「おい森埜」
「はい」
「奈良のヤツ呼んで来てくれねぇか」

 顔分かるよな?と言葉を続ける桃地社長のほうをふりかえる。

「どちらにいらっしゃるんですか」
「多分、屋上で空でも見てんだろ」





 胸元と袖口のボタンをあけて柄物のシャツをさらりと着こなした彼は、愛おしそうに春の青空をみつめながら、うすい唇の隙間からゆっくりと煙を吐き出している。その横顔の傍で、煙草を挟み持つ掌がやけに大きく見えた。長い指。
 袖口から覗く手首に浮き出た血管と、やわらかく細められた瞳。
 ふわりと風になびく黒髪に見惚れていると、その風に乗って記憶に新しい香りが漂ってくる。

「奈良さん」
「……ん?」

 ゆっくりとこちらへ視線を動かした彼が、私をとらえる。力の抜けたやわらかい声が心地いい。

「桃地が呼んでます」
「サンキュ。わーった、今行く」

 光を受けて反射している眼鏡の、レンズの奥に隠された瞳。
 その双眸をじっくり見てみたい と、思った――



-scene01 出逢い-


恋に墜ちる相手というのは、噎せ返るほどの群衆の中
たった一瞬すれ違っただけできっと分かるものなんだ…




「森埜、これプリントアウト30部な」
「もう出来てます」

 今回シカマルがパートナーとして意匠協力しているのは、商業建築界では有名な桃地事務所である。
 物件担当者、兼、社長の桃地さんは、いろんな意味でかなりのやり手で。強面な容貌からは想像もつかない繊細なディテールを生み出す彼に、俺も一目置いている。
 今日は直行で彼の社に出向いていた。プレゼン前の最終打ち合わせを済ませたら、昼までには自社に戻る予定だ。

「…それから、森埜。模型の仕上げ、昼に間に合うか?」
「はい」
「プレゼン前にチェックとシュミレートしときてぇんだけど」
「あと30分もあれば」

 その女は、普段から桃地さんのサポート業務をしているらしい。外見に似合わぬ仕事のできる様子に、たった数語の会話で、不思議と興味を惹かれていた。

 さっき屋上に呼びに来た姿は、どう見てもほわほわした事務の女の子って感じだったのに。第一印象ってのは、アテになんねえモノなのかもな。などと考えていたら、桃地さんの低い声が俺の名を呼んだ。

「奈良に紹介が遅れたな。こいつは、森埜林檎。俺の優秀な部下」
「森埜です、宜しくお願いします」

 名刺を受取りながら、名前と顔を脳内にインプットする。
 二級建築士、年齢は俺よりすこし下、ってとこか。

「それからこっちは、綱手先生んとこの奈良シカマル」
 つうか、お前も一級建築士先生だっけな。

「んな大層なもんじゃねぇっすよ。まだまだ下っ端でこき使われてるんすから」
「綱手女史にかかったら形無しだな」
「ほんとに。奈良です、よろしく」

 掛けていた眼鏡をはずして名刺を手渡せば、彼女は眩しいものでも見るように目を細めて、「お名前は存じてます」とやわらかい笑顔を向ける。

「コーヒーでもいれてきます」
「頼むわ」
「桃地さんはいつも通りブラックですよね、奈良さんは?」
「じゃあ、俺もブラックで」





 どうぞ。と、目の前にベンディングマシーンのカップを置く手。揃えられた指先は厭味のないナチュラルベージュのマニキュアに彩られている。
 彼女が傍を離れる瞬間に、コーヒーの匂いに混じってふわりと良い香りが漂う。

 ――俺、この香り知ってる?

 彼女は、そこが決まりのポジションかのように、桃地さんの隣へ腰をおろす。頭をくっ付けながら資料を二人で覗きこんでいる姿に、ぼんやりしていた俺も慌てて手元の資料に手を伸ばした。

「あの、桃地さん」
「ん?」
「私、どうしても諦めきれないことがあるんですけど」
「またややこしいこと言いだすんじゃねぇだろうな」

 ややこしいかどうかは分かりませんが、と続けた彼女は思いがけず真剣な顔をしていたから、桃地さんはためいきをついて彼女に向きなおる。

「聞いてやるよ」
「ファサードにガラスを使うんだったら、もう少し大きな面積で大胆に持って来た方が」

 こんな時になって一体何を言い出すんだ、という非難を孕んだ沈黙がほんのすこし続いた。

「そーっすね、俺も賛成です」
「奈良?」
「特に1Fは床レベルを階段8段分高くしてる訳ですし、」
「……」
「浮遊感が増すっつうか」
「お前ら、なんで今更……無理だろ」

 難しい顔をして黙り込む桃地さんの横で、森埜は不安そうな表情。それを見ていたら、何故かいつもの面倒臭がりが影をひそめ、必死で弁護をしていた。

 もちろん、それは俺の本音でもあったけど。
 でもなにか、もっと別の――


「その方が軽やかさもインパクトも増して、クライアントの意向やコンセプトに合うんじゃねぇっすか」
「つってもなぁ、もう」
「今なら、まだ間に合いますし」

 なんで、んなめんどくせーこと自分から言い出してんだ、俺…――

「プレゼンまであと3時間しかねぇんだぞ」
「すみません、私がもう少し早くに主張していれば」
「んー……分かった。その意見は、俺も確かに尤もだと思うしな」

 桃地さんの渋い表情はほんの少しだけやわらいで、隣の森埜もほっとしたように顔を綻ばせた。

「奈良、今日のプレゼンに附いて来い」
「へ?」
「お前の口で何とかしろ」
「いや、」
「俺は喋りは苦手だ」
「…俺もっすよ」
「仕方ねぇだろ、口出しした責任くらい取れ」

 男だろ?と言いながら、にやりと笑みを浮かべる桃地さんは、意見を変えるつもりなど毛頭ないらしい。

 たしかに俺が、自分で墓穴掘っちまったんだよなぁ。
 めんどくせぇけど。

「じゃあ、今から急いで構造の担当者に相談な。奈良と森埜で、責任もってやれよ」
「はい」
「……はぁ」


 ――コンコンッ

 そのとき、打ち合わせルームのドアがノックされて、桃地さんの部下らしき人が顔を覗かせる。

「再不斬さん、今、大丈夫ですか?」
「おう、白。どうした」
「至急決済を仰ぎたい書類があるんですが」
「今行く」

 あと、設備の再チェックもよろしく。言い残して出て行く桃地さんの背中を見ながら、俺はちいさくためいきを吐いた――



 ◆



「奈良さんまで巻き込んで、すみません」
「いや、別にいいって。俺もマジでその方が良いと思ったし」

 ほんとですか?と、笑顔になった森埜を見ていたら、面倒臭い事も、たまにはやってみてもイイかという気になっているから不思議だ。

「特に店舗のファサードっつうのは、一番印象を左右する建築物の顔だからな」
「良かった」

 本当に、いい笑顔だ。

「構造的な事に関しては、実はもう打診済みなんですよ」
「ああ、間口もそんな広くねぇし、スパンからみてガラスの面積広げてもそれほど構造上は問題ねぇだろ」
「ええ、せっかく道路側に吹き抜けを広く配置してますし、それを生かす為にも出来れば2・3階は全面ガラス張りで、と」

 その方がずっと面白ェと思うぜ。返事をしながら計画変更の猥雑さを覆すわくわくする感覚が湧きあがってくる。

 一つ変えるも二つ変えるも同じだ。

 だったら1Fの床レベル下の立ち上がりは壁面ラインを少し窪ませて、より浮遊感を煽るように間接照明で外壁をふわりと照らしてみたらどうだろう?
 道路から見える梁は、色を変える?いや、やっぱ今のままの方がいいか。

「何だか楽しくなってきましたね」
「だな」
「じゃあ、私ちょっと設備担当者に確認してみます」
「ああ、頼むわ」

 頭を突き合わせて図面を覗き込んでいた顔を同時に上げると、互いの口元には自然に笑みが浮かぶ。

「他にも確認することあります?」
「出来れば構造…1Fの床をキャンティで出すんならどれ位までOKか押さえといて」
「了解です。そうすればもっと軽快な印象になりますね」



補足:計画中の建物image


 なんか、俺いまスゲー楽しんでねぇ?

 目の前のモノクロの図面が、徐々に色付いて鮮やかに動きはじめるような、期待とも焦燥ともつかない感覚。
 胸を躍らせながら、なにから手を付けようかと思案することさえも愉しい。

 部屋から出て行く彼女の背中で、はらりと揺れた長い髪は、窓からの陽光を受けて眩しいほどに輝いて見えた。






「はぁ?お前にやってもらう仕事を、たっぷり用意して待ってたってのに」

「すんません。つう訳なんで、帰社時間がちっと遅くなりそうなんすよ」
「分かった。穴埋めは帰ってからしろよ」
「……」
「この借りはいつか、桃地からたっぷり返してもらう事にするよ」

 つうか、綱手サン…俺、今でも充分激務だと思うんすけど。

「まあ、桃地に附いて行くのも良い経験だ。しっかりテクを盗んでおくんだね」
「うす」

 取り急ぎ社に連絡を入れると、テーブルに広げっぱなしの図面に向き直る。

 急にプレゼン同席だなんて思ってもみなかったから、今日はスーツじゃねぇんだよな。まあ、ジャケット着て来てるだけマシか。
 とりあえず、あと3時間で直せる部分だけでも直しちまおう。

「森埜さん、ちょっとパソコン借りてぇんだけど」
「直しちゃいます?じゃあ私の使ってください」

 彼女に並んで歩きながら外していた眼鏡を再びかけて、桃地さんの近くの席に腰をおろした。

 さあ、どこまで出来っかな――

「今回の図面データはこのフォルダに入ってますから」
「了解」
「あと縮小して製本した図面はこっち」

 CADを立ち上げて振り返ると、すぐ傍に彼女の顔があって、柄にもなく心臓がどくりと跳ねる。
 へぇ、近くで見っと結構きれいな顔立ちしてんだな。
 って、なんだ…この気持ち?

「サンキュ。じゃあ、ちょっと借りるな」

 彼女と肩が触れ合いそうな距離で画面を覗き込めば、パソコン越しの斜め向かいの席から冷たい視線を感じる。

「林檎、僕の頼んでたものって出来てる?」
「サイさん、すみません。すぐ持って行きます」
「彼も一級建築士サンなんだから、林檎が傍に附いてなくてもそんな単純な事位きっと分かるよ」

 何だ、それ。ムシの好かねェ物言いだな。

 森埜は、慌ててサイと呼ばれた男の方へ移動する。その背中をほんのすこしの間、目で追うと、俺は図面へと集中した。







 眼鏡を掛けてパソコンに向かう奈良さんに、入れ直したコーヒーを差し出す。
 彼は鋭い目付きをほんの一瞬だけやわらげて、再び真剣な表情で画面に向き直る。その様子に、何故だか心臓を掴まれた。

 模型のチェックを進めながら横目で彼を盗み見る。横顔は、びっくりするくらいに整っていて。忙しなくマウスを動かしているその指が、長いだけじゃなくとても綺麗なことに気付いてしまった。

 だめだ、私は私でやることがあるんだから。ぼーっとしている時間なんてない。

「なあ、森埜さん。打ち出してぇんだけど、プロッターってどれ?」
「あ、はい。これです」

 近寄った奈良さんから漂う香り、やっぱり何処かで嗅いだ憶えがある気がする。
 どこだったかな?

「奈良さん、プレゼン資料用にA3でも図面打ち出して貰えますか?綴じ直すんで」
「了解。んじゃ、手伝うわ」

 眼鏡を外し眉間を指でかるく揉み解しながら、彼がこちらを振り返る。
 奈良さんは、やっつけ仕事を終わらせた後とは思えない程に余裕の笑みを浮かべていて。流石、若手有望株No.1って言われているだけのことはあるな…と、ぼんやり思った。

 手早く資料をばらして、ホッチキスを止め直すのにはそれから10分もかからず、プレゼン当日になって自己主張を押し通してしまった罪悪感は、彼のお陰ですっかり拭い去られている。

「よかった、間に合って」

 ため息交じりに吐き出した声はちいさくて、きっと奈良さんには届いてないと思ったのに。

「おつかれさん」

 そう言って私の頭をポンっと撫でる掌があたたかくて、一気に肩の力が抜けた。

 奈良さんって、
 優しいんだ――

「何だか全部終わったみてェな顔してっけど…プレゼン、これからだぜ?」
「あ、はは…そうですよね」

 私の目を真っ直ぐに見つめながら、奈良さんは咽喉の奥の方でくくっといかにも可笑しそうに笑って。もう一度私の頭をポンポンと撫でた。

「一緒に行く予定?」
「一応、同席させて頂くことになってます」

 へぇー、そう。奈良さんの気のない返事を聞きながら、何故かこの人とはまたどこかで縁があるような、確信に似た予感が、私のなかを駆け抜けていった。







まだ君は気付いていない。

まだ俺も気付いていない。

だけど、この出逢いは

確実に

未来へと繋がっていた――





たとえば――

すぐに意識する事は
なかったとしても


心の奥深くに引っ掛かり
何故か消せないもの


恋に墜ちる相手というのは

噎せ返るほどの群衆の中

たった一瞬すれ違っただけで

きっと分かるものなんだ…

広い銀河系の寄る辺ない星の

小さな国のある場所で

幾つもの偶然が重なり合って

あなたと私は出逢い

その一瞬で、

世界が変わる――




[補足]
ファサード:建築物の正面の外観のこと
キャンティ:キャンティレバー、片持ち梁のこと

建築業界を舞台に選んだので、用語に分かりにくい点などあったかと思いますが、基本は二人の恋のお話です。用語補足は必要最低限にさせて頂きました。できれば雰囲気で楽しんで下さると嬉しいです。
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