「じゃあ、また月曜に」
「はい。おやすみなさい」

 別れ際、タクシーの窓越しに奈良さんが見せたやさしい笑顔が、いつまでも頭のなかを巡っていた。
 霞んだ空に浮かぶ淡い月は、穏やかでしずかな奈良さんの横顔に、綺麗な陰影をおとして。エンジン音が消え去るまで、私はそこを一歩も動けなかった。

 涼やかな眼元に浮かぶ慈しむような視線が、ついさっきまでは確かに私に向けられていた。
 低くてほんの少し掠れた耳触りの良い声が、私に向って発せられていた。

 瞳を閉じれば浮かんでくるその表情と響きを、何度もなんど脳内で描きながら、夜空を見上げて物想いに耽っていた私は、本当はもう少し、奈良さんと一緒にいたかったのかもしれない。
 まだ金曜の夜だというのに、もう月曜の朝のひとときを待ち焦がれていた――




-scene11 優しい雨-





 事務所に上がる前に1Fのスタバでいつものコーヒーをふたつ買って、シカマルは両手が塞がったままEVへと向かった。

「奈良さん、おはようございます」
「おはようさん」
「いつもすみません、明日は私が買いますね」

 差し出された森埜の右手にラテのカップを渡す。その瞬間に触れあう指先と、袖口から覗く細い手首を、本当はもっと、ぎゅっと掴んでみたいと思っていた。
 入れたてのコーヒーの匂いに混じって、互いから漂う同じ香りが、にわかに思考を歪ませる。

 高層階専用EVの中での2人きりの短い時間。俺の脳内を微妙なためらいと昂揚が満たしているなんて、きっと森埜は考えもしねぇんだろうな。

「なんだか、雨の降りそうな空だよな」
「そうですね、夜までもってくれたらいいけど」

 週明けの朝は、いつもに増して森埜の笑顔が眩しく見える――







「奈良のアドバイス通りに引き算したラフプラン、クライアントに気に入ってもらえたよ」
「そうっすか」
「お礼に、今度食事でも御馳走させてくれ」
「別に、たいした事してねぇんすから。そんな気遣い無用ですよ」
「遠慮するな」

 背中合わせの席から聞こえてくる奈良さんとテマリさんの会話が、どうにも耳障りで席を立った。

 私に合わせるように一緒に立ち上がった犬塚さんと、並んで喫煙ルームへ向かう。その途中、ちらりと後ろを振り返ると、こっちを見ていた奈良さんと視線が絡まった。

 何故、そんなに切なそうな目をしてるんですか?
 今、訳もなく不愉快になっているのは、私の方なのに。


「先日の夜は、」
「ああ、参った」
「聞きました」
「天姫ちゃんあれから結局全然口聞いてくれなくてさ」
「また天姫の悪い癖が出ちゃったか」

 癖?と、聞き返しながら煙草に火を点ける犬塚さんは、不思議そうに首を傾げて私の瞳を覗き込んだ。

「ええ。好きな人には、意地っ張りになっちゃうんですよ」
「俺、嫌われてるのかと思ってた」
「そんな事ないと思いますよ、その後に話したらすごく反省してましたから」
「マジで?」

 良かったァ。と、ホッとした声で呟きながら、ゆっくり煙を吐き出す真剣な表情。天姫にも見せてやりたいな。
 こんな風にしずかにを想っている所を見せられたら、きっと天姫にも犬塚さんの本心が伝わるんだろうに。

「なかなか素直になれない彼女だけど、呆れないでやって下さいね」
「呆れる訳ねぇじゃん。だって俺、天姫ちゃんしか見えねぇもん」
「ですね、見てたら良く分かります」
「だよな?精一杯愛情表現してるつもりなんだけど、何で伝わんねぇのかな」

 本当に、上手く行ってくれたらいいのに。天姫の過去と性格とが、きっと邪魔してるんだね。

「必要以上に警戒しちゃうみたいで」
「なんで?」
「昔、口の上手い男で痛い目に遭ってるんですよ」
「じゃあ、俺の喋り方がその男のイメージと重なったってこと?」
「そうかもしれないですね」
「でもなァ、俺って思い込んだら真っ直ぐ突き進んじまう直情型だし。嘘は言ってねぇんだけどな」

 犬塚さんの苦悩に満ちた囁きは、窓から見える仄暗い空に溶けて行った――







「犬塚さーん、すみません」
「ん?」
「ちょっとこれ、手伝って貰えませんか」

 私がちょうどランチのお届けに来ると、女の子の可愛い声が聞こえた。

 廊下の角を曲がる手前でつい足を止めて、ちらっと顔だけを覗かせる。大きな段ボールを持った事務員らしい華奢な女の子と、それに寄り添うように立っている犬塚さんの姿。

「ほら、貸せよ」
「いえ、半分持ちますー」
「良いって、俺が一人で持った方が早ぇだろ?」

 片手で軽々と箱を持ち上げて、もう一方の手で背の低いその子の頭をポンポンッと撫でている。その様子が、すごくお似合いのカップルみたいに見えた。

 彼女を見下ろしている犬塚さんの表情は、喩えようもなくやわらかくて、隣で彼を見上げている女の子は、本当に嬉しそうで。

「いつもすみません」
「そんな細い腕してんのに、無理して持つなよ。いつでも呼んでくれたらいいからな?」

 犬塚さんの優しさが、私以外に向けられている。それを目の当たりにしたら、心臓が止まるんじゃないかって位に、胸が痛くて堪らなくなった。

「……っ!」

 なによあれ。やっぱり、犬塚さんもそうなんだ?誰にでも、そんな風に優しくしてるんじゃない。


 しばらくその場から身動きも出来ずに、唇を噛みしめて。見たばかりの光景を振り払おうとしていたら、後ろから近付いてきた不知火さんに、不意に声を掛けられてビクッと肩が震えた。

「天姫ちゃん、どーした」
「不知火さん」
「持ってやろうか」
「い、いえっ!私はこれ位、一人でちゃんと持てますから」
「そう?」
「ええ。大丈夫です」

 犬塚さんが席に戻ってくる前に、お届けを早く済ませて帰ろう。
 いまは、顔が見れそうにない――






「天姫ちゃん、もう帰っちまったの?」
「はい、引き留めたんですけど」
「まじかよ」
「ちょっと様子がおかしくて、土曜の晩にはもう少し落ち着いてたんだけど」

 しょんぼりと落ち込んでいるキバは不憫だが、俺はさっきゲンマさんに聞かされたことが気に掛かっていた。


(犬塚が事務員の女の子に優しくしてんの見て、天姫ちゃん動揺してたぜ。あいつらってどうなってんの?)


「キバが誤解されるような行動、取ってんじゃねぇの?」
「何だよ、誤解って」
「酒に任せて告白すんのも、天姫ちゃんの目の前で他の女に優しくすんのも、頂けねぇっつう事」


「……さっきの、見られてた?」

 そういうこと。と、諭しながら頭を占めていたのは、実はキバのことでも天姫ちゃんのことでもなくて。
 じゃあ俺はどうなんだ、こいつに説教なんて出来んのか?
 もしかしたら、森埜の表情を曇らせているのは、他ならぬ俺自身じゃねぇの?

 自嘲、するしかねえな。


「要はお前の真剣さが伝わってねぇんだろ」
「でも、俺……俺は、本気で」
「じゃあ、それが伝わるように努力しろよ」


 テマリさんの視線が俺たちの方へ注がれているのを視線の端で捉える。そっと、森埜の顔色を窺うと、いつものやわらかい笑みは失われ、切なげに眉を顰めて顔を背けていた。

 そう言えば森埜、最近ちょっと痩せたような気がする。それも俺のせい?

(シカマル、お前だってそうじゃねぇの?)
(俺はお前ほど軽口叩かねぇっつうの)

 小声で囁かれたキバの台詞に、頭のなかをぐるぐると思いっきり攪拌される感覚って、一体何だろう。

 森埜の何気ない言葉や仕草に翻弄されるのも、他の男の名前を聞いてムカムカするのも。やたらと表情が気になるのも、他の男と一緒に居る姿を見ていたくない気持も。笑顔を近くで見ていたいと思うのも、抱き締めたくなるのも、触れた指先が過敏に反応するのも。

 全部、答えはひとつじゃねぇの?

 森埜は、ぼんやりと遠くの一点を凝視したまま、切ないためいきを漏らしている。彼女の脳内を占めている思考が、俺のことだったら良いのに。そんなことを願っちまうのって、

 俺は、森埜のことを…――

 ゆっくりと首をこちらへ動かした森埜と、視線が絡み合うだけでどくり、胸が騒ぐ。体全体が脈打つみたいに鼓動が逸って逆上せちまいそうになるこの気持って、


 恋愛感情?


 偶然同じ香水を身に着けている事が嬉しかったり、落ち込んでいる顔を見ていられなかったりするのも。ナルトの悪戯で妙に焦っちまったのも、メアドを聞かされて動揺しちまったのも。
 キバと天姫ちゃんのやり取りを見ながら、囁き合う瞬間に幸せを感じるのも、きっと…ぜんぶ。ぜんぶ。


 そしてやっと、


 想いを自覚した――







 夜食のお届けを、カカシさんかうみのさんに代わって貰う予定だったのに、ふたりとも急に本社会議へ招集されて。仕方なく私が行くことになって、すごく憂鬱な気分の夜。

 こんな時間には珍しく、通りすがりの給湯室からは話し声が聞こえて来て、私は無意識で足を止めた。
 この声って、犬塚さんだよね?


 ――犬塚さんも、奈良さんも、すごい人気なんですよ〜?
 んな事言ったって、何も出ねぇぜー?
 ホントですって。うちはさんが婚約されたから、余計に倍率上がっちゃってる感じで。
 マジ?でも、俺……
 あー、その先は禁句です!!皆、見てるから分かってますって。
 そっか、そんなに俺って分かりやすいのー?
 ええ。分かり易いけど、それでも皆が犬塚さんの事を好きなんですよー。優しいし。
 そうかー?――


 人が出て来そうな気配につい身を隠す。カップの沢山乗ったトレイを持った犬塚さんが昼間の女の子と一緒に現れて、予想はしていたのに、目に映るその光景にドキドキと胸が騒いだ。
 なんで、私が隠れなきゃいけないんだろう。

「犬塚さん、零さないでくださいね」
「俺だってこれ位運べるっての、つうか手伝ってんのにその言い方ってヒドくねぇ?」
「あはは、そうですよねー。すみませーん」

 笑顔で不知火さん達の席の方へ向かう2人を横目に見ながら、走って林檎達の席へ向かう。
 お届けに来たものを無言のままで取り出し始めたら、きっと林檎は心配すると思ったのに、なにも喋れなくて。だって、何か喋ると泣きそうだったから。
 犬塚さんの視線が、私じゃない所に向いてるのを見るのが苦しくて、くるしくて。早く立ち去りたくて。

「天姫、どうしたの?」

 黙ったまま首を振って踵を返そうとしたら、こっちへ近づいてくる犬塚さんの姿が目に入った。

 隣に立っている女の子の方をちらっと気にしながら“やべぇ”って聞こえてきそうな表情をするから、なんだか悔しくて堪らなくなった。

(まじぃ場面に遭遇しちまったみてぇだな)
(天姫、大丈夫かな)


 潤み始めた瞳で犬塚さんをすこしだけ睨むと、私は事務所を飛び出した――







「お前、昼に話したばっかだろ?何で天姫ちゃんが誤解するような行動してんだよ」
「悪ぃ、シカマル…俺いま話聞いてる余裕ねぇから」

 慌てて追いかけようとする俺に、林檎ちゃんが上着を手渡しながら囁いた。

「天姫のこと、宜しくお願いします」
「ああ、行ってくる」



 飛び出した外は雨。
 視線を彷徨わせると街燈の下で頼りなげに肩を震わせている小さな影が見えて、居ても立ってもいられなくて。
 天姫ちゃんは、濡れるのも構わずに降り頻る雫に打たれながら、両手で顔を覆って立ち尽くしていた。


「天姫ちゃん、」

 顔を上げて怯えるような表情を見せた彼女は、哀しげなのにすごく綺麗で。
 頬をつたう水滴と濡れた髪が、街燈の光を反射して、近寄り難いほどに幻想的に見えた。

 今にも走りだしそうな天姫ちゃんを逃がさないように、駆け寄って抱き締める。彼女は華奢な身体を捩じらせて、俺の方を睨み上げた。

 やっぱ俺、めちゃくちゃ天姫ちゃんの事が好きみてぇ…

 天姫ちゃんに、言いたいことはたくさんあった筈なのに、その切ない上目遣いを見た瞬間に全てが飛んで。
 夢中で抱き締めることしか出来なかった。

「犬塚さん、やめて…」
「イヤだ、やめねぇ」

 腕の中で震えている天姫ちゃんの濡れた瞳を覗き込むと、顔を反らされないように細い顎に手を掛けて。
 心の中で溢れているありったけの想いを、一言に込めた。


「本気、なんだ……」






「天姫たち、大丈夫かな」
「キバもやるときゃやる奴だし、今回ばかりは決めてくれんだろ?」
「そうですよね」

 さっさと食って、仕事終わらしちまおうぜ?という俺の言葉に、森埜はふわりと微笑む。その顔を見つめながら、俺は今日自覚したばかりの自分の感情を、改めて実感していた。

 俺もその内どうにかしなくちゃだよな――







 犬塚さんが他の女の子に、あんな風に優しい表情を向けるのが苦しかった。
 自分はいつも彼のことを軽く突っ撥ねてばかりいるのに、それでも私だけを見ていて欲しいなんて、厚かましいのかもしれないけど、それが私の本音で。

 もしかしたら、私が意地を張り過ぎちゃったから、犬塚さんももう呆れちゃったのかも。
 でも、誰にでも紳士的な犬塚さんだって悪いと思うんだよね。

 心のなかで強がってみても、本当は不安で堪らなくて。もしかしたら明日から、私に話しかけてもくれなくなるんじゃないか、最初から本気じゃなかったのかもしれない、って。
 頭のなかに浮かんでくるのは犬塚さんの事ばっかりだった。


 飛び出した外は、さっきまでと打って変わったように雨が降り始めていて。私の天邪鬼な性格を、空にまで馬鹿にされているような気がして、切なくて堪らなかった。

 何でもっと素直になれなかったんだろう――


「天姫ちゃん、」

 雨音を縫って聞こえてきた切羽詰まった声は、私が今一番聞きたかったもので。なのに、なにを言われるのかと考えると怖くて、耳を塞ぎたくなった。

 見上げた犬塚さんの髪からは雨の雫が滴る。見慣れないぺたりと垂れた髪のせいで、まるで別人の様に見えて、ドキドキする。

 怒っているのか慌てているのか、眉間にはくっきり皺が刻まれていて。言葉を紡ぎかける途中で止まってしまった形の唇が、隙間から犬歯を覗かせながらちいさく震えていた。

 訳もなく怖くて、走りだそうとした私の腕は、易々と力強い掌に捉えられて。
 次の瞬間には犬塚さんの広い胸に抱き締められ、身動きすら出来なくなった。

 一体、どういうつもりなんですか?
 誰にでも、こういうことをしてるんでしょう、私だけじゃなくて。

 色んな想いが渦巻く自分を持て余して必死で身を捩る。
 犬塚さんの顔を精一杯睨みつけたら、予想よりも遥かに真剣な眼差しが私の瞳を捉えて、どうしたらいいのか分からなくなった。
 抱きしめる腕に、だんだん込められていく力。それには、どう言う意味があるの?
 混乱した脳の回路は、状況の処理を出来ずに、いつもの意地っ張りな私の属性を引っ張り出す。

「犬塚さん、やめて…」
「イヤだっ、やめねぇ」

 胸に顔を埋めたままで発せられたくぐもった自分の声は、すぐに犬塚さんの力強い叫びに否定される。
 それを聞いた私は、なんとも言えない安堵感に満たされていた。

 雨に濡れて寒いからなのか、それとも犬塚さんの腕のなかにいるからなのか、震えが止まらなくて。潤んだ瞳を覗き込んできた犬塚さんの顔に、視線は釘付けになる。

 次々に降り注ぎ顎を伝って滴り落ちて行く雫で、犬塚さんはいつもより男振りが上がって見える。
 鋭い印象は和らいでいるのに、私を見据える視線は真摯で。真っ直ぐに神経の中枢を射抜いて。

 眩暈がしそう――

 思わず顔を反らしそうになった私に気が付いて、犬塚さんは顎に手を掛ける。いつかのかたい指の感触。
 
 そして。
 私の双眸から一瞬も視線を外さずに、切ない声を発した。



「本気、なんだ……」

 その声が、周りで激しく降り続いている雨音さえ、消してしまったように感じた。
 目の前の犬塚さんしか見えなくて、犬塚さんの声しか聞こえなくて。世界にはたったふたりだけしか存在していないみたいに、私たちの周りの音も物も瞬時に闇に沈んだ。どこかへ消えた。

 大きな瞳のなかで鋭く尖っている黒眼に、吸い込まれてしまうんじゃないかと思った瞬間。
 ふっ、と犬塚さんの表情が崩れて、いままで見たこともない位、やさしくて切ない顔が、少しずつ近付いてきた。

 本気、なんだね?
 私のこと、ホントに好きだと思ってくれてるんだよね。

 頬に降ってきた犬塚さんの唇の感触に、ぴくりと肩を揺らす。

「天姫…本気なんだ」

 耳に唇を押しつけながら、聞いたこともないほど甘く嗄れた声が、もう一度鼓膜の奥に注がれる。

 犬塚さんのこの声、すごく好き。
 その切ない表情も、強引な所も、明るい笑顔もやさしさも、全部ぜんぶ大好き。

 嬉しくて、幸せで、どうしようもない気分のまま犬塚さんの顔を見上げたら、貪るように乱暴に唇を塞がれて。
 身体からは一気に力が抜けた――







「奈良さん。お先に帰りますね」
「ああ。おつかれさん」
「お疲れさまでした」

 事務所を後にしてEVに乗りこんだ私は、家に着いたら天姫に電話してみようと思っていた。

 あれから犬塚さんは戻ってこなかったし、きっと上手く行ったんだよね?
 流石の天姫にも、これでまだ意地を張ってるようならお説教して上げなくちゃ。


 人も疎らな、エントランスを抜けて外へ出ると、雨が降っていた。

 高層階って、雨が下で降ってても気が付かないんだ。
 そう言えば朝からちょっとお天気も悪かったし…傘、持ってない。


 ビニール傘を買えば良いかと思いながらコンビニへ引き返すと、見事に売り切れていた。

 もうすこし小雨だったら濡れて帰るんだけど、今日の雨はちょっと、困ったな。
 とは言っても、どうしようもないし。諦めるしかないか。

 心のなかで呟いて、降り注ぐ水滴の世界へ飛び出しそうとした私の腕は誰かに掴まれて。目の前に、傘が差し出された。

 この綺麗な手って、もしかして奈良さん?

 無意識で触ってしまいそうになる気持ちを抑えて振り返ると、ちょっと口元を歪めて微笑んだ奈良さんの顔。
 くくっ、と咽喉の奥で可笑しそうに笑うと、掴んでいた私の腕を放して隣へ並んだ。

「随分長いことためらってたな?」
「……見てたんですか?」
「見えたんだよ」

 歩き始めた奈良さんに遅れないように隣に並ぶと、何だか嬉しそうな横顔を見上げた。
 目の前にある掌は大きくて男の人っぽいのに、すらりと伸びた指先と形良い縦爪。本当にキレイで、見ていると、やっぱりついつい触りたくなった。


「ほら、濡れんぞ?」

 ぶっきらぼうな調子で言葉を紡ぎながら、さり気なく肩を抱かれて、ふわっと奈良さんの香りが鼻腔を捉える。
 何故だか分からないけど、急に動悸が激しくなる。

 私の肩が濡れないように差し掛けられている傘のせいで、寄り添っているのと反対の奈良さんの肩には雫が落ちていて。

「奈良さん、濡れますよ?」

 私は大丈夫ですから。と、傘を気にしながら隣を見上げたら、優しい声が降ってきた。

「森埜は、そんなこと気にすんな」
「気にしますよ」

 肩に回された奈良さんの掌に微妙に力が込められて、互いの肩が触れ合うほどに抱き寄せられた。

「……俺がこうしたいんだから」
「えっ?」

 驚いてもう一度見上げると、奈良さんの耳元はほんのり赤く染まっていて。さっきから速度を増している動悸が、もっと激しくなる。

 今の奈良さんの言葉って、どういう意味?
 不意打ちでこんなことをされたら、私まで頬が赤くなりそうなんだけど。


 会話らしい会話も出来ずに、駅までの道を黙って歩きながら、心のなかは心地の良い困惑で満たされて行った――
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