俺の手から書類を受け取った森埜の瞳は、淡く揺らいでいた。
彼女の不安を煽っている要因はなんなのか。
あの長い髪をばっさりと切るほどの決意は、どこへ向かっている?
コピー室へ向かう森埜の背中を見つめ、当てのない思考を巡らしていたら、ポン。勢いよくキバに肩を叩かれた。
「んだよ」
「いや。林檎ちゃん、何だか最近元気ねぇなと思って」
「ああ、そうみてぇだな」
その理由が俺に関わることだったら良いのにと願う気持ちは、我儘なのかもしれない。
「シカマル、しっかりフォローしてやれよな」
「わーってるって」
無意識で顔の歪んでしまいそうなこの想いが、いつか森埜まで届けば…と。澱んだ胸の奥では、静かな熱を帯びた感情が叫んでいた――
-scene14 誤解…-
「奈良さん、コピー出来ました」
「ん。サンキュ」
デスクへ戻ってきた森埜の表情には、いつもの笑み。
「今、コピー室でうちはさんに会いましたよ」
「サスケ?」
「ええ。すこし感じが変わりましたね」
「そっか?」
森埜の口から漏れる別の男の名前。サスケの名にすら、かすかな反応を示す俺の心は、あの公園での会話から、醜く歪みはじめている。
流石に誰彼なしに嫉妬するっつうのは行き過ぎだけどな。
「婚約なさったからですね、きっと」
「あ?何で?」
そうだ、サスケはもう別の女と婚約していて、いま俺の感じている感情は明らかにおかしい。
思ったよりぶっきら棒になってしまった自分の台詞を反省しながら、森埜の言葉の続きを待った。
「うちの桃地が言ってたんですけどね、大切なもの・守りたいものが出来た男が一番変わるんですって」
「変わる?」
「ええ。強くなる、とも言ってました」
どこか遠くを見るような森埜の横顔には、ほほえみと憂いが浮かんでいて。俺のなかのちいさな不安と嫉妬心を、ほんのすこしだけ煽る。
急に変わったっつうのは、お前自身のことなのかもしんねぇな。
髪を切って、鎧を纏ったように堅く遠くを見据えて。森埜の変化が、俺の心に波紋を起こしていることなんて気付きもしない素振り。
「男が出来た時の女の方が変わるんじゃねぇの」
「変わらない女もいますよ」
それは、一般論としての言葉なんだろうか。
それとも、森埜の実体験に基づく言葉?
もしかして、あの日。我愛羅と何かあったんじゃないだろうか。
「奈良さんは、そう思われませんか?」
「いや、言われてみれば」
「でしょう」
「サスケも前ほど文句を言わなくなったな。余裕が出来たっていうの?」
「それが桃地の言う『強さ』かもしれませんね」
俺を見上げている森埜からは、さっきまでの切なげな風情が抜け落ちていて。それが俺をホッとさせた。
「そういや、うちのオヤジが似たような事言ってたわ」
「お父様が?」
「ああ。『女がいなきゃ男はダメになっちまうもんだ』ってな。おふくろの尻に敷かれてるくせに良く言うぜ」
「そういう風に奈良さんに言えるお父様、素敵じゃないですか」
――俺は、
お前がいなきゃ…
ふわりと口元を綻ばせた森埜の決意を秘めた表情。
それを見つめながら、心のなかでは芽生えたばかりの独占欲が、すこしずつ増殖していた――
◆
「森埜、これ」
「え、なんですか?」
「うちの我愛羅から預かって来たんだけど」
テマリさんに不意に話し掛けられて、思わず肩が揺れた。
パソコンの画面に向かっていた顔をゆっくりと声のした方へ向ける。何か書籍の入っているらしい包みを持った、テマリさんがすぐ傍にいて。私を見下ろす、自信に充ち溢れた表情が目に入る。
「ありがとうございます」
「あんた、今年一級受けるんだってね」
「はい」
「まぁ、プロジェクトの進行に支障がない程度に頑張りなよ?」
彼女の言葉に他意はないのかもしれない。でも、ちいさな棘を感じて。私の想いを更に固める類のとげ。包みを受け取る手が、僅かにふるえた。
「ご忠告、ありがとうございます」
掌を翻しながら去っていく背筋は、しゃんと伸びている。見送って、そっと唇を噛み締めると、私は決意を新たにした――
◆
「なあなぁ、天姫ちゃん」
「何ですか、犬塚さん」
「なんだよ、名前で呼んでくれよ」
「なんで」
「俺たち、付き合ってるんだから」
「今、仕事中です。それに、そんなにくっついて来ないでよね?」
ちぇーっ。
口を尖らせている犬塚さんも可愛いんだけど、皆の目がある所でベタベタするなんて私には無理。
それに犬塚さんだって、私の事ずーっと“天姫ちゃん”って呼んでるじゃないですか。
犬塚さんの方を軽く睨むと、おいでおいでと手招きをされた。
「もう、何なんですか」
「なあ、あのふたり」
彼が顎でちらと示した先には、一緒にパソコンの画面を覗き込んでいる奈良さんと林檎の姿。
「やっぱり、すげぇいい雰囲気だと思わねぇ?」
たしかに私も、奈良さんと林檎はお似合いだと思う。
この前の給湯室での会話のこともあるし、ずっと気になってはいたよ。
だから、林檎が髪を切った時あんな風にふたりを煽るようなことを言ってみたんじゃない。
「前にも、そんなこと言ってましたよね?」
「ふたりとも満更じゃねぇと思うんだけどなァ」
って、犬塚さん…何でそんなにニヤニヤしてるの?
「だから?」
「なんかさ、もうじれったくってさ。くっつくならくっついてくれた方が良くねぇ?」
たしかにね、あのふたりの姿は見てるだけでもどかしい。
明らかに奈良さんも林檎も、お互いのことを想ってるって、態度にも仕草にも表れてるのに。
「でも、公私混同されてもやりにくいか」
「林檎なら、そういう心配はないと思うけど」
「心配ねぇの?」
「だって彼女、仕事とプライベートのON・OFF切替えはしっかりしてますよ」
「へぇ……」
「仕事の愚痴なんて聞いたことないし」
「じゃあさ、さっさと俺たちでくっつけちゃおうぜ」
満面の笑みを浮かべている犬塚さんを、がっかりさせるのは本意じゃないんだけど。きっと、そんなに簡単には行かないと思うんだよね。
「でも、今は無理かも」
「何で?」
「何があったのか分からないけど、仕事モード全開って顔してるし」
「ちょっとつっついてみようかな、って思わねぇの?」
途端にすこし不満げな表情を作った犬塚さんを、諭すように思案気に言葉を選んだ。
「思わない、かな。あの状態の林檎に恋愛話するの、無理」
「俺たちみたいに幸せになって欲しいって思わない?」
「……いつ、私が幸せだって言いました?とにかく、無理」
「まじ?幸せじゃねぇの?ショック」
「今は林檎の話でしょ」
ブツブツと不満を呟いている犬塚さんには悪いけど、本当にいまの林檎にはきっと私の言葉は届かない。いくらがんばっても。
「仕事モードの林檎に恋愛話をするのって、子供に地球が回ってる事を説明すんのと同じくらい大変だもん」
「へ?」
「だーかーら!そういう面、めちゃくちゃ鈍いんですよ。林檎は」
多分、あの髪を切るという突然の行動は、仕事モード全開の今の林檎の決意表明だとは思うんだけど。それは、私から見ればぜんぜん違う意味になる。
まだ意識していない奈良さんへの想いや、テマリさんへの密かな嫉妬の感情を、仕事への悔しさに摩り替えて解釈したとしか思えなかった。
長い髪が好きだった元彼への想いを断ち切る、という気持ちもきっと林檎のなかにはあるんだろうけど。
それも、本人が全く自覚してないんだもんね。
奈良さんの隣で幸せそうに微笑んでいる親友の姿を見つめながら、心境は複雑だった――
◆
「この前の晩は悪かったな」
「いえ」
「奈良のお陰で楽しかったよ」
奈良さんの席まで来て、話し掛けているテマリさんの声を聞いたのは、ちょうど私が仕事を終えて会社を出ようとしている頃だった。
「別になんも」
「今度はもう少しゆっくり時間を取ってくれ、奈良と話してると脳が活性化される」
「なんすか、それ」
早く帰って勉強しなきゃ、明日の仕事の準備もしておきたいし。
心のなかで言い訳を捻り出していた私は、本当はふたりの姿を見ていたくないだけだったのに。劣等感を刺激しているものの正体が何なのか、取り違えていることには気付かなかった。
「何だったら、今夜これから飲みに行くか?」
奈良さんを誘うテマリさんの声を聞いているのが、ただ辛かった。
私に今できる事は、仕事に支障の出ないように勉強して、早く一級を取って奈良さんの役に立てる人間になることで。テマリさんを羨んでばかりいても、何も物事は進展しない。
だから、早く帰ろう。帰ったらやることが山積みなんだから。
「お先に失礼します」
「おう、おつかれさん」
いつもどおり、奈良さんは優しい声で労いの言葉を掛けてくれたけど。顔を見れずに、荷物を手に取って俯いたまま事務所を後にした。
◆
テマリさんが俺に話し掛けるたびに、様子がおかしくなる森埜のことには気付いていた。
「お先に失礼します」
その言葉の持つ頼りない響きが、俺の胸を締めつけて。
「おう、おつかれさん」
労いの一言に乗せた仕事以外の感情が、森埜に伝わればと密かに願っていたのに。彼女は、俺の瞳を見ようともせずに俯いたまま事務所を後にした。
その背中は、無理をして気丈に振舞おうとしているのが分かる位に頼りなく、放っておけない程に儚げで。気が付いたら、俺は立ち上がっていた。
「テマリさんすんません。今日はちょっと無理っす」
「分かった。じゃあ、またその内」
自席へと戻るテマリさんを見送って、頭をガシガシ掻きながら荷物と上着を手に取る。
「あーもう。めんどくせぇ」
「シカちゃん、しっかりな」
「あ?」
「林檎ちゃんのこと、頼んだぜ」
ニヤニヤしているキバを睨んで、慌てて事務所森埜を追いかけた。
「おー、シカも今帰り?」
「ああ。ナルトもか」
「今日は我愛羅と待ち合わせだってばよ、下まで一緒に行こうぜ」
これから飲みに行くんだけど、シカも一緒に来る?EV前でやたらテンションの高いナルトを横目に、いま聞いたばかりの“我愛羅”の名前に、妙な胸騒ぎを感じていた。
◆
ナルトとの待ち合わせは、綱手サンの事務所が入っているビル。全く自社まで俺を出向かせるとはわがままな奴だ。そういう強引なところも、アイツらしくて憎めないんだがな。我愛羅はひとりごちる。
エントランスに立っていると、今にも泣きそうな表情で女がEVを降りてきた。
何事だろうかと、こちらに近付く姿を凝視すれば、思いがけぬ人物だった。あれは森埜じゃないか、何かあったのか?
「森埜…」
「え?我愛羅さん、どうしてここに?」
ここへ出向しているのだから、彼女に会うのも偶然ではないのだろうが。予想もしていなかったタイミングで顔を見られたのが嬉しくて。そう思っている自分が不思議だ。
「ナルトの奴と待ち合わせだ」
「そう、ですか」
「これから飲みに行くんだが、一緒にどうだ」
「いえ、私は帰ってやる事がありますし」
「そうか。あんまり頑張り過ぎるなよ」
俺の言葉を聞きながら、森埜の瞳で膨らんで行く涙の雫が切なくて。
無意識で手を差し伸べると、片手で肩を抱いて、瞳を覗き込んだ。
「泣くほど辛いことでもあったか」
指先でそっと涙を拭いながら問いかける。
森埜は上目遣いで俺を見上げて、困惑している。
「いえ、なにも」
「……」
「何でだろう。変ですよね」
笑顔を作ろうとしている森埜の表情は、かえって痛々しくて。じっとしていられなかった。
無理して笑うことはない、誰にだって辛いことはあるのだから。
肩をゆっくり引き寄せると、森埜の顔が見えないように胸に抱き締めて。微かにふるえている背中をやさしく撫でながらささやいた。
「泣きたくなったら、泣けばいい」
「我愛羅さん……?」
「無理は、するな」
くぐもった森埜の声に含まれた戸惑いも、苦悩も、全部受け止めてやりたかった。
「今ならお前の顔は、誰にも見えていない」
だから、
思い切り泣けばいい――
◆
自分でも説明のつかない感情で心の乱れたままEVを降りると、予想外の人に声を掛けられた。
今は誰とも話したくなかった。なのに、我愛羅さんのやさしい表情を見たら固まった心がふわりと溶けるように、涙腺が緩んだ。
あんまり頑張り過ぎるなよ?声が、身体の芯にじんわりと沁みて。不意に抱き締められたことには驚いているのに、私は何故か安心もしていた。
「泣きたくなったら、泣けばいい」
そんなことを言われたら、もっと泣きそうになるじゃないですか。
「無理はするな…」
その言葉をきっかけに、涙は堰を切ったように溢れ出す。自分ではどうやっても止められなかった。
背中を撫でてくれる我愛羅さんの掌はとても温かくて。憧れの先輩にこんな風に心配して貰えることが、単純に嬉しい、と私は思った。
◆
EVがひらいた瞬間、目に飛び込んできた光景に眩暈がした。動揺をナルトに悟られないように視線を反らして、シカマルは思い切り唇を噛みしめる。
やっぱ、胸騒ぎっつうのは当たるもんなのか。
抵抗もせず我愛羅に抱き締められて、森埜は泣いているらしい。ほそい背中は震えている。
今、彼女を受け止めているのが俺じゃなくて別の男だという事実が、抉るように深く胸に突き刺さる。
耳元で囁かれるナルトの言葉は、更に俺の心を穿った。
(あれぇ?我愛羅と林檎ちゃんって、そういう関係だったのかぁ?)
(んなこと、俺が知るかよ)
(俺、てっきり林檎ちゃんはシカと怪しいと思ってたってばよ)
(……っ)
「我愛羅、お待たせー!!何やってるんだってばよ」
ナルトのデカイ声に驚いたのか、反射的にふたりは身体を離して。何事もなかったかのようにこちらを見た。
「ナルト、遅かったな」
「うずまきさん、奈良さん。お疲れさまです」
俺は我愛羅と森埜の方を直視できず、自然に皺が寄ってしまう眉間を気にしていた。さっき俺とテマリさんの方を見れずに事務所を飛び出した彼女も、こういう気持ちだったんだろうか。
「シカ、林檎ちゃんも、行くだろ」
「俺は遠慮しとく」
「一緒に行こうってばよ」
「しつこいぞ、ナルト」
「私も、帰ってやらなきゃならないことがあるんで。また」
肩を組んで歩き始めたナルト達の後ろに並ぶと、俺と森埜は会話のないまま歩きだす。
「じゃあ、俺たちは飲んで来るってばよ」
「へいへい」
「シカ、ちゃんと林檎ちゃんを駅まで送ってけよー」
ナルトに引き摺られるように歩み去る我愛羅が、無言で振り返る。肩越しの意味深な視線に、心は更に攪拌されて、ざわざわと乱れてゆく。
あの視線…挑戦か?
お前には、簡単に森埜を渡す気はない――
脳内で創られた勝手な像は、聞いてもいない我愛羅の声を頭のなかに響かせて、俺を混乱させた。
「じゃ、送ってくわ」
「すみません」
「どうせ通り道だし、気にすんな」
「 あの、テマリさんは良かったんですか?」
「はぁ?」
おふたりで、どこかへ行かれるのかと思ってました。呟くように発せられた森埜の声に、苛立ちとも安堵ともつかない微妙な感情が湧き上がって。
「森埜も、我愛羅と一緒に行かなくて良かったのかよ」
思考のフィルターを介さずにぽん、と吐き出した言葉は、やけに冷たく夜空に響いた。
「我愛羅さんと会ったのは、偶然ですよ」
知ってる。
知ってるのにわざわざ聞いた。その偶然にすら妬けた。
「それに私は今、余裕ありませんから」
風に乗って消えそうな森埜の声を聞きながら、俺の脳裏をくり返し占領する光景。エントランスで抱き合うふたりのシーンが、驚異的な威力で理性を破壊して行くのを、静かに感じていた――