君に捧ぐ3月14日
春浅い日差しがミッドガルに降り注ぐ季節。ホワイトデーなんてバレンタイン商戦に乗っかってどっかの企業が作り出した戦略イベントだ。ばかばかしい。今までそうやって冷ややかに、そして他人事のようにこの日を過ごして来たが、今年の俺の心境はそれと違った。去る2月14日、甘過ぎるチョコレートの味を知ってしまったから。
早朝からの任務を終え、昼下がりの調査部総務課オフィスにて報告書の作成もほどほどにインターネットの検索バーに「ホワイトデー お返し」の文字を入れて、マウスホイールをくるくると回す作業に専念する俺がいた。検索バーに入力したお返しという表現は正確には間違いが含まれている。バレンタインチョコレートを俺は貰ったのではなくて、言うなれば"強奪"したからだ。差し迫るホワイトデーを目の前に何をするべきか一向に妙案が浮かばない焦燥感にマウスカーソルを彷徨わせながらデカいため息をもらせば、俺がチョコレートを奪った当のなまえは俺の気持ちなど知ってか知らずか……いや、わかっちゃいない。俺が報告書の作成に疲弊していると勘違いをして「疲れてる? 食べる?」と隣のデスクからつまんでいたクッキーを1枚差し出てきた。俺の顔を覗き込むその瞳には、俺が抱いているような不純の色は浮かんでいない。モニターライトに反射してちらちらと輝く茶色い瞳が、気遣わしげに瞬いた。
なんで全部無かったことみたいになってるんだよ。あの夜に贈った言葉の意味なんて、ちっとも伝わっちゃいない。少しは意識してくれたって良いものを、ナマエの様子は何一つ変わる様子も見せず俺たちの日常は続いていた。差し出されたクッキーをあの日のように受け取れば、また少しは可愛げのある姿を見せてくれるのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えながら摘むように2本の指で一口サイズのクッキーを受け取った。
「…いただくぞ、と」
「どーぞ。これ、駅前のお菓子のイベントブースで買ったんだ!入れ物が可愛くて」
ペン立てにしてるの!と嬉しそうに細い指が示す先には、この薄暗く陰気なオフィスには不似合いの小花が描かれたガラス瓶に神羅カンパニーのロゴが入った文具が押し詰められていた。なまえは季節のイベント毎にこうやって装飾の施された瓶やら缶やらを集める趣味があった。今年のバレンタインはそんななまえの趣味に乗じてイベントブースへ足を運んでみれば、予想通り幸せそうに戦利品を手にしたなまえがいた。抱えていたチョコレートは誰かにあげるものではないことは分かっていたけれど、間違っても俺の知らないどこぞの誰かにそれが渡ることだけは絶対に許せなかった。思い返しても愚にもつかない思い付きの行動だったけれど、あの時のなまえの顔と、触れた唇の柔らかさを思い返せば十分過ぎる収穫があった。
隣で嬉しそうにニコニコしている姿を見て、なまえが気に入りそうな装飾箱の菓子を買うのも悪くないかもしれない、とひとつ案が浮かんだ。その時はこの間のようにぼんやりとした言葉ではなくて、もっとストレートに伝えなければいけない。曖昧な態度なんかじゃ有耶無耶にされてしまう、ということが痛いほどにわかったから。
「そういうの好きなのな、おまえ」
「うん。今年のホワイトデーも、何個か気になってるのあるんだよね」
贈り物の目星をつけた矢先、なまえの口から溢れたホワイトデーという単語にぎくりとしながらも平然を装う。季節感があっていいな、と相槌を打てば俺が関心を持ったものと勘違いをして、一層嬉しそうに身を乗り出してきた。
「でしょ! 例えばね、このお店のマシュマロなんだけど……」
「あ! おい!!」
唐突に俺のモニターを覗き込み検索バーを打ち替えようとするなまえの手を阻止すべく掴むも、視線の先には俺が今しがた眺めていたお菓子の数々。ホワイトデー、お返しの文字。あっ、と短く漏れるなまえの声と共に気まずげに向けられる視線。業務中にこんな事を調べている俺が九分九厘悪いが、こうも遠慮なしにパーソナルスペースに侵入してくるのもどうなんだ。頭の中でモニターに映った検索結果の言い訳を頭の中でこねくり回しても、しょーもない言葉しか浮かんでこない。気まずい沈黙。もういっそなまえに選んでいる物だと伝えてしまおうかと思い口を開きかけたその時、突如なまえを呼ぶ低く落ち着いた声が事務所内に響いた。反射的に掴んでいた手を離して2人で声のする方へと顔を向けると、そこには事務所のガラス扉を押し開けながらツォンさんが姿を現した。
「いるのは2人か」
ルードとイリーナは丁度別任務に赴いていた為、肯定の意で頷いた。今日は何かイレギュラーなことが発生しなければ、定時まで事務処理で終わるはずだった。しかしツォンさんが急にここに訪れたということはそのイレギュラーが起こってしまったという事だ。
「急だがなまえには今から任務についてもらう。レノは引き続きここで待機。詳細を説明する」
「あ、はい。今そちらに行きます」
あまりのタイミングの良さに胸を撫で下ろした。下手な言い訳をすることも、白状してしまうことも避けることができた。折角渡すなら、僅かばかりでも驚かせてやりたい気持ちがあったから。もうほとんど、バレてしまったようなもんだけど。席を立つなまえに行ってら、と見送りの言葉をかけるとその返事に俺に聞こえるか、聞こえないかの声で「うそつき」と一言溢してその場を去っていた。うそつき?唐突に突きつけられた不可解な言葉におい!となまえの背中に声をかけるも、ツォンさんと共にガラス扉の向こうへと姿を消していった。聞こえていないはずがない。珍しくなまえから突きつけられた、憤りの感情だ。
「なんなんだよ……」
うそつき、という言葉に考えを巡らせる。まさか、俺が他の女に贈るとでも思ってるのか?この後に及んで?そうだとしたら、あまりの察しの悪さに呆れを一周回って笑いが込み上げてくる。勘違いしてくれているならばこっちは好都合だ。少し冷たいなまえの態度に腑に落ちないものを感じながらもデスクモニターに向き直った。
*****
ツォンさんから命じられたのは会社役員の護衛任務だった。贔屓にしている取引先との急な会食の為、待機中の私が引っ張り出されたというところだ。八番街の繁華街から少し外れた小道に位置する会員制の高級レストランで、日が沈む前から楽しげに酒を飲み交わす役員達。平和すぎる光景を後ろから眺めるだけのお仕事。ツォンさんが事務所に訪れた時は切迫した緊急の任務かと構えたが、蓋を開けてみればあまりにも退屈なものだった。タークスはいわば会社の何でも屋。上層部の指示であればこういった任務もやらざるを得ない。きっと、護衛が必要になるような場面が訪れる事はないけれど、タークスのボディガードをつけるということに意味があるのだろう。それだけで自身の会社での地位を誇示をして、箔を付けることができるから。与えられた任務だから警戒は怠らないけれど、役員たちを見守りながら私の頭の中はいっとき前の出来事でいっぱいだった。
レノの、うそつき。思わずさっきはレノの問いかけを無視をして、事務所を出て来てしまった。モニターに映し出されたお菓子の数々と、検索バーの文字が頭にこびりついて離れない。誰からもバレンタインチョコレートを受け取っていないとあの日レノは言っていたのに、検索バーに打ち込まれた文言は、やっぱりどこぞの誰かから貰っていたということをありありと証明していた。だって、私はチョコレートを贈ったのではなくて、たった一粒を成り行きでお裾分けをしただけだから。
あの夜のレノの行動をずっと推量れずにいた。私に好意を抱いてくれているんじゃないかという淡い期待と、私を揶揄うだけの気まぐれなお遊びだったんじゃないかという不安。あれから触れられた唇の、全てが溶け出しそうな熱を思い出す度に前者であって欲しい、と願わずにはいられなくなってしまっていた私がいた。淡い期待がただの勘違いであることが怖くて、自分の気持ちが悟られないように振る舞ってきたけれど、それは正しかった。レノのあの日の行動は、後者だということがわかってしまったから。間違っても、思い上がった態度でレノに接しなくて良かった。これで良かった筈なのに、胸が詰まってどうしようもなく苦しくて仕方がなかった。
そんな、任務とは関係のないことに思考を延々と巡らせているうちに会食は終わりの時を迎えた。店の外へ出るといつの間にか日は落ちて、八番街は電飾が煌めき夜の顔を魅せ始めていた。本来なら、この時間にはもうとっくに退社をして、ホワイトデーのイベントブースでゆっくり買い物をしているところだったのだけれど、仕事が第一。こればっかりは仕方がない。取引先の客を見送り、あとは弊社役員を迎えの車に乗せて私の仕事は終了だ。送迎車が待つ地点へ送り届けようと役員の側へ控えると、アルコールが回ってほろ酔いの役員がおぼつかない足取りで私へ近付いて来た。
「なまえ君、今日はどうもありがとう。いやー、後ろにタークスがいてくれるとこう、ビシッと決まるんだよね」
「いえ、とんでもないです」
歯に衣着せぬ感謝の意を伝えられて、どう反応すれば良いか分からずとりあえず愛想笑いを浮かべる。最初から護衛なんかが目的ではなくて、タークスというブランドをチラつかせたかったのが丸分かりだった。この役員の見栄の為に残業をしたと思うと、げんなりした。
「ところで、この後はもう仕事がないんだよね? ツォン君から聞いてるよ。よかったらご飯でもどうだい?」
「えっ! あの……えっと……」
突飛な誘いに思わず言葉が詰まる。仕事の後に、プライベートを削っての接待だなんて絶対に嫌なのに、上手い言い訳が浮かばない。しかも相手は神羅のお偉いポジションの人間だ。簡単には断れない。良いお店知ってるんだよね、と遠慮なしに肩へと回された手に、ぞくりと肌が粟立つ。お酒が回っているせいもあって、いやに積極的だ。拒絶も出来ず、歯切れの悪い反応をする私をいいからいいから、と繁華街へと誘おうとしたその時、聞き覚えのある声が背中に刺さった。
「すんません。悪ィけどそいつ次の任務が控えてるんで、こちらにご乗車願えませんかね」
耳馴染みのある声にどきりと心臓が跳ね上がる。姿を見ずとも、その声は私がつい先ほどまで思い見ていたレノのものだとすぐにわかった。振り返ればいつの間にか道脇に寄せられた社用送迎車の側に佇む赤毛の男。へらりと笑うのその瞳の色は、暗いこの時間のせいなのか、それとも他の事象が起因しているのか、普段よりも冷たい色に見えた。なんにせよ、今の私にはありがたいアシストであること変わりは無く、差し伸ばされた救いの手に思わず縋り付く。
「も、申し訳ございません……そういう事なので、またの機会にお願い致します」
「いやー。でももう定時も過ぎているんだし……あ、いや、なんでもない。今日は帰るとしよう」
食い下がる素振りを見せたかと思えば、呆気なく発言をひっくり返した。その理由はすぐにわかった。暗がりに佇むレノが、へらりと笑いながらも決して会社の上層部の人間に向けてはいけない鋭い視線を私の隣にいる男に向けていたからだ。逃げるように車に乗り込み、白煙を散らしながら去って行く車の影が見えなくなったところで私は大きく息をついた。
「ありがとう、レノ」
「おまえなぁ、ちっとは気を付けろよ。ああ言う会社の地位ばっかり高いおっさん達にはよ」
「……うん」
少し厳しい物言いだったけれど心配をしてくれていることが伝わって来たので素直に頷いた。どうしてレノはここにいるのだろう、何をしにここに来たのだろう、と思い巡らせたところでこの感覚にデジャヴを覚えた。そう言えば、1ヶ月前のバレンタインもこんな風に突然私の目の前に現れたのだ。野暮用だと言って、私のたった一粒のチョコレートを強請る為に。結局それは、レノの気紛れだったけれど。
「……また、野暮用?」
1ヶ月前を思い出しながらそうレノに問えば、少し驚いたような顔をしてからそうだ、と答えた。ずきりと胸が痛む。また私のことを揶揄う為に、わざわざご苦労なことだ。助けてもらった手前、言ってはいけないと頭で理解しながらも私の気持ちを弄ぶレノに対して、嫌味な言葉をぶつけることを止めることができなかった。
「今日は私、レノにあげられるようなもの何も持ってないよ。ちゃんとチョコレートをくれた、女の子達におねだりでもしたらどうかな?」
今日モニターで見てたお返しを渡す子とかね、と皮肉たっぷりに伝えた私の声は、存外上ずってしまって笑えた。少しは私の嫌味に怯んでくれても良いものを、レノは全く気にしない様子で長いまつ毛の揃った瞳を伏せてんー、と考える素振りを見せる。そして私が好きな、いや、好きだった少しばかり犬歯覗かせる笑みを浮かべた。
「そりゃいいな。んじゃそうするぞ、と」
そう言ってレノは何故か一歩、二歩と小気味良い音を立てて革靴を踏み鳴らしながら私の元へと近付いてくる。その姿はやけに威圧的で、私は思わずその勢いに圧倒されて一歩、二歩と詰められた分の距離を離れる。でも、車一台やっと通れる小道では退路なんて限られていて、あっという間に私は小道の石壁へと追い詰められた。レノはそのまま両手を壁について、逃げ場をなくすように石壁との間に私を閉じ込める。鼻を掠める煙草と香水の香りが、レノとの近過ぎる距離を否応なく意識させられる。見上げれば、端正なレノの顔が眼前に迫っていた。突然過ぎる出来事に、ばくばくと心臓が早鐘を打つのを感じる。
「な、なに……」
「なまえが言ったんだろ。お返し渡す子にねだれって」
また揶揄っているのかと、喉元まで出かかった言葉をのみ込んだ。薄明かりの中でも、ジリジリと私を見据える瞳が、あまりにも真剣な色をしていたから。そんなにも熱を帯びた、獲物を狙う様な視線を向けられた日には流石の私も認めざるを得なかった。私の淡い期待は、勘違いなんかじゃなかったということを。
「レ、ノは……何が欲しいの」
痛いくらいに高鳴る心臓のせいで張り付いてしまいそうなほど乾いた喉から、私が今伝えられる精一杯の言葉を絞り出す。渡せるお菓子なんて何も持っていなくて、獣のように瞳をぎらつかせたレノを眼前にして奪われてしまうものなんて、自惚でなければもう一つしか思い浮かべることができなかった。
私の問いかけに何とは答えを言わない代わりに、レノはゆっくりとその端正な顔を寄せてきた。レノの瞳の中に映し出された私の像が、どんどん大きくなっていく。鼻先が触れ合い、寄せられた口唇から吐息の熱を感じて目蓋を閉じれば、あの日よりもずっとあたたかな感触が私の唇に優しく押し当てられた。早鐘を打つ心臓がうるさくて、苦しい。けれど、この熱をずっと感じていたかった。
触れただけでどうしようもないほど胸がいっぱいなのに、このまま先に進んでしまったら私はどうなってしまうのだろう。期待と戸惑いが入り混じる心で次に与えられる感覚を待てば、レノは僅かに下唇を啄んで、呆気なく離れていった。閉じた目蓋をおずと持ち上げれば、私のことを見つめる翡翠の瞳が愉しげに細められていた。物足りなさそうな顔をしてしまっていたのか、私の顔を見てレノは笑った。
「足りないかよ」
言い当てられた感情に、かっと顔が熱くなる。途方のない恥ずかしさに、いっそこの場から消えていなくなりたいとも思ってしまった。デリカシーの無い物言いに、何か言い返してやろうと言葉を探したが、こんな時に限ってなかなか浮かばない。またもやレノのペースに飲み込まれて腑に落ちない私をほったらかしたまま、レノは何かを思い出したようにゴソゴソとポケットを漁り始めた。
「そもそもだけどなまえ色々勘違いしてないか?」
やるよ、と差し出されたものに私は思わずあ! と大きな声を漏らしてしまった。レノの手のひらで鈍く煌めいていたのは、私がお昼にレノに見せようと思ったお菓子屋に売っているマシュマロ入りの缶ケースだった。お目当てにしていた物だったから、あんなにも気恥ずかしい出来事の後だというのに私は思わずそれに飛びついた。
「ホワイトデーは普通男が女に物をあげるもんだぞ、と。」
レノから缶ケースを受け取る。気になっていたお菓子だったから、と言う気持ちも勿論あるけれど、私の事だけを想って選んでくれたのだと思うと、今まで集めてきたどんな装飾の凝った小箱よりも、特別にな物に感じた。もう他の女の子にあげたんじゃないかとか、揶揄っているんじゃないかとか、そんな不安は微塵も感じなかった。
「レノ……ありがとう大好き!」
「現金な奴だな」
「ちゃんと、本心だよ。」
悪戯に笑いかければ、まあそんなところが好きなんだけどな、とレノはもう一度私の唇を掠め取った。この唇のように、これからいくつのものが彼に奪われてしまくのだろう。目の前のレノの瞳を見遣れば、未だ獲物を目の前にした獣のように何かを狙っているように見えた。さっき口にしていたホワイトデーの意味を理解していないのは、いったいどちらなのか。
ただ、奪われてばかりのホワイトデーも悪くなかったと満更でもない私は、自身の緩んだ頬を両手でぱちん、と軽く叩いた。
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