初めてその男を見たのは、グレーの空から霧のような細かい雨の降り注ぐ、ある昼下がり。
「悪ぃ…」
肩が触れ合ってすぐに離れ、接した部分から細胞が蕩けるような不思議な感覚が身体を包み込んだ。
「いえ、こちらこそ」
一瞬で目を奪われたのは、涼しげな眼もとに浮かぶ淡い微笑みのせいなのか。
それとも、微かに歪んだ唇から零れ落ちた自嘲的な笑い声のせいなのか。
もう憶えていない。
男が持っていた図面ケースから分かるのは、同業者だということだけ。
気が付けば、彼はもう私から数歩先へと距離を進めていた。
雨に濡れているとは思えないのんびりとした足取り。
それとは対照的に軽やかに翻るスーツのジャケットの裾が、私の心まで揺らす気がした。
微かに香った爽やかな香水の香りは、湿った土の匂いと混ざり合う。
鼻腔の奥深くの細胞から私の中に沁み入ると、訳もなく涙腺を弛めた。
「奈良さん」
彼に駆け寄った女が呼びかけるその名前を、この先ずっと忘れられないんじゃないかという、不思議な焦燥感。
「おつかれさん」
私じゃない誰かに向って発されたその声を、こちらに向けて欲しいと、狂おしいほどの衝動で胸が暴れる。
何故か心を捉えて離さないその風情は、まるでDe'ja` Vu。
既視感を伴い、深く記憶の底に絡みついていく。
あの日のあの瞬間は
今になって思えば
報われない未来への予見だったのかもしれない。
グレーの空から霧のような細かい雨の降り注ぐ、ある昼下がり。
切れ長の目をした、しなやかなスーツ姿の男の、永遠の囚われ人になった日――