いつもはポケットに突っ込んでいる両手が塞がってしまったことを、ただ幸せに感じていた。
 薄い布を隔てて微かに伝わってくる体温は、馬鹿みたいに俺の動悸を早めて。僅かに背けた顔のなかで、弛んでしまいそうになる部位に力を込めた。

(……俺がこうしたいんだから)

 思わず口をついて溢れ出した自らの言葉も、衝動的に肩を抱いてしまった行為も、紛れもない俺の本音で。
 そこから繋がる音も所作も見つけられず戸惑いながら隣を窺うと、微かに染まった森埜の頬。

「傘、持ちますよ」

 俺の手にそっと重ねられた細い指へと柄を委ねる。森埜の掌を包み込むように上から握りしめると、指先から伝わってくる滑らかな肌の感触に眩暈がしそうだった。

 駅まで、あと100m……
 静かに降り続く雨が、俺と森埜を隠してくれたらいいのにと思っていた。

 この傘の下だけが、俺たちにとっての世界――



-scene12 近付く距離-






「ありがとうございました」
「礼言うほどのことじゃねえよ」
「奈良さん、地下鉄ですよね?助かりました」
「あー…、今日は俺もこっちで帰るわ」

 改札に吸い込まれて行きそうな森埜の背中を見ていたら、ついそう答えていた。
 地下鉄だと1本で帰れんだけど、まだ一緒にいたくて。

「ついでだし、家まで送ってく」
「駅に着いたら傘、買いますから。大丈夫ですよ?」

 やわらかい拒否の言葉に一瞬怯んだ心も、森埜の表情を見ればすぐに立ち直る。厭がられている訳ではないと分かるから。

「俺が、そうしてぇんだ」

 さっきとそっくりな言葉を紡ぎだす自分の唇に、密かなむず痒さを感じた。



 車窓に打ち付ける雨の雫を並んで見つめる夜の電車内。背筋を伸ばして立っている森埜に腕を貸しながら、この時間が永遠に続けばいいのに、と思った。







「で、昨日はどうだったんだよ?」

 にやにやした顔で出勤してきたキバの様子を見れば、結果なんて一目瞭然だったけれど。あまりにも聞いて欲しそうな顔をしてるのが可笑しくて、答えの分かっている問いを向けた。

「それがさあ、な、な、聞きたい?シカマルも林檎ちゃんも、聞いてくれる?」

 つうか、お前が話したくてしょうがねぇんだろ?

(ったく。マジで分かり易いヤツだよな、キバって)
(そうですね、幸せそう)
(仕事に支障出なきゃ良いんだけど)


「……それでさ、俺が天姫ちゃんを雨の中でぎゅうっと、こう抱き締めてさ……」

 延々と続きそうなキバの話を聞いている俺の脳裏に、フラッシュバックのように描かれるのは昨夜の傘のシーンで。
 目の前で楽しそうな表情を零す森埜を、見ているだけで胸の奥がかすかに震えていた――







「お待たせしましたー、」
「お。天姫ちゃん、待ってたぜェ」
「犬塚さん。じゃれついて来ないで」
「ほら、俺が持ってやるって。大事な天姫ちゃんに、重労働はさせらんねぇからな」
「これ位、一人で持てますから。大丈夫です」
「んな、遠慮すんなよ」

 天姫が現れた途端に、すっ飛んで行った犬塚さんの姿が可笑しくて。ついつい笑いを抑えられずに、奈良さんに話しかけた。

(早速やられちゃってますね)
(ったく、あいつも…もっと学習しろよな)
(でも、天姫も何だか嬉しそう。素直じゃない所は変わらないけど)
(ああ。ホントに、上手く行って良かったな)


「犬塚さん、邪魔ですから。席に戻ってて下さい」
「ちぇっ、だってよォ」

 ぶつぶつ言いながらデスクへ向かってくる犬塚さんは、それでもやっぱり嬉しそうで。私は、久しぶりに心から笑った気がした。







「だーかーら、犬塚さん?今、仕事中」
「いいじゃん、もう俺の彼女なんだし」

 天姫ちゃんの肩に手を回しながら笑顔になっているキバの奴、マジで幸せそうだ。

 純粋に、良かったなって祝福してやりたい気持ちは勿論あんだけど、そうやって嬉しさ100%みてぇな顔されっと、正直なとこ複雑。
 もうちっと大人しく出来ねぇかなぁ。あんまり調子に乗ってると、天姫ちゃんにガツンとやられちまうんじゃねぇの?

「だって、天姫ちゃんのこと見せびらかしてぇじゃん」
「し・ご・と・中っ」

 ほら、肩に置かれた手を除けられただけじゃなくて、足まで踏んづけられてんじゃねぇか。
 つうか、それも自業自得か。

「いってーっ!なんだよォ、昨日はあんなに素直だったのに、」

 そんな恨めしそうな顔で天姫ちゃんを見たりすっと、またやられんぞ?
 キバ、いい加減気付けよ。

「昨日?昨日が、何か?」

 天姫ちゃん、にっこりしてっけど目が怖ぇし。

「つれねぇなァ、天姫ちゃん。昨日のこと忘れたの?」
「犬塚さん、図に乗らないでよ。仕事の邪魔です」

 お、すげぇイイ蹴り入ったな。アレはマジで痛そう。

(あいつらって、ホントに上手く行ったのか?)
(天姫からは、そう聞きましたけど)
(何か、全然昨日までと変わってねぇように見えんだけど)
(彼女は喜びを素直に表せないだけだと思いますよ。私だったら、嬉しいのにな)

 ふたりを見つめながらさらりと紡がれた森埜の何気ない言葉が、俺を驚くほどに動揺させていた。

 “私だったら、嬉しい”って、どういう意味だ?

 ほほえみを浮かべている森埜の横顔の向こう側で、こちらを見つめているテマリさん。その視線に妙な胸騒ぎを感じるのは、ただの気のせいだろうか?

「こいつら放っといて、コーヒーでも買いに行こうぜ」
「え、あ…はい」

 俺は森埜の腕を掴むと、EVホールへと並んで歩き始めた。





「奈良、週末の夜は予定空けとけよ?」
「うす」

 通りすがりに掛けられたテマリさんの声に、森埜の顔が歪む。彼女の心を緩やかに押し潰して行く。その様子が、俺の胸まで苦しく締め上げるようだった――







「アオバさんのプロジェクトの決起会だぜ、」
「え」
「週末。変な勘違いすんなよ?」

 ふたりきりのEVで俯いていた私の耳元に、身を屈めてささやいた奈良さんの声は本当に優しくて。
 何で私の考えていることは、いつもいつも見抜かれるんだろう。

 びっくりして見上げれば、奈良さんの困ったように眉根を寄せている表情がとびこんできて、ぐっと胸に迫った。

 並んで立っている狭い空間で、かすかに触れ合った手の甲が、過敏反応を起こしている。奈良さんの滑らかな皮膚の感覚が、脳内を巡る情報の大半を占領していく。
 思わずふっ、と漏れたためいきは温い熱を孕んでいて、1Fに着くまでの十数秒は頭がくらくらするほどに長く思えた。

「テマリさんの事、変に意識すんなよ?」

 その奈良さんの言葉の意味は
 まだ、私には分からなかった――







「明日は、Nビルのエントランスに8時50分で良いんだよな」
「ああ。森埜は、場所分かる?」

 ええ、分かりますよ。という森埜の返事を聞いて、シカマルは必要資料を2人に渡そうと手を伸ばす。
 キバは慌てた様子で俺の手からそれを奪い取ると、ぱらぱらと捲って中を確認し、鞄へと突っ込んだ。

「じゃあ、俺 お先!天姫ちゃん、待たせてるしな」
「おつかれさん、それ忘れんなよ?」
「犬塚さん、お疲れさまです。天姫によろしく」

 まるで、ご主人様の元へ尻尾を振りながら走って行く犬みてぇ。







「ここで待ち合わせなんてして、会えんのか?」
「仕方ねぇだろう。このビルに用があんだし」

 待ち合わせ場所のエントランスは人でごった返している。ちょうど入る前にシカマルと会えなければ、俺はきっと、ずーっと視線を彷徨わせ続けることになっていたと思う。

「しっかし…人多過ぎじゃねぇ?イベントでもやってんのか?」
「かもな」
「今朝は直行だから、林檎ちゃんの服装分かんねぇしなァ」

 シカマルと会話をしながら、林檎ちゃんの姿を捜したけど、こんだけ人で溢れてたらぜんぜん分かんねぇ。
 マジでちゃんと合流できんのか?と、不安になっていたら、シカマルがちいさな声を漏らした。

「あ、いた」
「どこどこ?」

 シカマルが見ている方向に視線を動かしてみても、ただの人の群れが動いてるだけで。やっぱ、ぜんっぜん分かんねぇけどな。

「分かんねぇの?あの、水色のシャツ着てる」
「……!」

 シカマルも、あんな遠くで良く分かんな…
 …ってか、林檎ちゃんも真っ直ぐこっちに向かって来てんじゃねぇ?

「お疲れさまです。凄い人ですねぇ」
「おつかれさん」
「おつかれー。あんな遠くから良く分かったな」
「…?」



「じゃあ、そろそろ行くか」

 先に立ってEVホールに向かい始めたシカマルの後ろに、林檎ちゃんと並ぶと、会話を続けた。

「俺、最初林檎ちゃんの姿、分かんなかった」
「そうなんですか?私、直ぐ分かりましたよ?」
「……シカマルで?それとも、俺で?」

 シカマルも林檎ちゃんの姿にすぐ気付いたみてぇだし、俺が鈍いだけなのか?

「んー。奈良さんは直ぐ分かりますね」
「今日、スーツだけど?」
「服なんて関係ないですよ。歩き方とか、姿勢とか、で」

 林檎ちゃんの答えは、確実に彼女のまだ気付いてない感情を炙り出しているようで。他人事ながら、わくわくした。

 それに、
 林檎ちゃんが“奈良さんは直ぐ分かる”っつった時、シカマルの奴敏感に反応してたよな。
 なんか、今もちょっと耳赤いんじゃねぇ?
 やっぱ、この先面白くなりそうだぜ…――


「へぇ…。俺、天姫ちゃんなら直ぐに見付けられる自信あるけどな」
「天姫って、そんなに目立ちます?」

 いやいやいや、目立つからとかじゃなくて、好きだから目に飛び込んで来んだけど。
 つうか、シカマルのそのいつもの余裕…そろそろやべぇんじゃねぇの?

 心の中でツッコミを入れつつふたりの姿を交互に眺めると、俺はこっそりほくそ笑んだ――







「奈良、ちょっと良いか?」

 社に戻ってすぐにテマリさんに呼ばれて。俺は、脱いだばかりの上着を肩にかけ、片手でネクタイを緩めながら振り返った。

「奈良さん、上着と荷物。私が席まで運んでおきますよ」
「わりぃな」

 微かに歪んだ表情で手を差し伸べている森埜へと、上着を手渡しながら、またこいつがへんな誤解をするんじゃないかと、そればかりが気懸りで。

 つうか、何でいっつも俺なんだよ。
 別にアオバさんでも、ゲンマさんでも良いんじゃねぇの?俺はただのサポートメンバーなんだし。

「今度は何なんすか?」
「またちょっと、知恵を借りたくてな」
「何で俺に?」
「山城や不知火が、この種のバランス感覚に優れてるのは奈良だって推薦してるんだよ」

 ったく、あの人らは…
 多分、自分らが相手すんのがめんどくせぇからって、俺に振ってんだろ?








「これ見て、何か感じないか?」
「何か、って」
「私は、きっちり決まり過ぎてて気持ち悪いんだが」
「そーっすね。吹き抜けにしてるせいでせっかくのデザインがぼやけてる、ってトコっすか」
「じゃあ、単純に吹き抜けの面積を狭めれば解消される?でも、階段をこの位置から動かしたくないしな」

 開きっぱなしの打ち合わせルームから、奈良さんとテマリさんの会話が聞こえてくる。




「視線も2Fから1Fに届く方が良いでしょうし」
「そうなんだよ。平面計画的には、今のままが理想なんだ」

 お茶を入れて運んだ際にちらと視線を上げた奈良さんの向かいで、テマリさんが活き活きと喋っている。その横顔は、やっぱり初めてすれ違ったあの日のように美しくて。

「平面的にはそのままで、オブジェか何かでちょっと変化付けるっつうのはどうっすか?」
「じゃあ、この辺りにかなり大きめの装飾的な照明を持ってくれば、空間密度も上がるね」

 タイトなスーツを綺麗に着こなしている姿も、きちんと手入れされている金色の髪や爪も。声も表情も、経験に基づいて繰り出される言葉たちも、何もかもが私を圧倒した。

「そうっすね、それなら平面はこのまま行けますし。良い感じのノイズになるんじゃねぇかな」
「早速、デザイン的に相性の良さそうなアーティストを当たってみるよ」
「特注するつもりっすか?」

 当然だろう?自信ありげに答えているテマリさんの声を聞きながら、打ち合わせルームの扉をそっと閉めて、すこし俯いたまま、給湯室へと向かった。







 奈良が、あの霧雨の日にすれ違った男だということは、はじめて綱手サンに紹介された時から気付いていた。

 まるでDe'ja` Vuのように、あの一瞬で私の心を捉えた涼しげな眼元と、かすかに歪んだ唇。
 その不思議な予感は、ただビジュアルで目眩まされたものではなくて。奈良の中に根付く深い精神性が、会話をするたびに私の心をさらに虜にしていく。

 彼と森埜林檎との間に流れる不思議な空気感に気付いた後も、奈良への想いは薄れることはなく。むしろ、その間に入り込んで奪ってしまいたいと思った。
 幸いなことに、まだ森埜は奈良への自分の気持ちを自覚すらしていないらしいしね。
 でも、さっきのあの子の視線。どう見ても嫉妬だ。
 今日の決起会が終わったら、強引に奈良を口説くか。
 手遅れにならない内に――







 ――遂に、犬塚さんも彼女出来ちゃったねー。
 残るは、奈良さんとうずまきさんだけってこと?
 うーん。ショックだ!!
 でも…――



 いつものように中からは女子社員の話し声が聞こえて、私は入る前に遠慮がちに声を掛けた。

「あのー、すみません。お盆、ありがとうございました」
「あ。森埜さん!打ち合わせルームに行って来られたんですか?」
「えぇ」
「奈良さんとテマリさんの様子って、どんな感じでした?」

 どんな感じって、どういうことだろうか。

「真剣に打ち合わせされてましたけど」
「いい雰囲気とかじゃなかったです?」

 良い雰囲気?と、首を傾げる私の手からお盆を受取ると、彼女たちは眉間に皺を寄せながら続けた。

「何だか、テマリさんって仕事も出来るし、美人だし」
「あんな人に狙われたら、奈良さんも一発で落ちちゃうのかな」
「さあ、」
「あ…森埜さんの仕事の邪魔して、すみませんでしたー」
「お疲れさまですー」

 彼女たちに軽く頭を下げてデスクの方へ向かいながら、私の中ではぼんやりと一つの考えが浮かんでいた――







「さっきはお茶、サンキュ」
「いえ。じゃあ、私片付けて来ますね」
「いや、テマリさんが自分で下げてたぜ」

 俺の口から“テマリさん”の名前が出る度に顰められるその眉は、一体どんな意味があるんだ?

「打ち合わせ、上手く行きました?」
「ああ。つうか、関係ねぇのに俺を巻き込むなっての」
「頼りにされるって、すごいことだと思いますよ?」

 なんで森埜は、そんなに切なそうな顔してんだよ。

「俺も森埜のこと、頼りにしてるよ」
「私はまだまだです。稚拙なミスを犯したり、」
「あのことは、別に気にしなくていいっつうの」

 周りはすっかり忘れちまってるけど、森埜の中ではあの失敗が案外尾を引いてんのかもしんねぇな。
 あの日も随分動揺してたし。

「それに、資格も二級しかありませんし。経験も」
「今年一級受けんだろ?お前なら取れるって」

 苦しそうな表情を見ているのが切なくて。俺に何かしてやれることはねぇのかと、鳩尾の奥で靄のような感情が渦巻いて、じっとしていられなかった。

 喋りながらすこしずつ俯いて行く森埜の頭にポンっと手を乗せると、優しく何度か撫でて。

「今でもお前は、充分俺の役に立ってるよ」

 精一杯の笑顔を作って、瞳を覗き込んだ。

 んな、泣きそうな顔すんなよ。
 ここが会社だっつうのも忘れて、抱き締めたくなっちまうだろ?

 しずかに沈んだままの森埜の脳内で、どんな思考が蠢いていたのか。
 その時の俺は気付いてやれなかった――







 奈良さんの温かい掌は心地よくて、私の心をすこしだけ身軽にしてくれたけれど。そんなことくらいでは、いまの何とも言えない陰鬱で自己嫌悪に満ちた気分は解消されなかった。

「じゃあ、先に行ってるからな」
「奈良も、遅れずに来いよ?」

 山城さんや不知火さんと並んで事務所を出て行くテマリさんの背中は、いつものように凛としていて。夕陽を浴びてさらさらと揺れている髪がとても綺麗に見える。

 私もちょっとは、見た目を気にした方がいいのかな。

 もしかしたら、奈良さんはテマリさんみたいな人が好きなのかもしれない。
 ぼんやりと浮かんできた考えに、思った以上に動揺している自分が、不思議だった――
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -