仄明かりの部屋、朝焼けの光がカーテン越しにしのび込む。しずかなその部屋で、林檎の立てる寝息をそっと聞いていた。
規則正しく上下を繰り返す白い肌。乱れた髪の隙間から覗くちいさなピアスが、ふたたび俺の欲情をあおる。
髪に指をさし込んで、ゆっくりと梳いていたら、あの日キバに言われたことを思い出した。
(お前のご指名で来て貰ってるんだから、プレゼントしてあげるよなァ?)
それも、良いかも。
「これからも、よろしくな…林檎」
小さな耳たぶを唇ではさんで呟けば、うすい目蓋がぴくりと痙攣をくり返して。
やがてきれいな瞳が俺を捉えた――
-scene19 焦燥感-
「シカ マル」
「わりぃ、起しちまったか」
「ううん。眠れなかった?」
「いや、目が覚めたんだよ」
そっと背中に両腕を回すと、林檎の腕が首筋に伸びて来る。しなやかな腕。
「おはよ、シカマル」
「おはようさん」
恥ずかしげに眼を伏せる林檎にキスを落とし、視線を絡めて微笑んだ。
ぴたりと重なる肌がつたえる互いの鼓動は、ホッとするのに、やけに官能的で。明けきらぬ朝の微睡みにぼんやりとしたまま、俺たちは何度も唇を合わせた。
顔を近付ければそっと閉じられる瞳も、離れていく唇を追って漏れる吐息も。
捻じ込んだ舌にからんでくる熱も、身動ぎのたびに揺れる胸も、なにもかもが愛おしくて。
唇を繋げたまま体勢を変え、やさしく林檎の身体に覆い被さった。
「お前、さ」
「なに」
「すげぇ 綺麗」
「シカマルも、髪を解くとますます色っぽいね」
「また、欲しくなっちまったんだけど」
「……まだ、朝だよ?」
その言葉に抵抗の意志はなく、すでに俺のすべてを受け入れるように瞳も身体も潤んでいた――
◆
くたりと力の抜けた林檎を腕に閉じ込める。やわらかくて、しろくて、細い身体。さっきまで俺の下でゆれていた身体。
幸せの余韻に浸っていると、耳障りな着信音が響いた。
「あぁ、悪ぃなシカマル」
「キバ、休みの午前中から何だよ?」
「ちょっと天姫ちゃんに代わるわ」
「はぁ?どういうこと」
「奈良さん、朝からすみません。お話しておきたいことがあって、林檎のことで」
「あぁ、何?」
「実は、あの子ものすごく鈍感なんです」
「へえー…」
「だから悪気なく変なこと言うんじゃないかと。それが心配で」
「いや、少々のことなら、」
「少々じゃないんですよ、それが」
電話では詳しく話せませんけど。とにかく尋常じゃない鈍さなんで、呆れないで下さいね。
わかった。と答えたはいいものの、んなこと言われて、俺はどうすればいいんだろう。
会話の意図も内容も要領を得ないし。取り敢えず、また天姫ちゃんに会った時にでも聞いてみるか。
(オメェには、無理なんじゃねぇの?)
もしかして昨日親父が言ってたのは、そのことだろうか。親父の奴、フザけてばっかだけど、やたら女の観察眼には長けてやがるから。
ベッドで再び寝息を立てている林檎を見つめ、シカマルはちいさく息を吐いた。
◆
家に帰ると、案の定親父は俺を待ち構えていて。気持ちわりぃ位のニヤけ顔に迎えられた。ためいきが出そうだ。
「よォ、シカマル。ちゃんと決めて来たかァ?」
「んだよ、決めるって」
「決めるっつったらひとつしかねえだろうが。アレだよ、アレ」
「イイ歳した息子のことに、いちいち口出ししてくんなよな」
「親だから、オメェのこと心配してんだろォが」
「いらねえって」
「……で、気付いたか?」
相変わらずからかう気満天の親父の顔に、いい加減イライラする。
「は。何をだよ」
「まぁ、まぁ」
落ち着けって。肩をポンポンっと叩かれる。大きなお世話なんだよ、ったく。
「あの子は天然だぜェ、それもかなりの、な」
やっぱり、そういうことか。
つうか、あの一瞬でそこまで見抜く親父って、何者だよ。
「せいぜい振り回されねぇように、オメェも頑張れよォ」
高笑いで去って行く親父の背中を見ながら、ふたたび深いためいきを吐いた。
別に仕事してるときは、そんなに鈍いなんて思わねぇんだけど。むしろ、察しが良くて気が回る方じゃないだろうか。
でも天姫ちゃんだけじゃなく、親父までこんな事を言うっつうのは。やっぱり何かあんのか?
週明けから林檎を観察してみるか――
◆
「奈良さん、おはようございます」
やわらかい声に振り向くと、両手にコーヒーのカップを持った林檎の笑顔があった。
「おはようさん、森埜。煙草、行くか」
「はい。ちょっと店舗の導入部の件で考えて来たことがあるんで、聞いてもらえます?」
「土曜日に話してた、画一的な設計じゃ面白くないっつう件か」
「そうなんです、もっと訪れる人の感性を引き出すデザインを考えてみたので、」
奈良さんの意見をお聞きしたくて。
知性のある会話、真剣なまなざし、仕事への姿勢。彼女の言葉に頷きながら、一体こいつのどこが鈍いんだろう、と思う。
そのときはまだ、彼女の持つ一面に、気付いていなかった――
◆
「キバ、この前天姫ちゃんが言ってたことだけど」
「ああ」
「お前、なんか詳しく聞いてねぇ?」
「いや、林檎ちゃんがびっくりするほど鈍いってことだけ」
「そうか」
「シカマル、心当たりねぇの?」
「さあな。俺が思い当たるとしたら、我愛羅の件かな」
「1Fのロビーで、泣き付いたってやつな」
「ああ、それだけじゃねぇんだけど」
今、林檎はどこにいるんだろう。
すこし不安になって眼を泳がせると、ゲンマさんに肩を抱かれていた。人目もある場所で、人目も気にせずに。いや、むしろワザと人目のある場所で、か。なにかを耳元で囁いているゲンマと、当たり前の表情の彼女。
ひそかに事務所中の注目を集めていることに、気が付いているのかいないのか。
ったく、何やってんだ。
「じゃあ林檎ちゃん、考えといてくれよ?」
「はい、分かりました」
笑顔でデスクへ戻ってきた林檎の方へ、椅子に座ったままスライドする。
耳元で名前を呼べば、驚いて肩をゆらすけれど、眼を見開いた彼女は悪びれた様子もなくて。
「何ですか、奈良さん」
俺を真っ直ぐに覗き込む顔を、軽く睨んでみる。
「ゲンマさん、何だって?」
「素敵なお店を見つけたから、今度一緒に食事へ行かないか、と誘われました」
「で、どう答えたんだよ」
「都合、調整してみますね。って」
問いかけに返ってきた答えを聞いて、俺はガクリと脱力した。
「それって、何人かで?」
「いえ、不知火さんとふたりで だと思います」
「何で断んねぇの」
「お断りした方が良かったんですか?」
本気で不思議そうな林檎に、まったく悪気はないらしい。
(林檎、俺と付き合ってんだろ)
(はい)
(じゃあ、何で他の男に口説かれてんのに断んねぇんだよ)
(え…私、不知火さんに口説かれてたんですか?)
はぁー…
マジかよ?
途端に頭に思い浮かぶ、いくつかのこと。
深い意味もなく、携帯No.とメアドを俺に伝えた行動。
無意識でテマリさんに嫉妬していた様子。
髪を切った林檎に言われた言葉。
不用意に我愛羅に抱きしめられていた様子。
告白した日にポロッともらした何気ない台詞。
考えてみれば俺、これまでにさんざん翻弄されてきたじゃねぇか。あれってもしかして、全部……林檎が鈍いから、とか?
彼女の不可解な言動の理由に初めて思い当たって、俺は唖然とした。
このまま放っておいたら、またヘンな行動で誰かを困惑させるんじゃないだろうか。
つうか、口説かれてんのにも気付かねぇ天然振り。俺の心臓がもたねぇっつうの。
はぁー…
早く何とかした方が、イイかもしんねぇな。
突如湧き起った焦燥感に苛まれながら、俺はひそかに未来への決意を固めつつあった――
◆
週末の晩、俺たち同期4人は男ばかりで飲みに来ていた。
こいつらと飲むのは、気を遣わねぇで済むし、かなり楽だ。
俺とサスケは割合酒には強いが、キバは人並み、ナルトはそれ以下っつう感じ。宴が始まって暫くすると、アルコール分解能力の差が顕著にあらわれはじめる。
すでにほろ酔い加減のキバが、隣のサスケの肩に手を回して、やけに真剣な様子で問いかけた。
「なー、サスケ」
「なんだ」
「お前って婚約者と、どんくらい付き合ってんの?」
「4年くらい、か。それがどうした?」
「や、婚約ってか結婚ってさ、普通は何年付き合ったら考えるもんなのかな、と思って」
へぇ、キバの奴も天姫ちゃんとの結婚を意識し始めてんのか。んなの、別に何年たったからとか、期間なんて関係ねぇだろ。
「そりゃ、人によるんじゃねぇの」
「だろうな」
俺の答えに、サスケが同意するのを聞きながら、逆にキバへ問いを返した。
「なんだよ、キバ…もう結婚考えてんの?」
「んー…」
「あっ!!まさか……できちゃった、とか!?」
「「はあ!?」」
ナルトのバカな言葉に驚いた俺とサスケは、ほぼ同時に驚きの声を上げる。
別に、あり得ねぇ話じゃねえけど。天姫ちゃんはそういうタイプじゃねぇだろ。
「バっ!違うって。できるワケねぇっつの」
「言い切れんのー?」
ったく、ナルトも。んなタチの悪いこと言ってんじゃねぇって。
サスケと視線で会話しながら、ためいきを吐く。そういう所が、ナルトはまだガキだよな。ああ。ふたりで肩を竦めた。
男同士の酒の席、女の話は付き物だけど。この種のツッコミは俺だって勘弁してほしい。と、思っていたら、キバの弁解が耳に滑り込む。
「まだシてねぇし。できるハズねぇだろ」
「「「は……?」」」
今、キバ“シてねぇ”っつったよな。空耳じゃなく。
「んだよ、皆揃って。聞こえなかったか?」
「「「もう一回お願いします」」」
だって俺と林檎より、1ヶ月以上早くから付き合ってんのに。シてないって、マジかよ。キバ、そんなに奥手じゃなかっただろうが。
「だーかーらっ!シてねぇっつうの」
「キバ…どっか悪ぃってば…?」
「熱は…ねぇな…」
「お前ら、俺を何だと思ってんだよ」
真っ赤になって吠えるキバを見つめながら首を捻っていると、呂律の崩れたナルトが口を開いた。
「だってさーキバがおかしなこと言うかららってば」
「別におかしかねぇだろ?」
おかしかねぇけど、キバみてぇに直情型の男がまだ、って。もしかして、天姫ちゃんに拒まれてるんだろうか。
「拒否、されてんのか?」
「されてねぇ。つうか、そうならねえんだ」
必死で叫んでいたキバは、すこし声のトーンを落として。しずかに語り始める。
「そりゃ俺だってシてぇよ。だけどさ」
「ああ」
「なんか天姫ちゃんは今までの女と違うんだよ」
何となくその気持ちも分かる。
「違うって、何がだってばよ?拒否されてなくて、シたいんなら」
「大事、なんだろう?」
「ん…」
サスケの言葉に頷いたキバは、やっぱり真剣な顔をしていて。本気で天姫ちゃんを大切にしたいのがよくわかる。
「ケジメつけてぇってことか」
「たぶん、そうだと思う。今時結婚前提で、っておかしいか?」
「「いいんじゃねぇの」」
だよな?嬉しそうなキバを見て、俺もサスケも素直に同意した。
「そんだけキバが本気らってことなら、問題ないってばよ!!」
キバの言葉を心の中で反芻すれば、林檎の顔がうかぶ。俺のなかでひそかに固まりつつあった意志は、更に堅固なものになっていた。
「それより、シカマルは」
「あ?」
「林檎ちゃんと、もうシたのかってばよ?」
「うっせーな、ナルト。おおきなお世話だっつうの」
「他人のことばかり気にするな、ウスラトンカチ」
「サスケもシカマルもうるさいってば!」
「つうか、彼女いねぇのってナルトだけじゃん」
「キバもうるさいってば!!」
「お前が一番煩い、ウスラトンカチ」
賑やかに続く会話に笑いながら、頭のなかには林檎の笑顔が浮かんでいた――
◆
彼氏が出来ると距離もあくのが女友達だ。奈良さんと林檎が付き合い始めてから、ゆっくり会う機会は極端に減っていた。
だから私が林檎の部屋へお泊りするのも久しぶり。たまには、男ばかりの飲み会ってのも悪くないなと天姫が思っていたら、「そう言えば」と彼女の声。
「犬塚さん、デートのために車買ったんだってね」
「そう。ローバーミニ。赤白の奴ね」
「ミニって、小さくない?」
まぁ、広くはないかな。と答えれば、林檎は意味ありげな笑顔。何がそんなに可笑しいんだろう。
「犬塚さんも天姫も小さい方じゃないのにね」
「ん?」
「小さい車選ぶなんて、犬塚さんも」
ふふ。もれる林檎の笑い声。
「何笑ってるの」
「だって、小さい車の方が密着度高いでしょう」
「密着度って」
「犬塚さんそんな事まで考えてミニにしたのかな、と思って」
「残念でした。単に駐車スペースと購入可能な価格から検討したらしいよ」
「何買うって相談されなかったの?」
「買った後に教えられた。狭いとか、そんなこと考えてないと思うな」
と言うか、わざわざ車まで買わなくても良いのに。呟いた私に、林檎は、いやにうれしそう。
「それだけ天姫は大事にされてるんだね。優しいじゃない」
「そうね。でも」
「……」
「地下鉄一本で帰れるのに、遠回りして送ってくれる、誰かさんには負けるかも」
「え、」
「ゆれに慣れてない林檎に、掴まってろって言ってくれたり、ね」
「だって奈良さんってフェミニストじゃない。深い意味なんてないよ」
もしかして、全然この子には通じてないのかな。
「送ってくれるのもフェミニストだからでしょう。それに、我愛羅さんも送ってくれたし」
彼も送ってくれたのは、初耳だよ。それより、我愛羅さんと言えば 告白の件はどうしたのかな。そのまま、放っておいたりしてないよね?
「我愛羅さんのことはどうしたの?」
「うん、この前電話してね、」
「ちゃんと断った?」
「それが、会って話をしようと思って都合を聞いたら」
ほーっ、と息を吐いた林檎に、相槌を返しながらじっと見つめた。
「“別にその必要はない。お前の気持ちは分かってるから”って」
林檎の電話の第一声で、彼は何を言われるか気付いたってことだろうか。
「“幸せにな”だって」
なによ、それ。もしかして、我愛羅さんってすごくイイ男なんじゃない。
「奈良さんには、彼に告白されて断ったこと話したの?」
「ううん、」
「なんで言わないの」
「だって話すんならキスのことも言わなきゃならなくなるでしょう?」
はぁー?
別に、キスの事隠して話せるでしょ。この子に任せてたら何を言うか分かんないわ。もう、全部黙ってる方がイイかも。
「我愛羅さんの話は、もう奈良さんには何にも言わないって、私と約束して」
「え、なんで」
「良いから、約束して」
「うん。分かった」
林檎の頼りない返事に、ためいきが出た――
◆
「森埜、頼んでた図面って出来てる?」
「はい。データ、奈良さんの方へ送ってます。打ち出したものは、ここに」
「サンキュ。じゃ、あと これ頼むわ」
シカマルと林檎ちゃんの雰囲気は、付き合い始めてからもぜんぜん、傍目には変わらない。天姫ちゃんから詳しい話を聞いている俺ですら、ホントに付き合ってんのか?と疑うほどだ。
「お疲れ、キバ」
「ゲンマさん…お疲れっす」
「あいつらって、ホントのトコはどうなってんの」
「もしかして、林檎ちゃん狙ってんすか?」
「まぁな。だって彼女、何つうかこの業界じゃ珍しい癒し系じゃねぇ?」
「奥さん、大事にしてあげて下さいよ」
「んなことは、キバに心配されなくても大丈夫だっつうの」
で、どーなんだよ?と、肩に手を回してきたゲンマさんは、本気で狙ってるというより面白がっているだけらしい。
「マジで、付き合ってるみてぇっすよ」
「やっぱそうなのか。見えねぇな」
そうなんだよな。
シカマルはずーっと、林檎ちゃんの事を名字で呼んでるし。林檎ちゃんもシカマルを“奈良さん”って呼んでて、態度も変わんねぇし。
あ、アイコンタクト。
って、それも前からだもんな。
ゲンマさんとふたりで、しばらくシカマルたちを観察してみたけど、収穫ゼロ。付き合ってるカップルらしい仕草は、ぜんぜん見つけられなかった。
と言うよりは、ふたりとも最初から恋人同士みてぇだったし。
「奈良さん、この部分なんですけど」
「ん?」
「建材はどっちで行きましょうか」
「どっちも捨てがたいけど、林檎はどっちがいいと思う?」
「そうですね、テクスチャー重視ならこっち。機能重視ならこっちですけど、奈良さんは」
「林檎の感性に任せるわ」
って、あれ?
今、シカマルのヤツ“林檎”って、名前呼び捨てにした?いつもは森埜って苗字で呼んでんのに。
俺とゲンマさんは、顔を見合わせた。
(聞きました?)
(ああ、聞いた。林檎って呼んでたよな)
(はい、間違いなくそう呼んでました)
(しかも、さらっと)
(つうことは、)
((やっぱ、付き合ってるんだ?))
「じゃあ、俺もちょっかい出すのは程々にしとくかなぁ」
言い残して去って行くゲンマさんは妙に嬉しそうで、俺もつい弛む頬を抑えられなかった。
「キバ、さっきから何にやにやしてんだよ?」
「別に、何でもねぇぜ。林檎ちゃんはどっか行ったのか?」
「森埜?何で…用事か?」
不可解そうに眉根を寄せるシカマルに、笑いを堪えながら返事をすると、顔を背けて、もう一度ゲンマさんと視線を交わした。
あの様子だと、さっき林檎ちゃんのことを呼び捨てにしてたっての、シカマルは全然気付いてねぇな?
何か面白れぇことになりそー。
きっとこの話、明日には事務所中の話題になってるんだろうな――