なセクハラじゃねぇの?

「なあなぁ、天姫ちゃん」
「もう、何ですか?」
「マジでデートしようぜ?」
「犬塚さん、代金払ってください…」
「天姫ちゃんがデートしてくれるんなら払う!」


「………奈良さん、」

 いきなりキバから俺の方へと向き直って言葉を掛けてきた天姫ちゃんは、今日も顔が引き攣っていて。

「あぁ?」
「犬塚さんの分、立替お願いします」

 苦い笑顔で財布から千円札を取り出すと、森埜と肩を竦めながら小さく笑った。

(あいつらも、毎回懲りねぇよな)
(ほんとですね…)





 午後からの現調に合わせて、すこし早めの昼食を済ませる。一通り準備を整えた俺と森埜は昼休みが終わる頃には、いつでも出掛けられる体勢で各々のデスクについていた。

 幾つかのプロジェクトを兼任していて、なかなか捕まらないアスマが、事務所に戻ってきたのはそんな時で。
 俺はちょっと気になっていたことを、取り敢えずアスマの耳に入れておくか…と、急に思い立った。これを逃すと次いつ捕まるかわかんねえ。

 背中合わせの席に着いている森埜の方へと、椅子に座ったまま下がって声を掛ける。
 振り返った彼女は、何故か少し驚いたような表情をした。

「悪ぃんだけど先に駅まで行っといてくんねぇ?」
「はい、今日は地下鉄で移動でしたよね」
「ああ、分かる?」
「もちろん」
「俺、ちっとだけアスマに相談しときてぇ事があっから」
「分かりました。じゃあ、駅の入口で待ってます」

 先に出ますね。と、事務所から出て行く彼女を見送って。俺はアスマを捕まえるために、荷物と上着を抱えると、慌てて立ち上がった。







 呼び掛ける声に無意識で振り返ったら、奈良さんの顔が思ったより近くにあって、ほんの少し驚いてしまった。

 もしかして私、顔が赤くなったりしてないかな?
 奈良さんって近くで見ると、整った顔立ちがますます綺麗に見えるから、ちょっと緊張するんだよね。


 EVを降りて外に出ると、すこし曇った空から霧のような細かい雨が降り注いでいた。

 傘を差すほどじゃない。
 すぐに止みそうだし。

 かすかに熱る頬に、外気と細かい雨粒から伝わる心地よい冷えを感じながら、駅までの道を歩く。
 たぶん奈良さんのことだから、そんなに待たない間に姿を現すだろう。


 地下へ降りる階段の入口で、ちいさな庇の下に雨宿り。そっと降り注ぐ細かい水滴の方へ掌を差し伸べて、雨を感じていたら、遠くから奈良さんの声が聞こえた。
 視線を動かせば、私には背中を向ける姿勢で背筋をしゃんと伸ばした女性と奈良さんの姿。

「悪ぃ…」
「いえ、こちらこそ」

 錆びた黄金色に輝く綺麗な髪を持つ女性は、奈良さんと同じように図面ケースを肩に掛けていて。彼女も同じ業界の人なんだなあということだけは、すぐに分かった。
 すごく仕事の出来そうな感じが、立ち居振る舞いから伝わってくる大人っぽい女性。

 すれ違いざまに彼女と肩をぶつけた奈良さんは、いつも事務所で見ている彼には違いないのに。互いにちいさな謝罪の言葉を発したその女性と奈良さんの姿が、違う世界のワンシーンに見えた。
 まるで切り取られた一枚の絵のように、記憶の底に刻み込まれる不思議な感覚。

 雨に濡れているとは思えないのんびりとした足取りで、私の方へ向かってくる奈良さんは軽やかにスーツのジャケットの裾を翻していて。事務所で見たシャツだけの姿とは少し雰囲気が違って見えた。

 振り返ってこちらをいつまでも見ているその女性は、目を見張るほどに美しい表情。意味ありげな視線の理由を探ろうとしたけれど、その時の私には知る由も無かった。

 彼女の存在がこの先、私の心に密やかな波紋を呼び起こすことになるなんて。気が付けるはずもなくて。


「奈良さん」
「おつかれさん」

 わりぃな、待たせて。やわらかい微笑みを浮かべた奈良さんの声は、自分に向かって発せられたものだということ。それが、何故だか無性に嬉しかった――







 さっきすれ違った女、どっかで見覚えあんだよな……誰だった?
 同業者って事は、コンペか何かで同席したのかもしれねぇな。
 まあ、別に気にするほどのことじゃねぇか。

 待たせていた森埜の方へと近付きながら、俺の脳裏を横切った思考はすぐに消えた。

「お前、一人でそんなに荷物持っていかなくても、置いといてくれりゃ俺が持って来たのによ」
「いえ。これ位持てますよ?いつもの事ですし」

 良いから、男には甘えとけ。森埜の手から重そうな荷物を受け取ると、並んで地下への長い階段を降りる。

「森埜って、いつも地下鉄?」

 いいえ。と、首を振る森埜の長い髪が、吹き上げる風に鮮やかに揺れていた――







 平日の昼間の地下鉄は、座れはしないけれどぎゅうぎゅうという感じでもない。私と奈良さんは、肩が触れ合いそうな距離で並んで立つと、窓の外の暗い闇を見つめていた。

 それにしても、地下鉄の揺れって慣れなくてふらふらする。
 今日はヒールの靴じゃない方が良かったかな…。

 ぼんやりとそんな事を考えていた最中、カーブに差し掛かった地下鉄がひと際大きく揺れて。足元が覚束ないまま、ぐらりと身体が傾いだ。

「危ねぇから掴まってろ」

 倒れそうになった私の腕を掴んで、自分の方に引き寄せる。その奈良さんの言葉が、今朝から何度も目にした彼の優しさに重なって、つい笑顔になる。

「奈良さん、誰にでも優しいんですね」
「んな訳ねぇだろ」

 一瞬、照れ隠しの微妙な表情を私の方へ向けた奈良さんは、そっけない様子ですぐに視線を外していて。それが妙に可愛く見えた。

 案外、フェミニスト達ってのは、本人に自覚がないものなのかもしれない。



「ほら、」
「スイマセン」

 さも当然の事のように、無造作に私の方へ差し出された奈良さんの腕を借りて。ふと顔を上げれば、闇に反射した地下鉄の窓に並ぶふたりの姿。

「奈良さん、背高いんですね」
「そっか?普通だと思うぜ」

 高めのヒールを履いている私との身長差は、余りなくて…数センチってところだろうか。
 じゃあ、奈良さんは175〜178cmくらいか。
 今度から、奈良さんと外出の予定があるときはもう少し低めのヒールにしようかな。

 何となく“つりあわない”感じがするから。

 そんなことを思っていたら、不意に奈良さんの大きな掌が私の頭をポンっと叩いた。
 驚いて見上げた奈良さんは、少しだけ口元を歪める笑みを浮かべている。

「俺は、これ位が理想だけど?」

 さらりと紡がれた言葉の飾り気のない様子が、やけにドキドキと胸の高揚を煽った。

 なんで、私の考えてた事がわかったんだろう。
 そんな風にされたら、また頬が赤くなりそう。

 別に奈良さんとお似合いになりたいとか、付き合いたいとか思ってる訳じゃないんだけどな。
 だって、奈良さんはいつも給湯室での女子社員の噂の的で。そんなにモテる人が彼氏になったら、きっと大変だろうなって思うし。

 もしかしたら、さっきすれ違ったあの女性の印象が、私の中に残っているせいなのかもしれない。
 あの女性と奈良さんは、見た目も背のバランスも雰囲気も、すごく似合ってたから。

 きっとそれだけのこと――






 仄かに頬を染めている森埜を横目で見ながら、いまこいつは何を考えているんだろうと興味が湧いた。

 窓越しに何度も重なる視線の奥に、森埜の思惟を探ろうとしたけれど、闇に反射したガラスからの曖昧な視覚情報では、微妙な心の模様まで読み取ることはできなかった。

 ただ。
 目が合うたびに森埜の顔に浮かぶ穏やかなほほえみは、いまの俺にとってきっと必要なものだ。そんな淡い確信が、通過する駅ごとに流れ去る光の帯に乗って、脳内で細く長くたなびいていた――







「なあ、林檎ちゃん」
「はい?」
「天姫ちゃんって、どんな男が好きなの?」
「たしか、前の彼はワイルド系でしたよ」
「じゃあ、天姫ちゃんの好みって俺にぴったりじゃね?」
「そうですね。でも、その前は犬塚さんと正反対のタイプだったかな」
「正反対ってどんな?」


 俺が席を離れている隙に、世間話をしているらしいキバと森埜の声が聞こえて来て。アスマとの会話の途中に、ふと視線を動かした。

「シカマル、どうしたってんだ」
「いや、別に何もねぇよ」
「すげぇ眉間に皺寄ってんぞ?」
「んな事ねぇって。つうか、いつもの事だろ?」

 時間勿体ねぇし、続きやろうぜ。言いながら、またも意味深な笑みを浮かべる髭面をじろりと睨むと、目の前に積み上げた資料の束を、ワザとらしくアスマの方へと押しやった。

「なんだ、シカマル。やけにイライラしてんなァ」
「気のせいだっつうの」
「息抜きに森埜誘って、煙草でも吸いに行くかぁ?」
「それより…さっさと続き、やっちまおうぜ。一服すんのはそれから」


 キバと森埜が喋っていることには、特に深い意味などないと分かっている。ただの世間話。
 それも、キバの口説いている天姫ちゃんと森埜が親友だと言うのがその理由で。ふたりが仲良く喋ることに対して、とやかく言う必要はないのも、ちゃんと、分かっていた。

 生来キバは人懐っこい性質で、どんな相手にも自然に近付いて、いつの間にか懐に入り込んでいるようなタイプだ。
 だから、数日の付き合いですっかり打ち解けて、仲良さそうに関係を築いて行くのは当然で。そんなふたりに、別に俺が、変な感情を持つ必要なんてまったくない。

 だけど、何か――


「おーい、シカマル」
「あ?」
「お前、俺の話聞いてんのか」

 アスマの声ではっと顔を上げる。大きな掌を俺の顔の前で振りながら、お決まりのにやにやと崩れた表情を作っている髭面が眼に入った。

「聞いてるって。で、これは何処に任せんだよ?」
「そーだな。俺の考えでは、」

 アスマの言葉を耳だけで追いながら、頭のなかでは全然違う思考が駆け抜けていて。突如湧き出した自分のなかの不可解な感情に、俺はふたたび囚われ始めていた――
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