朝の喫煙ルーム。いつものように並んで煙草を吸っている最中、シカマルは唐突に耳元へ顔を近づけた。

「なぁ、林檎」
「はい」
「お願いがあんだけど」
「なんですか、奈良さん」
「仕事のパートナーとしてじゃなく、プライベートでのお願いな」
「ん。何かな、シカマル」

 私が名前を呼ぶと、ふっと表情を崩して。誰もいないその場所で、耳たぶにキスをする。

「な、なに」
「煙草。ちっとだけ控え目にしねぇ?」
「え…」
「もちろん俺もへらす努力はすっけど」

 その言葉の意味が分からず、首を傾げる。ふたたび息がかかるほど顔を近付けたシカマルは、ここが職場だとは思えなくなるくらい甘い声でささやいた。

(その内、なんだけど)
(うん、)
(子供とか、欲しくねえ?)
(……っ)
(意味、分かるよな)


 吸いかけの煙草を、思わず落としそうになる。私は言葉を失って、ただ茫然とシカマルの顔を見つめた。

「なに、鳩が豆鉄砲食らったみてぇな顔してんだよ」

 固まっている私の頭を2、3度ポンポンッと撫でて、咽喉の奥でククッと笑う。その笑い方、好きだ。

「ほら、これでも飲んで落ち着けって、な?」
「う、ん」

 目の前に差し出されたコーヒーは、まだ湯気を立てている。
 彼は私の手から火の点いたままの煙草をするりと抜き取って、落ちそうな灰ごとアッシュトレイに放り込む。
 唇を歪めて顔を覗かれると、ドキドキする。身体が熱を持つ。

「まだ、今日は始まったばっかなんだけど。一日、大丈夫か?」

 大丈夫、じゃないかもしれない。頭がくらくらするし、胸が痛い。
 シカマルのせい。急にそんなこと言うから。

 余裕たっぷりに見下ろす彼をかるく睨んだら、再びククッと笑われて。
 そんなシカマルに、ますますドキドキした――



-scene20 色付く世界-






「もうひとつ、お願いがあんだけど」
「今度は、仕事上のお願いですか?奈良さん」
「いや」
「もう、あんまりドキドキさせないでよね」

 あぁ、多分な。彼女の細い腰を抱きながら囁いた。

(お前 これ以上、痩せんなよ)
(え…?)
(プロジェクトと試験の準備で忙しいのは分かっけど、無理すんな)
(うん、分かった)

「抱き心地、悪くなんだろ」
「っ!シカマルのバカ」
「つうのは冗談だけど」

 頬を染める林檎の瞳を、正面から覗き込む。

「とにかく無理は禁止な。俺に回せることがあったら、遠慮なく回せ」
「分かりました、奈良さん」

 一瞬だけ視線を絡めると、ふたたびふたりで目の前の図面に向き直った。







「よぉ、シカマル。林檎ちゃんも、朝からお熱いことで」
「なんすか、ゲンマさん」
「おはようございます」

 喫煙ルームを出た俺たちの方へ、やけにニヤニヤしながらゲンマさんが近付いてくる。嫌な予感。
 林檎をこの場から離そうと、目配せをした。
 頷いて、先にデスクへ戻りかけた林檎に、ゲンマさんがおどけた声をかける。

「おーっと、林檎ちゃんに行かれちゃ困るんだけど」
「え?」

 立ち止まらずに、行っちまえばいいのに。林檎のヤツも。
 心のなかで呟いていると、いきなり凄く近くにゲンマさんの顔。聞こえて来た小さな声に、どきっとした。

(シカマル)
(なんすか)
(昨日の仕事中、無意識で“林檎”って呼び捨てしてたの気付いてる?)

 耳元で囁かれた言葉で、一気に身体中の血液が頭部へ集まってくる。

 マジかよ、ちっと油断してたか。それともカマかけられてんのか?
 やべぇ…顔が赤くなっちまいそ。

 あれ?と、俺の顔を真面目な表情で凝視している林檎を見て、余計に焦った。
 頼むから、変なこと言わねぇでくれよ?

「奈良さん。顔、赤いですよ?」

 はぁー…やっぱりか。
 あまりにも直球。

 シカマルは額に掌を当てて、軽く俯いた。

「耳まで赤いけど、大丈夫ですか?」

 お前がツッコミ入れんなよ。
 ったく、誰のことでこんな風になってると思ってんだ。

 熱でもあるんじゃ?と、林檎が下から俺の顔を覗くから、ますます頬が赤くなる。

 つうか、そういう無意識の行動、やめろっての。
 ゲンマさんだけじゃなく、他のヤツらもにやにやして見てんだろ?周り見ろ。
 気付けよ、林檎…――


 くつくつとゲンマは低く笑う。面白くて仕方ないと書かれた顔で。

「シカマル。お前、マジで顔真っ赤」
「ゲンマさん、うるせえっす」
「なんで、そんな顔になってんのかねぇ」

 からかい混じりのゲンマさんの台詞に、林檎は不思議そうな顔。それを見ながら、俺は深いためいきを吐いた。

「ところで林檎ちゃん、」
「はい」
「この前の食事の件。考えてくれた?」
「不知火さんには申し訳ないですが、お断りしてもよろしいでしょうか」
「ん、何で?」

 ゲンマさん、もしかしてわざと林檎に話振ってる?

 ちらりと視線を投げて来た林檎は、言っても良いかと尋ねるように、小首を傾げる。火照りでぼんやりしていた頭のなかが少しずつ冷めて行く。
 ここまで来たら、もう覚悟決めるしかねぇな。別に隠してた訳でもねぇし。
 変に気をもむくらいなら、いっそ、公表しちまった方がラクだ。

 ああ、イイぜ。と、林檎へ無言の目配せ。ちいさくこくりと頷いた彼女は、ゲンマさんに微笑みを向けて。

「私、奈良さんとお付き合いしてるので、他の男性とふたりきりで出かけるのはちょっと」

 さらりと、俺たちのことを口にした。

「そうか、そりゃ残念」
「すみません」
「楽しみにしてたのに」

 あんたは今でも十分楽しんでんだろ。ゲンマさんを睨むと、案の定、思い切り含みのある笑いが返ってきた。

「シカマル。そんな赤ぇ顔で睨まれても、全然怖くねぇぞ」
「誰のせいでこうなってるんすか」
「さあな」
「……」
「あれ。もしかして俺のせい?」

 ふざけんのもいい加減にしろっつうの。からかう声音と周りのざわめきに、俺のなかの張りつめていた糸がぷつり、切れた。

 隣で呆然と立っている林檎の腰に手を回すと、自分の方へぐっと引き寄せて

「……っ。奈良さん?」
「とにかく、こういうことっすから。今後、ネタにしたり口説いたりすんの、止めて貰えますか」

 呆気にとられた顔のゲンマさんに、怒気を孕んだ声を向ける。

「森埜、行くぞ」
「…はい」

 彼女の腰に手を回したまま、プロジェクトブースへ向かう。俺たちの背中を見つめる皆は、しんとしずまりかえっていた。







「ちょ、奈良さん」
「………」
「どうしたんですか、いきなり」

 やっちまった。

「森埜、ちょっと打ち合わせルーム」
「あ、の」
「先、行っててくんねぇ」

 頷いた林檎を見ながら、素早く思考を巡らせる。
 あー、プロジェクト用の打ち合わせルームだと、周りから丸見えなんだよな。あっちの部屋にすっか。

「いつもの所じゃなくて、Aの方な」
「…はい」

 彼女の背中を見送ってすぐ、キバが近付いてきた。

「シカマル、大丈夫か」
「大丈夫じゃねぇよ。つうか、キバも一緒に笑ってたじゃねぇか」
「わりぃ…」

 ホントにわりぃと思ってんのかよ。

「でも、ふたりの雰囲気があんまり最初っから変わんねぇから」
「んだよ」
「皆が、“本当に付き合ってんのか?”って噂で持ち切りでさ」

 大きなお世話だっつうの。
 お陰で、赤っ恥さらしちまったじゃねぇか。

「でも今日ので皆、信じただろうから。これからはきっと、静かになんじゃね」
「ああ、そうだな」

 それにしても。
 せっかく公表しちまったというか、公表させられたことだし。この先のことを早くはっきりさせといた方が良いかもしんねぇ。
 いま、言うつもりじゃなかったけど、林檎の性格を考えるとその方が良さそうだ。

 鞄から取り出したちいさな包みをポケットに忍ばせ、書類と図面を小脇に抱える。

「じゃあ、しばらく森埜とふたりで打ち合わせしてっから、」
「おう」
「邪魔すんなよ」

 キバに言い残して、彼女の待つ部屋へと向かった。







 シカマルが立ち去って直ぐ、綱手サンと何やら相談をしていたアスマさんがデスクへ戻ってきた。

「あいつ、珍しく切れてやがったなぁ」
「そうっすね」

 にやりと笑みを浮かべて、楽しそうに呟くアスマさんと顔を見合わせる。

「キバ、煙草行くか?」

 はい。と頷いて、笑いながら喫煙ルームへと向かった。

 両切りの煙草を口に銜えると、すこし首を傾けて火を点ける。気持ち良さそうに煙を吐き出しながら、アスマさんがしみじみと口を開いた。

「ところでよォ。天姫ちゃんとは、上手く行ってんのか?」
「ええ、バッチリっすよ」

 天姫ちゃんの名前を聞くだけで、つい笑顔になっちまう俺って。やっぱ、色んな意味で重症だろうか。

「しっかし…キバも、シカマルのヤツに先越されたな」
「どう言うことっすか?」
「ありゃ、決意を秘めた顔っつうヤツだ」

 マジかよ。

「お前もカノジョとのこと、考えてんだろ」
「…はい」
「なんつうか。同期で立て続けに“婚約ラッシュ”って感じだなァ」

 サスケと歳上の彼女、シカマルと林檎ちゃん。
 そして俺と天姫ちゃん、か。

 アスマさんの言葉を聞きながら、俺は心のなかで未来への決意を固めた。

 今度の休み、俺も。
 天姫ちゃんに――







 打ち合わせルームの扉前に立つと、机に片肘を突いて掌で顎を支える林檎が見える。すこし目を細めて窓外の空を眺めている横顔に、ほんのちょっとだけ見惚れた。
 マジで綺麗だよな。
 色素の薄い肌も華奢な身体も、まるで光に透けて消えちまいそう。
 後ろ手に扉を閉めて、事務所のざわめきから隔絶されると、途端に鼓動がはげしさを増す。
 パタリ、とドアの立てた音で林檎は視線をこちらに向ける。俺を見上げる笑顔はやわらかい。部屋に溢れる空気が、なんともいえず心地良く思えた。

 いつもの向かい合わせの席ではなく、林檎の隣に腰を下ろす。不可解な俺の行動にすこし戸惑っている彼女を見つめたまま、会話を切り出した。

「打ち合わせ始める前に、」

 ポケットから包みを取り出すと、片手で林檎の腕を掴み、上に向けた掌にそっと乗せた。

「これ、受け取ってくんねぇ?」
「何ですか」
「今は、プライベートな。開けてみろよ」
「うん」

 淡い微笑みを浮かべながら俺の手から小箱を受け取った林檎は、これまでに見たどの彼女よりも美しくて。胸にこみあげる気持ちがあふれ出しそうなのを、必死に耐えていた。


たとえば――
すぐに意識する事は
なかったとしても

心の奥深くに引っ掛かり
何故か消せないもの



 初めて出逢ったあの日から、林檎の存在は少しずつすこしずつ俺の心のやわらかい部分を侵食して。いつしか無くてはならないものになっていた。

 目の前で小さな包みをゆっくりと開いて行くその細い指が、俺を取り巻く世界の全てを一瞬で色付かせて。
 物憂げで殺風景な空気を、狂おしくて切なさと愛しさに満ちたものへと変えていく。

「ピアス?ダイヤだよね、これ」
「ああ。お前 指輪は出来ねぇんだろ?」
「え、それって」

 林檎の左手を掴み、その薬指をそっと口に含む。驚いて大きく見開かれた瞳に視線を合わせたまま、ゆっくり、ゆっくりと、丁寧に舌を這わせて舐め上げた。


恋に墜ちる相手というのは
噎せ返るほどの群衆の中
たった一瞬すれ違っただけで
きっと分かるものなんだ…


「もしかして、」
「そ。エンゲージリングの代わりな」
「シカマル…」

 口内から抜いたばかりの湿った左手の薬指に、やさしいキスを落として。もう一度林檎と視線を合わる。
 首を傾げながら背を屈めると、今度はその呆然と開かれたちいさな唇に、かるく触れるだけのキスをした。

 あの日あの場所で感じたぼんやりとした奇妙な感覚は、ただのありふれた予感ではなく。
 誰にも変えることのできない未来への、確かな直感だった。

 俺たちは間違いなく、たった一瞬で互いに囚われていて、それに気が付くのには時間がかかってしまったけれど。一度交錯して離れた軌跡が、ふたたび重なりあうことも、これからは同じ軌跡を描いて行くこともすべて必然だった。


広い銀河系の寄る辺ない星の
小さな国のある場所で
幾つもの偶然が重なり合って
あなたと私は出逢い


「なあ、林檎……俺たち、結婚しようぜ?」
「……はい」

 笑顔のままで瞳をかすかに潤ませた林檎をふわりと抱きとめると、身体中から愛おしさが溢れ出して。俺たちは呼吸が出来なくなるくらいにきつく抱き締め合い、とろけるような甘い口付を交わした。



その一瞬で、
世界が変わる――



「着けてやるよ」
「うん」

 元々着けていたピアスを外す林檎の手元を横目に見ながら、箱からピアスを取り出す。小さな耳たぶに手を添えて、プラチナの台に乗った輝く石の欠片をそっと両耳の穴に通す。

 エクセレントカットのダイヤモンドを6つ爪で留めたシンプルなデザイン。ピアスは、林檎の白い肌に映えて。限りなく透明度のたかい 色の無い石は、さし込む陽光に様々な表情を見せながら輝いている。

 見慣れない煌めきを添えた林檎の左右の耳たぶにキスをして、再び彼女を腕のなかに閉じ込めた。


 俺と林檎の未来は、初めから決まっていた。


 あの日の予感は必然で。
 モノクロの図面が、鮮やかに色彩を放ち始めるように。
 俺の日常には、いつの間にか林檎が彩りを添えた。

 そしてこの先の未来も、ずっとずっと。
 眩しく輝き続ける――




[]


(あの屋上で初めて会った日から、林檎とこうなる気がしてた)
(私も。あの日あの瞬間、既に魅入られていたのかもしれない)
(……?)


(シカマルの眼鏡の奥に隠された双眸に、ね…)




2008.05.05
スーツシカ連載第20話・完結編でした。本当に長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

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