テマリさんの背中を目で追いながら森埜の瞳は徐々に曇って行く。まるで、なにも映さないガラス玉のように虚ろで。なのに、他の誰よりも澄んで見えた。

 かすかにゆらぐ双眸の奥。潜む彼女の思惟は、俺の読み取れない負の感情でゆるやかに歪んで。じわじわと歪みつづけて。軽く力を加えれば、儚く崩れてしまいそうだ。

「シカマル、お前 行かなくて良いのかよ?」

 キバの言葉は耳に届いたが、森埜から一瞬も視線を外せない。
 こんな状態の彼女を、放って行けないと思った。

「ああ、今日の内にやっちまいたい事もあるし。遅れても構わねぇだろ?」

 俺の言葉で、明らかに変化した森埜の感情。その顔に浮かぶは、安堵だろうか。

「森埜。わりぃけど、これ 急ぎで頼むわ」
「今日中で良いですか?」

 ああ、月曜中に間に合えば充分。書類を手渡しながら覗きこんだ瞳に、すこしだけ戻ってきた輝きが、俺を切なくさせた――



-scene13 決意表明-






 別に決起会っつっても、俺は正式なプロジェクトメンバーじゃねぇし。一時的なサポート要員なんだから、行く必要ないんじゃねぇか?
 にしても、アオバさんとゲンマさんにどんな言い訳すっかな。

 決定的な策の浮かばぬまま、あてもない思考を巡らしていたら、焦燥を煽るように、携帯が鳴った。たぶん催促だ。


「奈良、お前何やってんだ。先に始めちまうぞ?」

「ゲンマさん、すんません。ちっと急ぎの仕事が入って、」
「来れねぇっつうのは無しだぜ。出来るだけ早く終わらせろ」
「無理、っすか……」
「テマリ女史、お待ちかねだぜ?今にも社まで迎えに行きそうな雰囲気」
「……分かりました、行きますから。彼女、引き留めといて下さい」

 今、テマリさんが俺を迎えに来たら、きっと彼女はもっと傷付いた表情をする。それは絶対に避けなければいけない、と思った。
 肩越しに見つめた背後の席で、森埜の後姿はとても頼りない。


「呼び出しですね」
「ああ。そーみてぇだな」

 寂しそうに俺を見つめる視線を感じつつ立ち上がり、帰る支度を始める。

「奈良さん」
「ん?」
「週明けの月曜日は、社の方へ寄ってから来ますね」
「あぁ、了解。何かあんのか?」
「ちょっと、我愛羅さんとサイさんに呼ばれてるんです」

 森埜の言葉を聞いて、また不穏な波が動き始める。

 我愛羅、サイ―――
 サイはともかく、何で俺は“我愛羅”の名前にこんなに敏感に反応しちまうんだろう。

 我愛羅さんと同じチームになって、仕事が楽しかった――
 あの日聞いた何気ない一言は、ただの先輩以上の感情が孕まれたものに思えて。

 俺の考え過ぎか?

 森埜の表情はいつもと変わりなく、別段気にすることは読み取れない。敏感になり過ぎている自分を密かに戒めると、心のなかで独り呟いた。

 想いを自覚した途端に嫉妬しちまうなんて、俺もまだまだ人間出来てねぇよな。


「あの、奈良さん…?」
「あ、わりぃ。で、何時?」
「昼前には」
「じゃ、飯食いに外出るか?」

 ちょうどキバは朝から外出で社にいねぇし、良い機会だ。
 この誘い方、ちっと無造作すぎっかな?

「えー、天姫ちゃんは?」
「キバ、お前月曜は直行だろう?偶には外で食わせろ」
「あ、そうか。じゃあ残業時は天姫ちゃんとこだぞ!」

 おいおい、もう残業決定かよ。
 まあ、多分定時で仕事が終わんねぇのは間違いねぇんだけど。

「じゃあ、終わったら連絡します。ここで良いですか?」

 そうか、森埜にはナルトの悪戯でメアドは知られてっけど、携帯No.はまだ教えてなかったな。

「いや、」

 手に持ったままの携帯から、登録されている森埜のNo.に発信した。
 森埜が自分の携帯を確認し、登録するのを見届けると、上着を羽織り荷物を手に持つ。


「じゃ。めんどくせぇけど、行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
「あんま遅くまで残業すんなよ?」

 僅かに不安を滲ませた森埜の視線を気遣いながら、事務所を後にした――







 ――今日は山城さん達、飲み会なんですってー。
 ああ、だから早くに退社しちゃったんだ?
 私たちより先に会社出ちゃうのって珍しいですもんね。
 それにしても、テマリさん…絶対奈良クン狙いだよ、あれ!
 必要以上に、奈良さんにばっかり声掛けてますもんね。
 すごい良い雰囲気だし…あーあ、奈良クンまで盗られちゃうのかな。
 うん。ヤバイかも――



 夜食のお届けに来たら、また給湯室から話し声が聞こえてきた。

 ここの女子社員って、ヒマなのね?
 それにしてもこの会話の内容って、奈良さんと林檎以外の女性の噂だよね。
 テマリさんって、あの不知火さん達のプロジェクトで出向してきてる美人さん?
 ちょっと頂けないなぁ。

 土日の間に、こっそり犬塚さんに相談してみようかな。







 仲良くじゃれ合う天姫と犬塚さんの姿を目で追いながら、私の頭の中に描かれているのは全然別の絵で。
 霧雨の昼下がりに並んで立っていた奈良さんとテマリさんの、思わず息を飲んでしまうようなワンシーンが、繰り返しくり返し再現されていた。

 奈良さんが一緒に仕事をしたいと思って私を指名してくれたのは、本気で嬉しい。
 だから応えたいし、精一杯のことをするつもりでいるけど、プロジェクト開始早々のあの失敗が心に深く沈澱していて。仕事も出来る上に経験や知識も豊富な、自信に溢れるテマリさんを、つい自分と比較してしまう。

 一級の設計製図試験のための講座申込も終えた。
 テマリさんにはなれないけど、このプロジェクトを終えた時に、奈良さんに一緒にやって良かったと思って貰いたい。

 その為に、自分が出来ることは必ずやる。
 奈良さんの役に立てるように。


 決意を込めて――







 月曜日。久しぶりに事務所へ姿を現した森埜は、やわらかい笑顔なのに、どこか憔悴しているように見えた。

 元々華奢な身体付きが、更に細くなったんじゃないのか?
 そんなにプロジェクトが忙しいのだろうか、それとも製図試験の為に無理をしている?

 痩せたせいで、儚さと透明度を増したその姿を、記憶と異質に見せている一番の要素は――

 その、髪……か。

 あんなに長くて美しかった髪をばっさりと切って、一体森埜の心の中ではどんな変化が起きているんだろう。我愛羅は眉間にしわを寄せた。


「我愛羅さん、お疲れさまです」
「おはよう。忙しいのに呼び立てて悪かったな」
「いえ、大丈夫ですよ。サイさんは?」
「あいつは、急に桃地さんと同行することになってな」

 サイから預かったものを森埜へ渡すと、打ち合わせルームへと促した。


「で、ウチの姉は迷惑を掛けたりしていないか?」

 歩きながら深い意味もなく紡いだその問いで、森埜の瞳が曇って行く。それと同時に、胸の奥からは、不思議な感情がしずかに沸き上がる。

「テマリさんは、素晴らしいですよ」
「そうか?」
「私も、あんな風になりたいと思います」

 姉のことを羨ましげに語る口調の裏に、微妙に歪んだ劣等感を感じて。黙って見ているのが辛かった。


「お前は……そのままで充分だ」
「えっ?」

 驚いたように俺を見あげる森埜の方へ、無意識で手を伸ばして。肩に掛かるか掛からないかの長さの髪にそっと触れる。
 ゆっくりと隙間へ指を差しこんで、髪を梳き下ろしながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「お前は、今のままで充分だ。だから、無理はするな」
「……はい。でも、」

 指先から溢れ出すしずかな気持ちが、森埜へ届けば良いのに。

「この髪型も、お前に良く似合ってるぞ」

 唇から、掌から自然に零れ出したその想いは、紛れもない愛おしさだった――







 我愛羅さんとの打ち合わせを終えたのは、11時を少し回った頃。

「このまま、こっちで昼食をとっていったらどうだ?」

 美味い店を見つけたんだ、御馳走するぞ。めずらしく笑顔になった我愛羅さんに一瞬目を奪われたけど、頭を占めていたのは奈良さんとの約束のことで。
 実は金曜の晩から、今日のランチがひそかに楽しみだった。

「いえ、昼までには戻ることになっていますので」

 さっきからやたらに気になっていた携帯の方を、ちらりと見る。ふたたびいつもの無表情に戻った我愛羅さんに、すこし申し訳ない気がした。

「そうか。仕方ないな、」
「申し訳ありません」
「引き留めて悪かった。ではまたゆっくり」
「お疲れさまでした、また誘ってくださいね」

 挨拶を済ませ社を飛び出した私は、慌てて奈良さんの携帯No.を押した。







「おつかれ」
「ゲンマさん、お疲れさまっす」
「何だ、奈良。さっきから、やたら携帯ばっか気にしてねぇ?」
「んなこと、ねぇっすよ」

 この人はなかなか侮れねぇな。

 にやにやと意味ありげな笑いを浮かべているゲンマさんを見ながら、ポーカーフェイスに徹す。

「で、この前の晩はどうだったんだよ」
「何がっすか?」
「何がって、お前…テマリ女史と夜の街に消えて行ったじゃねぇか」
「はぁ?彼女を駅まで送って、すぐ帰りましたよ」

 いったい、ゲンマさんも急に何を言い出すんだ。

「なんだ、何もなかったか。案外お前も肝が据わってねぇんだな」
「どういうことっすか」
「据膳食わぬは何とやらっつうだろ」
「……」
「…まあ、俺も彼女みてぇなタイプよりは林檎ちゃんのがずっと良いけどな」

 楽しげな笑いを残して去っていくゲンマさんを、複雑な心境で見送っていると、手元の携帯が着信を知らせた。








 俺と森埜はふたりで早目のランチを済ませ、缶コーヒー片手に会社近くの公園に向かった。
 気持ちのいい初夏の風が吹き抜ける昼下がり、きれいに晴れ渡った青空に浮かぶ白雲が眩しい。

 ベンチに並んで座ると、缶コーヒーのプルトップをあけて。空を見上げながら、気持ちよさそうに目を細めている森埜の方へと手渡す。

「ありがとうございます。でも、自分で開けられますよ」

 軽く眉を顰めながら俺を見上げて笑う森埜は、景色に溶けてしまいそうに綺麗で。

「せっかくキレイにしてるマニキュア、剥がれんだろ?」

 俺は頭をポンっと叩きながら、微笑みを返した。

 やわらかに降り注ぐ陽射しが、森埜の髪をきらきらと艶めかせて。金曜日とはすっかり印象の変わった彼女は、ほんの少しだけ大人っぽく見えた。

 俺の撫でる掌をちらりと見つめた後に、彼女は恥ずかしそうに俯いて。森埜の髪が、さらさらと頬に掛かるさまに、つい、見惚れた。


「…髪、切ったのな」

 うなじが見えるか見えないかの微妙な長さ。髪の隙間から、森埜の白い肌が覗いて。なめらかそうな質感に、柄にもなく胸が躍る。

「変、ですか?」

 斜め方向の上目遣いで俺の瞳を見上げる視線が、愛しかった。

「いや、似合ってると思うぜ」

 ヘンに気持ちがこもらないようにさらりと言葉を紡ぐと、ゆっくりと空へ視線を移す。
 並んで青空を見上げながらしずかな時間を過ごすのが、この上ない幸せに思えたのはたった一瞬で。

「良かった。我愛羅さんにも同じように言われました」

 次の森埜の言葉で、俺の昂揚した気持ちはどん底へと沈んだ――







「お待たせしまし」
「あ、天姫ちゃん!!今日も可愛いなァ」
「犬塚さん。ちゃんと会社名まで言わせてくださいよ」
「まあ、まあ。いいじゃん」

 天姫ちゃんがいつものように夜食のお届けに現れた気配に、書類から目をあげる。

 昼休みに生じた複雑な気持ちを引きずって、俺は午後中ほとんど森埜と口をきけずにいた。

「林檎、やっと短くしたのね」
「うん。思いきって、切っちゃった」
「そっちの方が似合うってずっと言ってたのに、全然切るそぶり見せないから」
「それって、林檎ちゃんは髪長い方が好きってことじゃねぇの?」
「いえ、そう言う訳じゃないですよ」

 3人の会話には加わらずに、傍観者を決め込む。

「林檎 の“元彼”が長いの好きだったんだよね。それまでは短くしてたのに」

 元彼という言葉を聞いた瞬間に、思わずピクっと肩が揺れた。

 今日は、とことん俺の気持ちが乱れる日らしい。
 我愛羅のことでもまだ鬱々としているのに、今度は元彼の話かよ?

「天姫、何でそんなこと言うの」
「だって本当のことじゃない」
「そう、だけど」
「でも切ったってことは、完全に吹っ切れたんでしょ?」

 じゃあ、取り敢えず元彼については気にする必要なしってことか。
 つうか、天姫ちゃん…俺の気持ちに感付いてて、わざと言ってねぇ?

「私は彼のこと、引き摺ってなんか無い、と思うんだけど……」

 なんだよ、その自信なさそうな喋り方。もしかして、森埜はまだ何らかの感情を元彼に対して持ってるっつうことか?

「女って、やっぱそーゆーとこあんの?」
「人それぞれだと思いますよ。林檎はどうだか分からないけど、私は全然引き摺らないかなぁ」
「だよな。天姫ちゃんはもう俺に夢中、だろ?」
「犬塚さん。調子に乗らないでください」
「んな、強がんなって」



「それにしても、林檎。急にどんな心境の変化?」
「うーん、もうすこし仕事に一生懸命になろうかと思って」
「それって髪切る理由になんのか?」

 3人で盛り上がっているのを横目に見ながら、心のなかではぐるぐると不快な感情が渦巻き続けて。どうしても笑顔を作ることが出来ずにいた――
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