「終電なくなったし、タクシーで帰るか」
「はい」

 林檎とふたり、タクシーの後部座席で流れ去る風景を見つめながら、そっと掌を重ねた。

 沈黙を縫って聞こえるちいさな呼吸と、繋いだ指先は、心をゆるりと確実に伝えている。

 安堵と興奮とが共存する奇妙な精神状態のなかで、隣の林檎を盗み見て。掌を反らすと、指同士を深く絡めた。

 キュッと指先に力を入れれば、俺を見つめる彼女の瞳には、愛しさが滲んでいて。飲んだアルコールのせいなのか、酩酊するように頭がくらくらする。

 酔ったままで抱くなんて、あんまり感心出来たもんじゃねぇよな。
 理性的な考えで情動を抑え込もうとすれば、脳裏にはさっきの林檎の言葉が浮かんで。

(我愛羅さんにこうされるのは嫌じゃなかったけど、奈良さんとだとやっぱりすごく嬉しい)

 俺も嬉しいと答えたものの、本当に喜んでいて良いのかと、すこし不安になる。まだ、我愛羅にとらわれる意識は、俺のなかから抜けないらしい。

 これを払拭するためには、やっぱり。早く。
 いや、でも。酔ってかすんだ感覚じゃなく、素面のときに、じっくりお前を味わいたい。
 だけど、本当はいますぐにでも。

 ふらふらと揺れ動く思考に、勝手に翻弄されている自分自身を俯瞰して、ためいきを漏らす。

「奈良さん、大丈夫ですか?」
「ああ」

 心配そうにこちらを見ている林檎の顔が、街燈に照らされて綺麗だ。

 今更焦っても仕方ねぇよな――



-scene18 重なる体温-





 林檎と一緒にタクシーを降りる。
 マンションのエントランスまでの短い距離を並んで歩きながら、脳内ではめまぐるしく思考が錯綜していた。

「わざわざここまでありがとうございました」
「いや、俺がそうしてぇだけだからっつったろ」
「 嬉しい、です」
「上まで一緒に行くわ」
「え?」
「荷物重てぇし」

 捻り出した最良の理由は、陳腐なものだった。
 俺の持っていた鞄を受取ろうと、差し出された林檎の手を制しつつ、この理由は不自然じゃなかったかと、内心では少しびくびくしている。

「ありがとうございます」

 素直にオートロックを解除する林檎の後ろで、その指の動きにすら心を乱されている俺。
 本当はすぐにでも、彼女を自分のものにしてしまいたかった。

 会社のEVよりも狭い空間。部屋のある階へ昇る十数秒が、変な具合に気分を昂揚させて

「ちょっと寄って行かれます?」

 林檎の何気ない誘いの言葉に、勝手な意味を付加している自分を心のなかで自嘲する。

「じゃあちっとだけ」
「お茶でも入れますね」



 かすかに残る酔いと興奮とでのぼせていた頭は、お茶を1杯飲む間にすこしずつ鎮まっている。正直、ホッとした。

「ごちそうさん」

 コトリ。音を立ててカップをテーブルに置くのと同時に、勢いを付けて立ち上がる。

「タクシー呼びましょうか?」
「いや、酔いを醒ましながら歩いて帰るわ。公園突っ切れば2、30分だし」

 靴を履き、玄関先まで見送りに来た林檎の方を振り返って。

「おやすみなさい」
「おやすみ……林檎」

 別れ際。
 かるく唇を触れ合わせるだけのキスをする。
 やっと、ここまで。
 なにごとも、名残惜しいくらいがちょうどいい。精一杯の強がりを心のなかだけで呟いて、もう一度、そっと抱きしめる。

「じゃあ、月曜日に」
「はい。良い週末を」

 夜風に吹かれて歩く街。
 たったいま触れたばかりのやわらかい感触が、くり返しくりかえし現れては、脳裏を埋め尽くした――







 その晩。流石に深夜だったので、天姫への報告は控えてベッドに入った。

 早く眠ろうと思えば思うほど、さっきまで触れていた奈良さんの肌の感触が浮かんできて。幸せに満たされた気持ちと、それでもまだなにかが足りないような渇望とが私の眼を冴えさせる。

 今夜、はじめて呼び捨てにされた。
 自分の名前は、奈良さんの咽喉を介すると途端に甘みを増して響き、自分に付けられた識別記号以上の意味を持つ。
 聞き慣れた名前が、鼓膜に届いては私の心をゆらした。

 あのなめらかな肌に、もっと触れたかった。
 あの綺麗な手に、もっとふれられたかった。
 あの低く掠れた声で、もっともっと名前を呼んで欲しかった。

 本当は今夜そのまま、奈良さんに抱かれたかったのかもしれない――







 翌朝は、やけに早く目が覚めた。
 余り眠れなかったはずなのに、まだ、いつもとちがう感覚に神経がたかぶっているんだろうか。
 取り敢えず天姫に報告をしなければ、と思いだす。

「天姫、おはよう。今いいかな?」
「どうしたの、こんなに早く」
「昨日、奈良さんに告白されて」
「ホントなの?」
「うん。それで、私も告白して」
「今、家?これから直ぐ行くからゆっくり聞かせて」
「分かった、待ってるね」

 天姫を待つ間に洗濯と掃除を済ませ、昨日持ち帰った図面を広げる。ぼんやり構想を練り始めたところで、インターホンの音。


「早かったね」
「午後は犬塚さんと会うから、午前中しか時間ないし。すっ飛んで来たよ」

 淹れておいたコーヒーをカップに注いで手渡す。天姫は口もつけずに、テーブルへ置いて、話しはじめた。







「で。どう言うこと?」
「だから、電話で言ったとおりだよ」
「もっとくわしく!」
「奈良さんに告白されたから、私もですって伝えた」
「付き合うことになったんだ?」

 うん。と頷いた林檎は幸せそうで。親友のそんな姿を見るのは、やっぱり私も嬉しかった。さんざん悶々とさせられたけど、そんなことはどうでも良くなるくらいのいい表情をしている彼女を見つめ、天姫も笑顔をこぼす。

「よかったね」
「ありがとう」
 
 本当によかったと思う心の片隅では、この前犬塚さんから聞いた話が引っ掛かっていて。心から祝福したい一方で、“林檎が我愛羅さんに抱き締められていた”真相を知りたい欲に負けた。

「ところで、ひとつ聞きたいことがあります」
「なに」
「我愛羅さんに泣きついたって聞いたんだけど」
「え、誰に…?」
「しかもそれを奈良さんに見られたって。ホント?」

 うん。素直に頷く姿に、ためいきが漏れる。
 まあ事実なんだろうとは思ってたけど、やっぱりか。

「どうしてそんなことになるの」
「犬塚さん?ってことはうずまきさん?」
「誰から聞いたとか、関係ないし」
「ごめん。でも、でもね、泣きついたわけじゃないよ」
「話してくれればよかったのに」
「だってあのときは、何で悲しかったのか分からなかったし」

 そうだよね。元々、林檎はこういうことには鈍いんだし。
 きっと無意識の内にテマリさんに嫉妬して泣いたってところなんだろうけど、仕方ないか。

「奈良さんとうまく行ったからいいものの」
「はい。これからは気をつけます」
「奈良さんに、余計なこととか言ってないでしょうね?」
「余計なこと、って」
「あれだよ」
「あれ?我愛羅さんは嫌じゃなかったけど奈良さんとなら嬉しい、ってのは伝えたけど」
「……」

 余計な事、だったかな。と続ける林檎の言葉を聞いて、一瞬、二の句がつげなくなった。
 あんた、いくら鈍い鈍いといっても。鈍感にも程があるでしょう!?


「なんで?なんでそんな時に我愛羅さんと比べること言うの」
「やっぱり、余計なことだったか」

 肩を竦める仕草。分かってるんだか、分かってないんだか。
 やっぱりこの子、不安になる。放っておいたらえらいことになりそう。

「ほんとにもう、あんたは」
「でも、もう言っちゃったし」
「ばか」
「キスされた事は、さすがに言えないけど」
「当たり前でしょう?付き合い始めたからって油断して口にしないようにね」
「 はい。気をつけます」

 ほんとに大丈夫かな。

「奈良さん、知ったら怒るのかな」
「付き合う前とはいえ、普通は怒ると思う」
 あんた隙ありすぎだからね。

「隙って。別に誰彼構わずキスされてる訳じゃないよ」

 いやいや、キスだけの話じゃないし。ホント、林檎と話してるとためいき出ることばっかりだ。
 それでも憎めないし、大好きなんだけどね。







 翌週の月曜日。シカマルは、どんな顔で彼女に会おうかと、妙にどきどきしながら出勤した。

 なのに、EVホールで一緒になった林檎はいつもと同じ彼女で。これまでとなにも変わらない態度に、肩透かしを食らった気分だ。

「奈良さん、おはようございます」
「おはようさん。ほら、荷物貸せよ」
「すみません、じゃあ私コーヒー買ってきますね」

 高層階直通EVの中で続く沈黙に、ふと隣を見ると、林檎は淡い笑みを浮かべている。
 これまでふたりきりになる度に俺を追い立てていた謂れのない焦燥感は、気持ちが通じ合えば次第に落ち着いて。林檎の横顔を見ながら、俺もふっ、と笑った。

「何か可笑しかったですか?」
「いや、思い出し笑いみてぇなもん」
「そうですか」
「つうか、林檎も笑ってんじゃねぇか」
「なんだか、幸せだなぁと思って」

 その言葉を聞いた瞬間に、抱き締めたくなった。
 でも、片手には重たい鞄、もう一方の手には熱いコーヒー。状況は皮肉。

「そう、だな。 俺も」

 それに、ここは会社だ。会社。俺たちが仕事をするところ。

 階への到着を知らせるベルが鳴り、扉が開くまでの短い間に、脳の回路を仕事モードへと切り替える。

 名前で呼ぶのもプライベートだけにしとかねぇとな。たぶん、皆がうるせぇし。
 特にゲンマさんあたり。

「森埜、週末のプレゼンの件でちょっと相談乗って欲しいんだけど」
「はい、分かりました」

 取ってつけたように呼んだ姓に、くすりと笑った林檎へ、照れた笑いを返した――







「天姫ちゃんに聞いたよ」
「んだよ」
「シカマル、やっと林檎ちゃんと上手く行ったんだって?」

 出勤してきて早々に耳元でささやいたキバの顔は、これ以上ないほどにニヤニヤしていた。

「あんま、デケェ声出すな」
「なんで?」
「色々とめんどくせぇだろ」

 口の前に指を立てると、すこし睨みながら諭す。さわがれんのは勘弁してほしい。

「それに今週末は大事なプレゼンが控えてんだから、キバも気合い入れてくれよな」
「了解。その内男ばっかで飲みにでも行こうぜ?」
「ああ」

 俺たちの会話を小耳に挟みながら、ふふ、とちいさく笑う林檎の気配が、心地よかった――







 ――奈良クンのスーツ姿、やっぱり最高だね。
 ええ、今日もまたプレゼンなんですよね?
 それはそうと、聞いた?あの噂…
 本当なんでしょうか?ふたりの雰囲気って、前から余り変わってない気がするんですけど。
 どうなんだろう…まだヤってないだけで、付き合ってるってのはホントなんじゃない?
 えぇー、ショック…――



 プレゼン当日の午前中、通りすがりに給湯室から聞こえて来た噂話に、思わず頬が染まった。

 まだヤってない、って。そんなことまで話題にされてるの?
 なんだかものすごく恥ずかしいんだけど。
 やっぱり奈良さんみたいにモテる人が彼氏になると、大変なんだ。

 足早に通り過ぎてデスクへ戻ると、奈良さんに直ぐに見咎められて。

「森埜、どうした」
「え?」
「顔赤ぇぞ」

 ふいっ、と近付いて来た奈良さんの綺麗な顔を見ていたら、キスの記憶が呼び起こされる。ますます頬が熱くなる。

「午後からのプレゼン、大丈夫か?」
「大丈夫です、何でもありませんから」

 俯いている私の額にすっ、と触れた大きな掌が心地よくて、なのに、胸はびっくりするほどどきどきしていた。不用意にふれないでください。

「ちっと休憩すっか、準備ももうほぼ終わったし」
「はい」

 エスコートするようにさり気なく背中に回された掌が、妙にくすぐったい。
 その繊細な指先に、鼓動が伝わってしまうんじゃないかな。焦っている私を、奈良さんは楽しそうに見下ろしている。
 喫煙ルームに入った途端に咽喉の奥でククッと笑うと、耳元に顔を近付けて甘い声で囁いた。

(その赤ぇ顔、もっとじっくり見てぇんだけど)
(……えっ?)
(どう言う意味だか、考えといて)

 もっとじっくり、ってなんだろう。
 煙草を吸うことも忘れて立ち尽くしている私を、口の端を歪めた笑みで見つめる。そんな奈良さんはすごく魅力的。
 ネクタイを緩めた胸元。ちらり見える鎖骨が、煙草を挟んだ指の動きに呼応して浮き立つさまに、つい見惚れた。

 Zippoの油の匂いと煙草の煙に混じって、奈良さんから漂ってくる香水。その香りが、嗅覚から私を麻痺させて、精神の芯がぐらぐらと揺らぐような不思議な感覚。心地いいかるい眩暈を引き起こす。

 いつまでもぼんやりと立ったままの私の方へ、奈良さんの手がゆっくり伸びて来るのを、まるで夢の中の出来事のように見つめた。







 プレゼンが終了したのは18時を少し回った時刻。週末だったこともあり、皆が直帰予定にしていた。
 キバは多分天姫ちゃんの所へ、そしてアスマは奥さんと子供の待つ家へといそいそと帰って行く。
 俺と林檎は予定どおり2人きりになった。

 つうか、林檎…今日の午前中からぼんやりしてるよな?
 俺がちょっと意地悪なことを言い過ぎたか。
 どうせ、あの耳元での問いの答えをずーっと探してんだろ?

 彼女はキバとアスマの立ち去ることにも気付かずに、なにかを考え続けているらしい。林檎の両肩に手を掛けて、すこし身を屈める姿勢で顔を覗き込むと、はっとしたように俺の瞳を見上げた。

「猿飛さんと犬塚さんは、」
「とっくに帰った」
「お疲れさまも言ってない」

 別にいいんじゃねえの。くつくつと咽喉の奥から笑いが込み上げる。


「せっかくこんな堅苦しい服着てっから、あそこ行くか」
「え?」

 ほら、またそんな風に顔を赤らめて。
 その表情って、お前は気付いてないかもしれねぇけど、いや、間違いなく気付いてねえんだろうけど、結構そそられんだぜ?

 照れたように俯く林檎の頭を、ポンポンッと優しく撫でながらもう一度顔を覗き込む。
 困ったように眉根をよせる表情に、どくり、胸が騒いだ。


「お前って、和食好き?」
「はい。大好きです」

 頭を何度も縦に振りながら答えた林檎の様子が可愛くて、口の端だけを少し歪ませてククッと笑う。
 それを見た林檎は、ますます恥ずかしそうに表情を歪めた。

 だから、その表情がやべぇんだって。
 無意識で男心をくすぐんな、煽んな。


「んじゃ、二人でプレゼンの打ち上げでもすっか」

 そっと林檎の細い肩を抱いて、タクシーに乗り込むと、馴染みの店へと向かった。

「あら、奈良様」
「こんばんは」
「いつも御贔屓にして下さってありがとうございます」
「予約してねえんすけど、行けます?」

 二つ返事で案内された個室に、林檎と一緒に座りこむと、上着を脱いでネクタイをすこし緩めた。
 まるで当然の動作のように林檎へ上着を手渡すと、彼女は呆然としたままながらもそれをハンガーに掛ける。

 ククッ…ったく、何をそんなに緊張してんだか。

「御子息におかれましてはご健在のようで、」
「まあ、それなりに」
「お父上にも宜しくお伝え下さいませね」

 いつものでよろしいですか?尋ねる女将に頷くと、部屋の襖は閉じられてふたりきりになった。


 いつもより妙に姿勢の良い林檎の様子が可笑しくて、卓越しに頭を撫でたら、ぴくりと肩を震わせて、また頬を染める。

 料理に箸を付け、ゆっくりと口元に運んでいる林檎の仕草はとてもキレイで。
 箸の運びにも、ちいさな欠片が飲み込まれていく唇が、しっとりと潤んでいるさまにも目を奪われた。

 何気なく髪を片耳に掛ける所作は、彼女が今日着ているタイトなスーツのせいなのか妙に色っぽくて。ちらりと覗いた耳朶にふれてみたくなる。

 あたらしい料理が運ばれてくるたびに、嬉しそうな顔で器を覗き込む林檎が愛おしくて。

 お前がそうやって俯くたびに、シャツの胸元がすこしだけひらく。そのちいさな動きが、じわじわと俺を誘惑してるって、気付いているんだろうか。
 色素の薄いきれいな肌と、微かに影を作っている谷間が、何度も目の前でちらついて。
 まだ食事中だってのに、変な気分になんじゃねぇか。ほんと、無防備っていうかなんていうか。




「奈良さんって、良家のご子息だったんですね」
「んなことねぇって、毎晩午前様になるまでこき使われてんだぜ?」
「それはそうなんですけど」
「めんどくせーこと考えてねぇで、食えよ」

 ふっ、とためいきを吐き出すように笑ったら、まるで縋るように俺を覗き込む林檎の視線。
 そんな眼差しを見せられると、ずっと抑えてきた情動が逸りはじめる。

 付き合って一週間だけど、俺の中では全然早すぎるということはなくて。きっとそれは林檎のなかでも同じだと、確信はあった。

 絡み合う視線や、時折触れる肌、キスをした時の反応。
 俺が触れたいと思うのと同じ位、林檎も触れられたいと思っていて。心を求めあうように、身体を重ねるのがとても自然なことだと。

 ずっと黙り込んだままの林檎の方を窺うと、切なげに眉を顰めて足を擦っている。

 ん?もしかして脚でも痺れたか。
 つうか、その表情。煽ってるつもりはねえって分かってても、やっぱぞくぞくする。


「お前、んなに緊張すんな。味、分かんねーだろ?」
「…はい」
「もっとリラックスしろよ、足も崩していいから」
「いいんですか?」

 いいに決まってんだろ。言いながら手を伸ばして、林檎の頭を撫でる。
 一気に肩の力を抜いてリラックスした彼女は、やわらかく微笑んで俺を見つめる。
 喉の奥を鳴らしてククッ、と笑えば不思議そうな顔。

「今の内にしっかり味わっとけよ」
「え、今の内って なんですか」

 口の端を上げる笑みを浮かべて、顔を林檎の耳に近付けると、昼間よりももっと甘い声でささやいた。

(この後は、俺がたっぷりお前を味わうつもりだから)
(それって、どういう……)
(言わなくても分かんだろ?)

 途端に顔を真っ赤にした林檎は、俯いたまま小さな声で呟く。

「はい…」
「もしかして、イヤ?」

 嫌だと拒否されるワケがねぇと思いながら、ワザとこういうことを聞く俺って やっぱちっとSなのかもな。
 林檎が首を左右に振って、潤んだ瞳で俺を見上げると、すでに理性がゆるゆると崩壊しはじめる。

「じゃあ、今夜は林檎ん家な?」
「…はい」

 食事はもう、あとデザートだけ。
 その短い時間が、まるで焦らされているようで。とてつもなく長く感じた。



「奈良様、失礼いたします」

 やっと来たか、と部屋の入口へ眼を向けると、運ばれてきたデザートの後ろに思わぬ人物が立っていた。

「よぉー、シカマル」
「親父……」
「お前が女連れなんて、珍しいじゃねぇか」
「なんで?」
「偶然、同じ日に飛び込みでいらっしゃったんですよ」

 女将の笑みを含んだ声を聞きながら、俺は思いっきり動揺していた。

「奈良さんのお父様ですか?」
「あぁ、一応な」
「はじめまして、森埜林檎と申します。奈良さんには、大変お世話になっております」
「んな、自己紹介なんてしなくて良いっての」
「ほぉー、テメェにしちゃエラく可愛い子じゃねぇか」

 ニヤニヤした笑みを浮かべながら近付いてきた親父に、羞恥と苛立ちを覚える。


(オメェには、無理なんじゃねぇの?)
(うっせ、ほっとけよ)


「親父もさっさと自分の部屋戻れよ」
「邪魔したな。林檎ちゃん、ごゆっくり」

 バカ息子をよろしくなァ。間延びした口調で言い残して立ち去る親父の背中を見つめながら苦笑いを浮かべている俺に、林檎はふわりと微笑んだ。

「奈良さんとよく似てらっしゃいますね」

 林檎の声を聞きながら、俺の頭はすでに、この後の時間へと飛んでいた――







 タクシーでマンションへ戻る道中は、どちらもあまり喋らなかった。満たされた気持ちと、期待と、緊張と、いろんな感情がぐるぐると内側で渦巻いていたから。

 部屋のドアを開けた途端に、玄関先の壁に身体を押し付けられて。
 優しく両手を拘束される。
 私を見下ろす奈良さんの眼は、とても真剣で。あつくて。深く鋭い瞳の漆黒に、心まで射抜かれた気がした。

 身体を屈め、すこし首を傾げながら、ゆっくりと近付いてくる奈良さんの顔。
 見惚れてしまうほどに色っぽくて、微かに歪んだ表情が愛しくて堪らなかった。

 そっと目を閉じたのと同時に優しいキス。
 塞がれた唇は、とっくに熱を帯びていて。ふれ合った部分から自分が溶けていく錯覚に囚われる。

 かるく唇の表面だけが触れるソフトなキスを、繰り返しくりかえし与えられて。啄ばまれるたびに、感覚は徐々に研ぎ澄まされる。
 湿った下唇を、やわらかく食まれて。
 たったそれだけで、頭の芯が痺れるような快感に、吐息がもれた。

 奈良さん、やっぱり
 キスが上手過ぎる。


 片手の指を深く絡めたまま、もう一方の手が私の頬を辿る。
 熱い指先に、やさしく耳朶を弾かれて、身体中から力が抜けそうになった。

 私、いま 奈良さんのあの綺麗な手に触れられているんだ。

 それを意識するとますます感覚は鋭くなり、逆に思考は麻痺して行く。

「林檎…」

 熱い吐息と一緒に、鼓膜へ注ぎ込まれた声。名前を呼ぶ甘い響きは、そのまま脳内を愛撫するように、じわじわと私を乱して、ほぐして、こわして。
 奈良さんの腰にしがみ付かないと、立っていられない。

 名前を呼んだ唇が、そのまま耳朶を優しく挟む。
 窪みに沿って蠢く舌先に、身体がふるえた。

「奈良、さん」
「名前で呼べよ」

 首筋を辿る唇から響くのは、ぬれた淫靡な音。表皮細胞と一緒に、聴覚までを犯されているような気分になる。

「呼べねぇの?」
「……っ」
「林檎、」

 胸のボタンに手を掛けて、ひとつふたつと器用に外す指。
 鎖骨にキスを落とす奈良さんを見下ろすと、私を観察する彼と目があう。意地悪に唇を歪めた艶っぽい表情に、眩暈がした。

「な、林檎。呼べよ…」

 押しひらかれた胸元、いつもは見えない部分に、いくつもの鮮やかな華が咲く。
 囁く奈良さんの声に、まるで、操られるように口をひらいたのに。名前を呼ぶつもりの喉は、すっかり痺れたように吐息をもらすだけ。

「呼べ、林檎」

 催促するように、指先で唇を弾かれて。
 鼻にかかった甘い声があふれる。

「んっ」
「ほら」
「……シカ…マ、ル」

 名前で呼んだ瞬間、ふわりと身体が浮き上がり、気が付けばベッドに運ばれていた。


「…シカ……っ」

 とろけてしまいそうな身体にも心にも、抵抗の意志などなくて。
 すこしずつ剥がされていく自分の衣服に、戸惑いや羞恥を感じる余裕なんてひとつもない。
 徐々に露わになるシカマルの、筋肉質で整った身体を見つめながら、ただ息が途切れる。
 火照る身体の熱で、咽喉が嗄れた。



 やっとシカマルとひとつになれる…――


 引き締まった綺麗な身体も、細い腰に浮き上がる骨の輪郭も、すべてが愛おしい。

 切なげに眉を顰めた美しい顔がすこしずつ近付いてくる。熱い身体が覆い被さる重み。その、まちわびた感覚に、何も考えずに酔い痴れる。


 そして、


 ふたりの体温は

 重なった――


2008.05.02
この後の2人については、ご想像にお任せします。
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