「初日にいきなりで悪ぃんだけど、森埜 残業いける?」
「もちろん、そのつもりで来ましたから」
「じゃ、今夜も夜食は天姫ちゃんな」

 キバ。お前の頭ん中はそればっかなのか?
 それに、また同じこと言ってるっつうの。
 もしかして、すっかり開き直ったか?

(仕方ねぇやつだよな、もう放っておくか)
(そうですね…)


 俺と同じ事を思っているらしい彼女と顔を見合せる。噴き出しそうな笑いを堪えながら目線だけで会話を交わしていると、頭上から響く呆れた声。喫煙ルームから戻ったばかりのアスマは、燻ぶるような匂いを身に纏っていた。

「お前ら、森埜の歓迎会はどーすんだ。してやらねぇつもりか?」
「そう、っすよね…」
「じゃあさ、天姫ちゃんの所にそれも頼んだらいいじゃん」

 アルコールも行けんぜ?というキバの言葉に、アスマが呆れたためいきを吐く。

「おいおい、ここでやるつもりかァ?」
「私はどこでも構いませんよ。歓迎して頂けるだけで嬉しいですから」







 あの日。突如として俺の胸を締め付けた理由の付かないちいさな欲望は、日々の雑事に追われてすこしずつ薄れていった。

 平穏を取り戻した日常の中で、僅かな光彩を放つ森埜。
 その存在は俺のなかで確実に居場所を確保し、心の柔らかい所を徐々に浸食しつつあったのに。
 それに俺が気付くのは、まだまだ先のこと――



-scene04 動揺と困惑-






 ――見た?
 結構可愛い人だったね。
 うん、性格も悪くなさそうだし、男にもガツガツしてなさそうだし。
 取り敢えず、安心してていいかもね!

 でも、もう奈良さんと親しげに喫煙ルームで肩を並べてましたよ…ちょっと妬けちゃうな。
 なかで早朝から打ち合わせしてたでしょ、深い意味なんてないんじゃない?

 ホントに、ふんわりした雰囲気なのに、仕事のほうはバリバリって感じの女性でしたもんねー。
 あの麗しいオトコたちに囲まれて、なんとも思わないなんて、不思議だよね。
 でも、私たちにとってはその方が良いんじゃ?
 あはは、言えてるー!!――



 再び聞こえてきた給湯室の会話が指し示してるのは、きっと私のことなのだろう…と、ぼんやり思った。

 それにしても、やっぱり奈良さんってすごい人気なんだ。
 あんな人が彼氏だったら、きっと大変なんだろうなぁ――







 早朝出勤して、奈良さんと喫煙ルームでかるい打ち合わせを済ませ、仕事を開始。
 出向して2週目に入る頃には、新しい環境での習慣がすこしずつできあがっていく。

 化粧室から業務に戻ってしばらくした頃。事務所の入り口に珍しい人の姿が見えて私は立ち上がった。

「我愛羅さん、どうなさったんですか?」
「ああ、森埜。お疲れさん」
「お疲れさまです」
「今日はちょっと、私用でな…」

 図面ケースを片手に持った先輩は、相変わらずの無表情。私用って何だろうと思ったけれど、別に私が立ち入ることではない。

「そうですか、誰かお呼びしましょうか?」
「じゃあ、山城さんか不知火さんを頼む」
「分かりました、ではここで少し待ってて下さいね」
「あ、それから森埜。後で、ちょっと…」
「?……はい」

 山城さんと不知火さんに声をかけると、ふたりは連なって我愛羅さんの方へ向かった。
 揃って行かなくちゃならない程の大事なのか、それともふたりとも暇だったのかは分からないけれど。

「おう、我愛羅。久しぶりじゃねぇか。どうした?」
「不知火さん、山城さんも、ご無沙汰してます」
「もしかしてあれかな?某女史からの私的頼まれ事とか」
「……まあ、」
「あの女もすげぇよな、お前に命令出来るなんてこの世で彼女ぐらいじゃねぇの?」
「ゲンマ、ちょっと口を慎めよ。そんな事言ってるのがバレたら、大変だぞ」

 あの女って誰のことだろうか、と思いながら、私は一旦その場を離れた。


「じゃあ、確かにお渡ししましたから」
「ああ、テマリ女史に宜しく伝えてくれる?助かりましたって」
「さ、仕事に戻るか」

 会話が終わりそうな頃を見計らって彼らの方へ近付くと、一人の女性の名前が耳に入ってくる。
 テマリ女史…――テマリさんって、どこで聞いた名前だったかな?
 たしかに聞き覚えはあるのに、思い出せない。

 首を傾げて考え込んでいると、我愛羅さんに手招きされて慌てて駆け寄った。

「森埜、今度の週末の晩に身体あけといて欲しいんだけど。大丈夫か?」
「あ、はい。奈良さんに確認してみますけど、多分大丈夫かと」
「送別会で、19時からだ。場所は追って連絡する。じゃあ、急ぐからこれで」
「お疲れさまです」

 軽く手を挙げ、すぐに踵を返した我愛羅さんに挨拶をして、自分の席に戻る。


 慌てて出て行こうとする我愛羅さんの肩を親しげに掴んで呼び止め、大きな声で話をしている男の人。あれは、確か奈良さんや犬塚さんの同期の…うずまきさん。

 へぇ…珍しく我愛羅さんが少し表情崩してる、仲良いのかな。
 それに、テマリさんって一体誰だったっけ?

 そんな考え事をしながら仕事をしていたせいかもしれない。
 あんな失敗をするなんて――



「林檎ちゃん、頼んでたヤツ出来てる?」
「はい、Project Nのフォルダの中に。データ上書きしてます」
「さんきゅー。いつも林檎ちゃんは仕事が早ぇから助かるわ」

 いえ、そんな事…。と、答えながら自分のやっていた作業へと視線を戻した直後。すこし焦った犬塚さんの声が聞こえて、ふたたび顔を上げた。

「って、あれっ?」
「犬塚さん、どうかされました?」
「いや、全部データ飛んじゃってんだけど」
「え!?あぁーー、ホントだ」
「……」
「どうしましょう」
「マジかよ」

 今日の夕方にはどうしても必要な資料が、まっさらの状態になっている。それを見て私も犬塚さんもかなり慌てていると、落ち着いた奈良さんの声が上から降ってきた。

「なーに騒いでんだよ、キバも森埜も」
「あの、データが、」
「どこにもねえんだ」
「バックアップ取ってんだろ?」
「はい…でも、昨夜出来た所までしかなくて。今日の作業分は全く」
「じゃ、これからやりゃあ良いじゃねぇか。アポは4時だろ?充分間に合うって」

 顔面蒼白になっている私に、安心しろと微笑んで、奈良さんは穏やかな調子で言葉を続ける。

「俺の方も、手ぇあいてるから手伝えるし」
「 すみま、せん」
「考えても見ろよ、今日の午前中で出来た作業をやり直すだけだろ」
「そーだよな、あと2時間もあるし。3人でやりゃ何とかなるか…林檎ちゃん、気にすんなよ」

 気にするなと言われて気にしなくなれるような、単純な精神構造はしていない。
 でも、いまは悩んだり落ち込んでいる暇はなかった。

「じゃあ、俺が図面直すから。キバは予算絡み全般、それ以外を森埜な」
「げっ、俺のが一番面倒じゃねぇの?」
「あ。じゃあ、私がそっちやります。犬塚さんは資材関係の画像データ引っ張って、プレゼン作成お願いしてもいいですか?」
「りょーかい!」

 目の前で拳をコツンと合わせている奈良さんと犬塚さんをちらりと目の端にとらえて。一気に頭を切り替えると、関係資料を引っ張り出した。



 ふたりの手を煩わせ、すべての資料が完成したのは午後3時をすこし回った頃。
 犬塚さんは慌ててそれらを纏めると、会社を飛び出して行った。その背中を見送りながら、気持ちはどんよりとしている。終わったのに、すっきりしない感覚。
 拭い去れない後悔と自己嫌悪の念にとらわれて、私はがっくりと肩を落とした。







「おつかれさん。間に合って良かったじゃねぇか」
「ホントにすみませんでした」

 キバの背中を見送りながら肩を落とす森埜を、黙って見ていられなかった。

「んな気にすんなって。ちょっと一服しようぜ」
「……はい」

 まだぼんやりしている彼女を促し喫煙ルームへ移動して、それでも煙草に火を付けようともしない森埜の顔を覗き込む。

 そんな風に頼りない表情してんの、見てらんねぇ。

 慰めの言葉が思い付かず、森埜の頭を軽くポンっと撫でると、泣き崩れそうだった硬い表情が、僅かにやわらかく緩んだ。

「お前はそうやって笑ってる方が良いんじゃねぇ?」
「……」
「マジで気にすんなよ」
「はい…ありがとうございます。次から気をつけますね」

 ああ、誰にでも失敗はあるんだしよ。と言いながらもう一度森埜の頭をポンポンっと撫でて。煙草を取り出すために、シャツの胸ポケットを探った。

「あ。俺、煙草切らしてるみてぇ…」
「私ので良ければ、どうぞ」
「森埜の、何だっけ」
「マルメン・ウルトラ(マルボロ・メンソール・ウルトラライト)です」
「あー、メンソールか…」
「奈良さん、何でしたっけ?」
「マル赤のソフト(マルボロ・ソフトパック)」

 買って来ましょうか?という森埜に首を振って遮り、財布を取りにデスクへと向かう。

「ここで待ってろよ、買ってくっから」

 俺と入れ違いに喫煙ルームへ入って行くアスマの背中を見ながら、何となく気が逸ってEVホールへと急いだ。







「お疲れ様です、猿飛さん」
「ああ、お疲れ。何だぁ、シカマルのヤツやけに慌てて出て行ったけど」
「え……慌ててました?」
「いや、気のせいかもしれねぇな。それより、どうした?何か元気ねぇぞ」

 大きな身体で髭面なのに、すごくやわらかい雰囲気を持っている猿飛さんは、特異な人だ。
 どんなことでも受け入れてくれそうな気がして、なんでも話してしまいそうになる。

「俺に話して楽になれるようなことなら言ってみろ」
「はい……」

 かなりキツイ煙草の煙を気持ちよさそうに吐き出しながら問いかける口調は、とてもやさしくて。気が付いたら、さっきの失敗を自然に打ち明けてしまっていた。





「……という訳なんです」
「なるほどなぁ」

 期待に応えたいって気持ちが強すぎて、そのせいで期待を裏切ってしまった。
 まだ先程の失敗から生まれた動揺が消えなくて、私ってこんなに弱い女だったかな?と自分でも不思議になる。
 こんな気持ちになるのって、何故なんだろう。


「せっかくこちらに呼んで頂いたのに、迷惑掛けてばかりのようでお役に立てなくて」
「それは気にしなくていいんじゃねぇか?」
「……」
「事実、今日のことは簡単に取り返しもついた訳だし」
「それは、そうなんですけど」
「それに、プロジェクトはまだ始まったばかりなんだから」
「もしかしたら、期待外れなんじゃないかと…」

 私がそう言うと、猿飛さんは急ににやりと顔を歪めて、可笑しそうに笑った。

 え?私の言った言葉って、何か変だっただろうか。
 そんな風に不可解に笑われると、困惑するんだけど。

「それはねーな」
「え……?」
「シカマルはあんな風に見えて、ヒトを見る目だけは確かだと思うぞ」

 猿飛さんの言葉の意味が分からなくて、ますます困惑する。
 奈良さんは確かに仕事のできる人だと思うけど、それとヒトを見る目の話とがどう繋がるんだろうか。彼の言葉の裏を探ろうと、頭をフル回転させていたら、低い声が続いた。

「お宅の会社からヒト出してもらうって話になった時に、シカマルの奴が珍しく自己主張してな」
「……はい」
「ほら、あいつって面倒なことは流れに任せるみてぇなタイプじゃねぇか」
「そう、かもしれないですね」

 私のなかでの奈良さんのイメージはまだ不確定で、猿飛さんの言うことに全て納得できる訳ではなかったけれど。何を言わんとしているのかが掴めないことには話が進まないので、相槌を打つことで続きを促す。

「その、面倒臭がりの典型みたいな男が、あんな風に意見を発するのに正直俺は驚いてんだよ」
「え…」
「だからな、」

 そこで一旦言葉を切ると、猿飛さんはふたたびにやりと顔を歪めた。
 なんなんですか、その顔。

「お宅から誰か出て貰うんなら、あんたが良いってあいつが言ったんだよ」

 ふわり、吐き出される煙を見つめながら一瞬なんのことか分からなかった。
 それはもしかして、奈良さんが、私と一緒に仕事をしたいと思ってくれたってことだろうか。この前の桃地さんとの一件で。

「……ほんと、ですか?」

 本当にそうなんだとしたら、それはすごく嬉しい。

 一気に跳ね上がった高揚感で、心臓の音が煩くて身体も強張って。
 頬まで赤くなりそう…――

「あぁ、何で俺が嘘なんか吐くんだ」
「そう、ですよね」
「そ。あんたは、あいつの指名でここに来る事になったっつう訳。だから、そんなに自分を卑下すんなよ?」

 はい……。私が返事をするかしないかのタイミングで、奈良さんが喫煙ルームに戻ってきた。

「なに余計なこと喋ってんだよ?」

 すごく無造作でぶっきらぼうな調子で紡がれた言葉とは対照的に、複雑な表情。そんな奈良さんが照れているのか怒っているのか、それとも、ぜんぜん別の感情を抱いているのか。

 私には分からなかった――







 喫煙ルームに戻った瞬間にとんできた、にやにやと意味ありげな含み笑い。そんなアスマに、正直なところ、かなりマジで苛立っていた。

「さーて、邪魔者は退散するか」

 だから。そういうこと、言うなっつうの。
 どうせ俺が本気では切れねぇと思って、面白がってんだろ?

 まだ身体も表情も強張らせたままの森埜は、かすかに頬を染めて。まるで縋るような瞳で俺を上目づかいに見つめていた。
 それを見ている俺まで、なんだか妙な具合に肩に力が入っちまいそうだ。

 アスマが出て行ったのを確認して、俺はふっと溜息を吐くと森埜の方に向き直った。

「まあ、そういう事だから……」
「……はい」

 目の前の灰皿を見ると、アスマの吸い殻が2本だけ。
 じゃあ、森埜はまだ煙草吸ってねぇのか。

「ほら、これでも飲んで落ち着けって」
「あ、ありがとうございます」
「ホットのショートラテでいいんだろ?」
「はい。後でお金払いますね」

 それくらい別にいいって。と、言いながら買ってきたコーヒーを差し出すと、我に返ったように動き始める彼女。
 そんな森埜の姿を、何となくもっと近くで見ていたい…と、思った――







「わりぃ、ライター貸してくんねぇ?」

 奈良さんに言われて初めて、自分がここに来てからまだ1本も煙草を吸っていなかったことに気が付いた。
 シガレットケースからライターを取り出して渡す際に、何気なく指が触れる。奈良さんの指先はさっきまで持っていたコーヒーのせいなのか、自分の体温よりも随分高くて。その温度差を意識すると、何故だか心臓がぎゅっと掴まれたような変な感覚。

 何だろう、これって。

 さっきまで照れているとも怒っているともつかない複雑な表情をしていた奈良さんの顔には、もういつもの余裕が戻っていて。
 薄い唇の隙間から紫煙を吐き出している横顔は、目の前の窓のずっと先にある未来を見つめているように意味深だった。

 綺麗な横顔…――

 無意識でほーっと溜息がもれる。
 私の方へ向き直り、煙草吸わねぇの?と問いかけながら、奈良さんは喩えようもなくやさしい表情を作った。

「あんまり気合い入れ過ぎんな」
「……」
「森埜は森埜のままで充分なんだからよ」
「はい」
「あと、明日は昼一で現調(現地調査)な。準備しといて」
「分かりました」

 穏やかで、温かい空気が流れるその時間が堪らなく心地よくて。この先も暫くは奈良さんの傍で仕事を出来ることに、言い知れぬ幸せを感じている私。

 説明のつかない自分の気持ちに、かすかに困惑していた――
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