スープを作っただけなのに

※ネームレス小説です※




「あ」

 ぐつぐつと鍋の煮立つ音だけが満たす部屋に、気の抜けた私の声が響いた。ある重大な事態に気付いて、煮立ったスープの中で具材が踊る鍋の火を弱める。

「バゲット買い忘れた……」

 はあ、と大きなため息をひとつついて、もくもくと湯気が立ち上る鍋に蓋を被せる。楽しみなひと時に向けて膨らんだ気持ちが、しおしおと気の抜けた風船玉のようにしぼんでいく。
 久々に定時きっかり仕事を終わらせることが出来た私は、自分へのご褒美として大きな鍋いっぱいの大好物のお手製のスープを作っていた。私の生まれ故郷、アイシクルロッジの郷土料理である野菜とお肉がたっぷり入った辛めのそれは、少し硬めのバゲットをひたひたにして食べるのが美味しいのだ。少しお行儀が悪いけれど。これだけを楽しみにここ数日頑張っていたというのに、なんてことだろう。今から買いに戻っても、本社ビルに程近いその店に辿り着く頃には閉店時間を回ってしまうし……かと言って私の口は完全にひたひたバゲットの口になってしまっている。諦めようにも諦めきれない。代替は不可、だ。

 祈るような気持ちで手持ちの携帯端末でオフィスの状況を確認すれば、ただ1人レノのデスクトップPCが未だログオン状態だった。きっと、先日の任務の報告書を作成しているのだろう。残業した後に申し訳ないけれど、これを利用しない手はない……!普段だったら残業をしている同僚にこんなことお願いすることはないけれど、耐え難い空腹が私を駆り立てる。確認するや否や私はアドレス帳からレノの名前を呼び出してコールをした。

「もしもしレノ?」
「……トラブルか?」

 開口一番に何かイレギュラーな事態を予期したであろうレノの、ぴりりとした緊張感が電話越しに伝わってきて、慌てて否定する。そうだよね、業務時間外に私から連絡することと言えば、思い返せば仕事のことばかりだ。端末の向こう側から聞こえてくる声色は僅かに疲労感が滲み出ていて罪悪感が湧くものの、今はそれよりも空腹の方が優先される。私的にお願いしたいことが……と言葉を濁せば電話越しにいつものように喉を震わせる笑い声が耳に届く。

「なんだよ珍しいな。今終わるとこだから言ってみろよ、と」
「いいの!?……本社ビルの近くのパン屋さんあるじゃない?」
「パン??ああ、駅前ん所のな」
「そうそこ!そこのお店のバゲットを買い忘れちゃって……私の家からだと閉店までに間に合わなくて……買って来て頂くことは出来ませんかね……?」

 申し訳ない、という気持ちに押し潰されそうになりながらも恐る恐るお願いすれば、レノは暫く黙った後に「それ、残業した人間にお願いすることか?」と呆れたような声を出した。ごもっともなご意見だ。でも、ここまでお願いをして引き下がるわけにはいかない。私の胃袋は既にひたひたバゲットを欲してしまっているからだ。この欲求を満たす為ならばどんな手段だって今日は使う所存である。

「お願いレノぉ……今日の夕飯はそのバゲットが必須なのよ……お腹空いて死んじゃうよぉ……」
「俺だって残業で腹減って死にそうだぞ、と」
「それは……あ!じゃあ買って来てくれたら、お礼にうちでご馳走するよ!!これでどう!?」

 我ながら名案だ!言うなればWINWINの条件。これならばお互いに損は無いはず。断られることはないだろうと自信満々に提案したのだけれど、予想に反して電話口から直ぐにイエスの返答を聞く事は出来なかった。

「あれ……?ダメ……?」
「いやダメと言うか、今からお前の家行っていいの?」
「へ?もちろん」
「ふーん……わかった。じゃあ買っていくわ」
「やった!!」

見えないのを良いことにガッツポーズをして喜びながら、自分でも分かる程に弾んだ声でお礼を告げれば「大袈裟だな」とまた笑う声が聞こえる。「じゃあ」の意味がよく分からなかったけれど、今の私にとって些細な事は大した問題ではない。ひたひたバゲットにありつけるのだ!とりあえず、場所教えるねと住所を伝えれば、電話越しにメモを取る音が聞こえる。一通り伝えたところで、もう一度お礼を言って通話切った。持つべき物は信頼の出来る同僚、である。
 
 火力を落としたコンロのツマミを時計回りに捻れば、くつくつと音を立てながら鍋の中で再び具材が踊り始めた。レノが到着する頃に、1番食べ頃の状態で出してあげよう。思い返せば、人を家に招くのは調査課の皆で飲んだ時に潰れたイリーナを泊めてあげたのが最初で最後だ。あれは招いたというより運んだという方が正しい表現ではあるけれど。べろべろに酔っ払って、ダル絡みをするあの時のイリーナは最高だった。思い出して思わず1人で声を出して笑う。

「ふふ。その時のことレノ、覚えてるかな。」

 昔話に花を咲かせるのも悪くないかもしれない。これから訪れる至福の時間に、胸を躍らせながらレノの到着を待った。




*****




 程なくして来客を告げるブザーが部屋に鳴り響く。モニターを確認すれば長いバゲットの入った紙袋を抱えるレノが扉の前に立ち尽くしていた。スープの煮込みもちょうど良い頃合いだ。鍋の火を弱めて、足早に玄関へと向かい扉を開ける。

「お疲……ぎゃ!」

 レノの顔が見えるか見えないか、唐突に私の胸元に大きな紙袋を押し付けられて思わず小さな悲鳴を上げてしまった。慌てて受け取ったその紙袋は、明らかにバゲットだけの重みでは無かった。

「重!」
「それで、合ってるか?」

 着くや否や確認を求められて言われるがままに押し付けられた紙袋を覗き込めば、袋から頭をわずかに出したバケットの香ばしい小麦の香りが鼻を掠め、唾液がジワリと滲み出る。間違いない、私が欲していたパン屋のものだ!それとは別に、見たことのないラベルの赤ワインのボトルが1本バゲットと肩を並べていた。紙袋の重さの正体はコレだったのか。

「あー、これこれ。本当にありがとう……!お酒も買ってきてくれたの?」
「そ、よかった。ワインは材料費の代わり。知り合いの店主に選んでもらったから味はお墨付き。はー腹減った、約束通り食わせてくれるんだろうな?」
「ふふ、もちろん!あがってあがって。あ、スリッパ私のしかないから申し訳ないけどそのままどうぞ」

 雑なもてなしだな、と苦笑するレノを横目に私は受け取った紙袋を抱えたままキッチンへと向かう。あとはもうスープを皿に装って、粉チーズを振り撒いて完成だ。ペアのワイングラスなんて一人暮らしのこの家にはある訳もなく、色も形も異なるちぐはぐなグラスを2つテーブルに並べた。それを見てレノがカウンターの向こうで吹き出して笑い出す。

「清々しいぐらい男の影がないな」
「うるさいなあ、あるわけないでしょ!」
「勝手に借りるぞ、このカッティングボード。バゲットこっちによこせ。」

 私の返答を待たずカウンターに立てかけていたボードを取り出して、手渡したバゲットをバリバリと音を立てながら慣れた手つきで切り分けて几帳面にボードに並べはじめた。
……なんだか不思議な光景だ。普段の暴力的な仕事っぷりからは想像できないその所作のギャップに思わず魅入ってしまう。バゲットに視線を落とすその横顔は、普段意識しないようにしているけれど、端正で美しい。よくよく考えれば彼をこんなちんけな要件の為に呼び付けられるのはタークスの同僚としての特権だろう。きっと私が同僚でもない一平社員だったら、レノの目に留まることもなく、接点を持つ事などなかっただろう。そんなことをぼんやりと考えながら紙袋から貰ったワインボトルを取り出そうとして、その手が反射的にピタリと止まった。

(なに……?)

 紙袋の底に、明らかに異色のピンクの小さな箱が存在を主張していた。お菓子か何かかな……?確認のために手に取ってパッケージの文字に目を滑らせて私は本日2回目のぎゃっ、という悲鳴をあげてしまった。

「なんだよ、デカい声だして」
「……や、なんでもないよ!ワイン、結構いいやつに見えたから」

 慌ててその箱を紙袋の中に突っ込んで隠すようにワインを取り出せば、大袈裟だな、と一言呟いて何事もなかったかのように作業へ戻るレノ。
 一体どう言うこと?私の見間違いだろうか?気付かれないようにちらりと袋の中を覗き見れば、やっぱり……ある。見間違いなんかじゃない。これは……ひ、避妊具、だ。この箱を入れたと思われる当の本人はどこ吹く風でバゲットを切り分けている。私たちそういう関係じゃないし、そういう行為をする予定もないけれど、あの箱は明らかにそう言う行為の為のものだ。どうしてこんなところにそんなものが……!?

 あまりの衝撃に思考が止まりかける。もしかして、今日ここにはそういうことをする為に、下心を持ってやって来たの?……いやいや。同僚に対してそんなセクハラ紛いな事をするはずがない。おつかいのついでに買ったその私物を、誤ってこの袋に入れてしまったと考えるのが妥当だ。流石に同僚に何の前触れもなく、突然手を出すような事はしないだろう。……つまり、そういうことをする相手の元へこの後向かうってこと。そりゃそうだ、社内でも常に女性社員からの注目の的のレノ。恋人の一人や二人いてもおかしくない。

 納得できる理由を見つけることは出来たものの、目の前でバゲットを切り分ける同僚が異性であるということを意識させられて、急に心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。よくよく考えれば、こんな時間に一人暮らしの女の家に異性を招き入れるというのは"そういうこと"だと思われる可能性も無きにしも非ずなのでは……!?電話の時に返答の歯切れが悪かったのも、そういうことでは……!?

「ほら、できたぜ。早く持ってこいよ」

 思考を巡らせていた私を呼ぶ声にはっと我に帰る。綺麗に切り分けられたバケットが我が家の造形美とは無縁な皿の上に並んでいる。先ほどまで夕食のことで頭がいっぱいだったのに、正直今はそれどころではない。かと言って「ゴムが入ってましたよー!」なんて声をかけられるはずもなく。言われた通りいそいそとスープ皿とワインボトルを小さなダイニングテーブルに並べて、レノと向かい合わせに席に着く。

「ありがたく頂くぞ、と」
「う、うん。じゃあお疲れ様!」

 チン、と色も大きさも違うグラスで乾杯したのち、大きめのスプーンでスープを口に運び入れたレノが「うめぇ」と一言呟いた。野菜の旨味がよく溶け出たトマトベースのピリ辛スープは我ながら上出来で、ほっぺが落ちるほど美味しい……はずなのに……

「……」
「なんだよ、さっきから人の顔じろじろ見て」

 なんだよ、はこっちの台詞だ。紙袋に入っていたあの箱のせいで、全く味に集中ができない……!私がずっと黙り込んでいるのが気になったのか、食事の手を止めてレノが私の顔を覗き込む。目が合って思わず私は身を仰け反らせた。普段ならなんとも思わないのに、必要以上に目の前の男を意識してしまう……!いや、あんな箱を見てしまって、もしかしたらその意志が私に向けられている可能性がほんのわずかでもある限り、意識するなと言う方がそれは無理な話だ。なんとも言えない微妙な空気が漂う中、私は意を決して口を開く。

「……あー、その、誰かと約束があるなら、無理しないで帰っても大丈夫だからね?」
「はぁ?なんの話だよ」
「えーと、その、これから会いにいくんでしょ?」

 女の人に。と歯切れ悪く尋ねれば、レノは怪しげなものを見る目つきで私を睨みつける。あ、しまった。これでは私がまるでレノがこれからデートに出かけることを確信しているみたいではないか。見透かすような視線を向けられて、もう言い逃れは出来ないと観念して私はあの箱について言及した。


「……紙袋の中に……ピンクの箱が……」
「ああ、あれか」

 やはり心当たりがあるようで、ふっと思い出したかのように呟かれた言葉のあと、レノの視線がちらりと紙袋に向けられる。そしてすぐにまた私に戻された瞳には悪戯な光が宿っていた。何か面白いものでも見つけたようにニヤついた表情を浮かべたレノがおもむろに口を開く。

「今日はお前に会いに来ただけ。この後他の女と予定なんてないぞ、と」
「……!?」

 私に会いに来ただけ?ってことは、あの箱は今日この場で使うために用意したものなの……?
 無きにしも非ず、と予感した可能性が現実味を帯びて混乱する私をよそに、ワインを一口飲んだレノはグラスを置いて、私を映した翡翠色の瞳を愉しげに細めた。

「……ククッ……こんな時間に家に呼び出すってのは、そう言うコトだろ?」
「な……!」

 すげぇ顔してるぞ、と喉の奥を鳴らしながら覗き込まれた私の顔は、その指摘の通り、恐らく真っ赤に染まっていたのだろう。レノが私を異性としての感情を抱いているかもしれないだなんて、想像したこともなかったから。こんな状況で、平常心を保てるわけがない。「私達まだそう言う関係じゃ……!」と突きつけられた言葉に慌てふためく私を目の前にレノはその肩を揺らし、堪えきれないといった様子で笑い出した。

「……ぶはっ!冗談だっての!そんなに怯えんなよ、と。」
「へ!?」
「アレはもらったんだよ、酒屋の店主に。そこ、酒だけじゃなくて色んなアイテム売ってて試供品やら何やらいつも渡してくるんだよ。」
「な、なんだ……びっくりさせないでよ!!」
 
 一瞬本気で焦ってしまった自分が恥ずかしくて、私は声を荒げる。一体どんな意図があってこんな悪質な冗談を言うんだ、この男は!レノはまだおかしさが収まらないのか、くつくつと笑ったまま悪かったな、と罪滅ぼしか私の空になったグラスにワインを注いだ。……完全に遊ばれている。悔しいけれど、まだ心臓がバクバクと脈打っていて、まともに会話できる状態ではない。

「はー、まさか本気にするとはな。可愛いところあるじゃん」
「うるさいな、もう!」

 恥ずかしさと安堵が入り混じる複雑な気持ちを誤魔化そうとスープをたっぷり吸ったバケットを頬張れば、目の前のレノもバゲットをちぎりながら「でもまあ、」と再び口を開く。

「そういう反応されると悪い気はしないけどな」
「な、何言って……」
「否定しないってことは、肯定とも取れるだろ?」
 
 意味深な笑みと共に放たれた言葉に再び心臓が跳ね上がる。顔が信じられない程熱いのはワインのせいなのか、このホットスープのせいなのか。答えはどちらでもなく目の前の男のせいだということは分かっていた。レノがどんな意図でそんなことを口にするのか、皆目見当もつかない。ただ一つ言えるのは、今の私はレノに翻弄されているということ。

「揶揄わないでもらえますか……」
「別に揶揄っちゃいないさ。お前が俺の誘いに乗るなら、いつでも歓迎だけど?」
「な、なにそれ!もうちょっと言い方があるんじゃないの!?」

 私の反撃にも怯まず、愉しげに笑い声を上げながらいつの間にか最後の一つになっていたバゲットを口に放り込むレノ。どうしてこんなことになってしまったんだ。ただただ、大好きなスープに舌鼓を打ちたかっただけなのに……!

「んじゃ、次来る時までそれとっておけよ。『もうちょっと』言い方考えてまた来るぞ、と」

 それ、と指差す先にはバゲットとワインと、例のピンクの箱が入っていた紙袋。ごちそーさん、と席を立つレノの背中に一言浴びせるので精一杯だった。

「とっておくわけないでしょ!!」
「はは、そりゃ残念」

 全く残念そうな素振りを見せずそう言い放ったレノはじゃあな、とひらりと手を振ると部屋から出ていった。残された私は、未だ早鐘を打つ胸を押さえて大きく息をつく。部屋に残されたのは冷めたスープと、あの箱が入った紙袋。そして、カップボードのガラス扉にはゆでだこのように真っ赤な顔をした私の姿が反射していた。

「……こんな顔して、私が期待してるみたいじゃない……」

 誰に伝えるでもない独り言は、部屋に溶けて消えていく。とっておくわけない、と豪語したそれを私は結局捨てることができず、キッチンの引き出しの奥深くへとしまい込んだのであった。



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