彼女の提案 T 夜が更けてゆく。 夜空に散らばる星は、まるで宝石のように煌びやかだ。 思わず身が踊りだすような軽快なリズム。階段を駆け下りるような三連符。 ペダルをきつく踏み、緩く踏み、途切れないように続く練習曲。 ただひたすらに、白い両手はピアノの鍵盤を叩く。少年は唇をぎゅっと結び、白と黒の世界を見つめていた。 練習曲にはたくさんの技術が詰め込まれる。際どい転調、奏でにくいハーモニー… すべてを楽譜通りに奏でてしまう勢いで、しかし少年はまるで感情のないエチュードを響かせている。 何かを忘れるように…? はたまた、何かから逃げるように― それはひとりきりの演奏会だった。 しかし、今日は、今日だけは違ったのだ。 「ギルバート!入るわよ!」 母の声だった。 だけど、いつもの、まるで腫れ物に触れるようなどこか遠い声ではない。 ずいぶん昔の記憶の中にある、あの快活な母の声だ。 バアンッ! …その声とともに、ものすごい勢いで、扉が開かれた。 「うわッ…!」 予想もしなかった来客の登場に、ギルバートは驚きのあまり鍵盤へ両手を思い切り叩きつけてしまう。ごおん…と、不協和音が書庫という小さな空間を支配した。まるで、ピアノの悲鳴のようだ。 少年は慌てて両手を離すと、突然演奏を中断させられたことへの文句を言おうと、何故かどーんと仁王立ちをしている母に声を掛けようとして… 「お………!」 い、が言えず、押し黙った。 そのまま、流れでどこか引きつった残念な笑顔を作る。 お世辞にも細いとは言えない図体のイーディスの後ろには、先ほど顔を合わせたばかりの旅人の少女が、なんだか申し訳なさそうに立っていたからだ。 「…ノックくらい、してくれ」 やっとギルバートはそう言う。 しかしイーディスは悪びれる様子はなく、その辺に置いてあった古びた椅子の埃を払い、アリシアに勧めている始末だ。 その様子にいったいなんなんだ、と眉をしかめていたギルバートであったが、やがて母に手招きされ、渋々彼女の元へ向かった。 「驚かせてごめんなさい。でもね、ギル…貴方に郵便が届いたのよ」 「……俺に?」 言葉とともに突き出された布製の封筒に、彼は文字通り目を丸くした。 自分に郵便物が届くことなど、本当に指で数えるほどしか無い。ギルバートは怪訝そうにそれを受け取ると、宛先を目で追う。 「あっ……」 そして、思わず手のひらで口を押さえ、驚きの声を漏らした。 [ 18 ] |