月の光には、なにか特別な力でもあるんだろうか。月光を浴びる森埜の姿にあてられて、吸い寄せられるように唇を塞いだ。無意識で。
冷静さを欠いていることを自覚したのはその後。
突然の自分の行動に驚く以上に、彼女が逃れようとしなかったことに驚いていて。
「森埜、眼を、閉じろ」
やわらかい感触と月夜の妖しさに支配される。らしくない。でも、止められない。
素直に俺の言葉に従った彼女が、何を考えていたのか。
かすかな熱に浮かされていた俺に、真実を推し量る余裕はなかった――
-extra01 理性と微熱-
自分の感情を初めて意識したのは、送別会の夜。サイの隣で微笑んでいる森埜の姿を見たときだった、と今になれば思う。あの晩を回想して、我愛羅はためいきをこぼした。
白と並んでこちらへ向かってくる彼女に、心なしかほっとしたのは、既にサイへの対抗意識に似た感情を抱えていたせいで。他人の恋路には興味などないはずが、やたらとふたりの姿が気になっていたのがその証拠だ。
「サイさん、どうかなさったんですか?」
「いや、何でもないよ。林檎、飲もう」
サイは森埜の事を、意図的に名前で呼んでいるのだ。名前を呼ぶことには、精神的な作用がある。それに気付いたのも、ちょうどその晩。
あの時から、森埜のことは他人の恋路ではあり得なかった。
そして、俺がそれに気付いた時には
もう
遅すぎた――
◆
我愛羅も林檎を気に入っているのでは、という予感はあった。
人の感情には疎い僕だけど、何故か林檎に関することだけは敏感で。それだけよく彼女のことを見ていたから、だろうか。この前事務所に現れた奈良という男にも、危険なものを感じていた。
早く何とかしなければと気は焦るのに、それとなく近付いても林檎にはなかなか気持ちが伝わらなくて。この送別会で、距離を縮めないと絶対に後悔する気がした。
「サイさん、どうかなさったんですか?」
「いや、何でもないよ。林檎、飲もう」
なのに、するりと白に林檎を浚われて、妙な思惑のこもった視線が我愛羅から飛んでくる。
もしかして僕は
戦わずして負けたのか?
◆
「すみません、我愛羅さん。私の方が先にお注ぎしなくちゃならないのに」
「気を遣うな」
姉の話を持ち出した森埜は、頬をほんのりと染め、楽しそうにやわらいでいる。
その先の展開など予想すらできずに、俺はただ森埜の姿に見惚れていた。
姉なんかより、お前の方がよっぽど可愛いと、俺は思うがな。
森埜の魅力を改めて意識したあの瞬間。感じた一抹の不安の正体は、彼女の未来に関することではなく、もしかしたら俺自身に纏わることだったのかもしれない。
(なぁなあ、我愛羅)
(なんだ)
(あのサイって野郎、もしかして林檎ちゃん狙いか?)
(どうも、そうらしいな。お前もか?)
(いや、俺じゃないってばよ…でもそうかー)
ナルトとの短い会話で、サイの感情だけでなく新たな異性の存在をを確信させられる。まだ他にもいるのか。
無関心なふりをして、楽しげなナルトを眺めながら、ポーカーフェイスの裏側で我愛羅の心は妙な動きをはじめていた。
「で、林檎。あの、奈良って男は仕事デキるの?」
「はい、すごい人だと思いますよ」
サイと森埜の会話に、こっそりと聞き耳を立てる。さもしいことをしていると思う。けれど、やめられない。勝手に耳が反応するのだ。
謂れのない焦燥感に突き動かされて、彼女の表情ばかりを目で追っていた。
◆
「で、林檎。あの、奈良って男は仕事デキるの?」
「はい、すごい人だと思いますよ。いつも落ち着いて周りを良く見てて」
「へえ」
「サイさんと一緒の歳でしたっけ?」
「ああ、確か同い年くらいのはず」
そうなんだ…そんな風には見えなかったけど。続ける言葉の端々に、奈良という男への敵対心があふれだす。制御できない。
棘だらけのフレーズを紡ぎながら、どこか、胸が透くような不思議な感覚を味わっていた。
それが“嫉妬”の具現化したものだったと、僕がやっと悟ったときには
君はもう
あいつのものだった――
◆
送別会の店の前に現れた奈良の姿に、我愛羅は妙な胸騒ぎを感じた。
息を乱してすこし怒った表情。奈良の発する声の質。それを不思議そうに見つめている森埜の視線。
お節介なナルトに、ひそかに悪態を吐いていた俺。
あの時点で、すでにぼんやりと曇った未来が見えていたのに。
何で奈良さんが?疑問を発した森埜の声は、さっきまでより鮮やかに色付いて聞こえる。
奈良の怒りを露わにした表情のなかに混じる照れが、訳もなく不快感を呼び起こした。
肩を組まれてその場を離れながら、残されたふたりの間に漂う空気が俺の胸を乱して。
我愛羅さんといっしょに仕事が出来て、本当に楽しかったです。
私、我愛羅さんのことを、すごく尊敬してるんですよ?
いつかの森埜の言葉が、脳裏をくり返しよぎる。
あの場にふたりで残されたのが、何故俺と森埜ではなかったのか。
そんな風に思う自分の感情にはまだ気付かずに、ただ訝しげな視線を投げることしか出来なくて。
もし、
もっと早く気が付いていれば、何かが変わったんだろうか?
「我愛羅。どうしたんだってばよ?」
「何がだ?」
「珍しく眉間に皺が寄ってるってばよ、いっつも無表情なのに」
「別に、何もない。行くぞ」
ナルトの何気ない言葉は、闇に沈んだ心の底を明るみにひきずり出す。囚われ始めている物が何なのか、否応なく気付かされてしまう。
俺は、
森埜を――?
◆
あの夜から、説明のつかない感情を胸に秘めたまま、我愛羅は森埜のことを心待ちにしていた。
久しぶりに事務所へ現れた彼女は、笑顔なのに、どこか憔悴しているように見える。
元々華奢な身体付きが更に細くなった様子にも、ばっさりと切られた髪にも、胸をしめつけられるような不思議な感覚を覚えた。
「我愛羅さん、お疲れさまです」
「おはよう。忙しいのに呼び立てて悪かったな」
いつも通りに言葉を紡ぎながら、彼女の変化を誘発した原因へと心は飛んでいて。それが、仕事と勉強の両立に因るものなのか、それとも全然別の情緒的理由なのかと思考は勝手に彷徨う。
「で、ウチの姉は迷惑を掛けたりしていないか?」
その問いで、森埜の瞳が曇って行く。それと同時に、俺の胸の奥からは不思議な感情がしずかに沸き上がる。
「テマリさんは、素晴らしいですよ」
「そうか?」
「私も、あんな風になりたいと思います」
姉のことを羨ましげに語る口調の裏に、歪んだ劣等感を感じて、黙って見ているのが辛かった。
「お前は……そのままで充分だ」
「えっ?」
驚いて俺を見上げる森埜へ、無意識で手が伸びていた。
肩に掛かるか掛からないかの長さの髪にそっと触れる。やわらかい髪。
ゆっくりと隙間へ指を差しこんで、梳きながら、もう一度同じ言葉をくり返した。
「お前は、今のままで充分だ。だから、無理はするな」
「……はい。でも、」
指先からあふれ出すしずかな気持ちが、森埜の心まで届けば良いのに。
あの日芽生えて、会えない間に俺の心を緩やかに占領していったこの感情が、お前に届けば。
「この髪型も、お前に良く似合ってるぞ」
唇から、掌から自然にこぼれ出したその想いは、紛れもない愛おしさで。
言葉では伝えきれない想いの丈を、俺は雄弁な指先に込めた――
◆
彼女と再会したのは、ナルトとの待ち合わせのある夜。
エントランスに立つ俺の目に、森埜の今にも泣きそうな表情が見えた。
何かあったのか?
訝しむのと同時に、唇からは彼女の名前が零れる。
「森埜…」
「え?我愛羅さん、どうしてここに?」
驚いた表情すら、愛おしいと思った。
「ナルトの奴と待ち合わせだ」
「そう、ですか」
「これから飲みに行くんだが、一緒にどうだ」
「いえ、私は帰ってやる事がありますし」
「そうか。あんまり頑張り過ぎるなよ?」
俺の言葉を聞きながら、膨らむ涙の雫は、とても綺麗なのに何故か切なくて。無意識で手を差し伸べる。いつもこいつには、無意識で手が伸びる。
肩を抱きながら、ゆれている瞳を覗き込んだ。
「泣くほど辛いことでもあったか?」
指先でそっと涙を拭いながら問いかけると、困惑した表情が俺を見上げる。
儚く頼り無げな顔。彼女の胸の内を慮ると、俺のほうが苦しくなった。
「いえ、すみません」
「……」
「何でだろう。変ですよね」
笑顔を作ろうとしている森埜の表情は、無理をしているのが見えみえで痛々しい。
特別な感情を抱いている相手のそんな様子に、じっとしていられなかった。
そんなに細い体で、そんなに切ない顔で、無理をするな。
お前のそんな姿を見ているのは、辛い。
肩に掛けていた腕を自分の方へゆっくり引き寄せると、森埜の顔が見えないように胸に抱き締めて。微かにふるえている背中をやさしく撫でながら囁いた。
「泣きたくなったら、泣けばいい」
「我愛羅さん……?」
「無理はするな…」
くぐもった森埜の声に含まれた戸惑いも、苦悩も、全部受け止めてやりたかった。
「今ならお前の顔は、誰にも見えていない」
だから、思い切り泣けばいい――
こんなに弱っているお前を、たったいま支えているのが俺だということが
それだけで、とても嬉しい…
俺の胸に顔を埋め、堰を切ったように涙を流し続ける彼女を抱き締めながら、切なさと充足感の入り混じった不思議な感情に支配される。
ふわり、漂う甘い香りと、腕のなかのやわらかな感触。
眩暈がしそうだった。
「我愛羅、お待たせー!!何やってるんだってばよ」
ナルトのデカイ声で反射的に身体を離すまで、俺は満たされていて。泣いている森埜には悪いと思うけれど、幸せだとすら思った。
「ナルト、遅かったな」
何気なく返しながら、自然に皺が寄ってしまう眉間。気付かれないように気を配りつつ、ひそかに腹を立てた。
本当はもうすこし2人きりでいたかった…――
「シカ、林檎ちゃんも、」
「俺は遠慮しとく」
「一緒に行こうってばよ」
「しつこいぞ、ナルト」
「私も、帰ってやらなきゃならない事があるんで。また」
このままでは、ふたたび奈良と森埜をふたりきりに?
それが、何故かどうしても阻止しなければならないことのように思えて。有無を言わさず肩を組んで歩き始めたナルトに、抗議したい気持ちでいっぱいになる。
「じゃあ、俺たちは飲んで来るってばよ」
「へいへい」
「シカ、ちゃんと林檎ちゃんを駅まで送ってけよー」
ナルトに引き摺られるように歩み去りながら、言葉を発することも出来ず。せめてもの抵抗に、肩越しに意味深な視線を投げる。
お前には、簡単に森埜を渡す気はない――
俺の心の声が届いたのか、それとも偶然なのか。
奈良の表情が歪んだ……ような気がした。
「なあなぁ、我愛羅と林檎ちゃんって何かあんの?」
「……何だ、急に」
「急にじゃないってばよ!!さっきのEVホールでのふたりは、どうみても怪しかったってば」
「別に。お前に話すようなことは何もない」
えぇー!?そんなんじゃ納得いかねぇってば。執拗に食い下がるナルトを適当にはぐらかす。今はやめてくれ。お願いだから。
靄のかかった思考の奥では、確かな感情を乗せた欲。
生まれてはじめて抱いた、異性に対する強い執着心。
本当にナルトの言うように、
俺と森埜の間に“何か”があれば良いのに。
ちらりと振り返れば、奈良と肩を並べた森埜の姿は、しずかに夜の闇へと消えて行った――
◆
それから程なくして、行われたレセプションの夜。
森埜の見慣れないドレスアップスタイルと、それを淡く照らし出している月光は、俺から理性を失わせるのに、充分だった。
ふっ、と表情を崩して森埜を見下ろすと、彼女は青白い月に照らされて。色素の薄い肌はますます透き通り、元々整った顔立ちは、一層幻想的につやめいて見える。
そっと腰を抱くと、驚いたように俺を見つめて。かすかに頬を染めた森埜が愛しくて堪らなくなった。
僅かに緩んだ美しい表情に吸い寄せられるように、すこしずつ顔を近付ける。
森埜は抵抗もせずに、俺の瞳を見つめ続けていて。引き寄せられるままそっと唇を塞ぐと、あまりのやわらかさに一瞬で頭の芯が痺れる。
瞬きすら出来ないのか、キスの最中に目をあけているのも、彼女らしい。
「森埜、眼を、閉じろ」
言われるままに瞳を閉じた森埜は、彫像のようで。頬を掌で包み、再びやわらかくキスを繰り返した。
森埜の香水の香りで、頭がくらくらする。
胸を締める愛しさを表す術が見つからずに、繋げた唇へありったけ全ての想いを乗せて。熱に浮かされたようにキスを続けながら、思考はぐるぐると混乱して行く。
抱き締めた腕のなかで軽く震えている身体を、本当はそのまま強引に自分のものにしたくて。
何度も優しく唇を塞ぎながら、上昇して行く身体の熱と崩れ落ちそうな理性とを必死に戦わせた。
でも、
俺の望んでいるのは、こんな闇雲なやり方ではない筈だ。
気持ちを押し付けたい訳ではない。
俺が欲するのと同じように、彼女も欲してくれれば。
「すまない……突然」
困惑したまま立ち竦む森埜から、ふいっ、と視線を反らして。満足に言葉も交わさぬまま、腰に手を回して歩き始めた。
「さっきのは俺の気持ちだ、」
「……」
「考えてみてくれないか?」
別れ際に耳元でささやいた言葉は、その時の俺の精一杯で。自分のした行為に、いつもの冷静さを失っていたから、彼女の表情から真意を読み取る余裕はなかった。
マンションのなかへと姿を消す森埜の背中を見送って、月光に仄かに照らされた道を歩く。
先程感じたばかりのやわらかさ。甘美な感触が、昂揚感の消えぬ脳内で繰り返し再現されるのを、黙って感じていた――
◆
(考えてみてくれないか?)
あんな曖昧な言葉を、森埜がどこまで真剣に受け取ってくれたのか。あの夜のことを思い出すたびに、不安が押し寄せる。
仕事上の事はともかくとして、元々余り鋭いとは言えない森埜のことだ。
もしかしたら、あれが俺の精一杯の告白だということにすら気が付いていないかもしれない。
そして、
その不安よりも、更に不穏気な噂話が偶然耳に入ってきた。
「なぁ、我愛羅」
「なんだ」
「お前ん所の森埜って子、鈍いのか?」
「まあ、な」
「やっぱりか」
「どうした、急に。仕事で何かあったのか?」
「いや、仕事じゃないんだけどねぇ……」
「……ん?」
「もどかしくて、背中叩きたくなるよ(…せっかく私が身を引いたってのに)」
姉にさり気なく聞かされたその話が、頭のなかをぐるぐると回っていた。
もしかして…
“もどかしい”というのは、奈良とのことだろうか。
送別会の日、絡み合った奈良と森埜の視線も。ナルトとの待ち合わせの日、夜の闇に消えていったふたりの姿も。
まるで最初からあの2人の関係を象徴していたかのように。
俺のなかに不愉快な確信として、切ない像を浮かび上がらせていた――
◆
「…はい」
「我愛羅さん、お疲れさまです。森埜ですが、今お時間大丈夫ですか」
「大丈夫だが、何だ?」
「あの…先日の件で、」
「あぁ、……」
「お会いしてお話させて頂きたいんですけど」
言い澱む口調は、先日の不愉快な確信がやはり現実のものだったことを、雄弁に物語っていて。
「週末のご予定は如何ですか?」
俺の気持ちを受け入れる意志は、今の森埜にはないのだと、言葉にする前から、分かってしまった。
「……別にその必要はない」
「えっ…?」
「お前の気持ちは分かってるから」
「どう言う事でしょうか」
森埜の困惑と心苦しく思っている様子は、電話越しに俺へも伝わってきて。彼女を楽にさせてやりたいと、そう、心から思った。
「言葉通りの意味だ」
森埜を愛しいと思う気持ちは、自分の独占欲を押し通す類の短絡的なものではないのだ。
「会って話をする必要は、もうないぞ」
「……あの…」
「森埜……幸せにな」
電話を切った後。
心のなかから、まるで大切な部分がすっぽり消えてしまったように思えた。
俺の大事な部分を奪ったのだから、幸せにならなければ怒るぞ。
空虚なのに、何故か、彼女の幸せを願っている。心からしあわせになってほしい、と思う。
穏やかな気持ちで、やわらかく満たされていた――
(林檎、元気にしてるのかな)
(サイ… 森埜の事は、)
(ん?また、近々事務所に呼び出そうか)
(……もう諦めろ)