おかえりと言えば、花丸をあげたいくらいの笑顔でただいまと返してくれる。たとえ倒れ込むくらいヘトヘトに疲れていようと、腹に深い傷を負っていようと。それが、竹谷八左ヱ門という人間なのだと、そう思っていた。

けれど、そうではないのだ。そんな完璧な人間なんてこの世にいる訳がなくて、彼だってまた例外なく人間であるのだから。


「どうしたの、ハチくん」


ぐたりと、そんな擬音が付きそうな様子で私の肩に己の顎を乗せる八左ヱ門に、ゆっくりとした口調でそう尋ねる。背中に回された筋肉質な腕からは確かな熱が伝わってきて、何だか無性に笑って泣きたくなった。こんな風に強く抱き締められたのは、何時振りだろうか。普段の彼であれば、私をまるで壊れ易い陶器の置物みたいに扱って、柔らかく静かに抱き竦めるというのに。

先程、帰宅した彼を玄関まで出迎えて、何時ものようにおかえりと口にした私に、「ただいま」の四文字が返ってくることはなかった。代わりにこのように思い切りの良い抱擁が返ってきた、という訳だけれど、一体何があったのだろうか。他人に対しては常に気丈に振舞っている彼のことだ、きっと余程の事があったに違いない。

自分勝手な解釈と言われるかもしれないけれど、兎に角そう判断した私は静かにその背中に腕を回し返した。骨張った鎖骨あたりに顔を押し付けると、血の匂いに混じって大好きな彼の匂いが鼻腔から全身へと巡ってゆく。ぎゅうぎゅうと、より強く背中を押された所為で、皮と骨を隔てた向こう側の心臓の動きがよく分かった。


「ハチくん、少しだけ苦しいよ」
「…今日な」
「うん」
「俺、見殺しにしたのかもしれない」


そう言ってまた腕の力を強めた八左ヱ門のゴワゴワした髪の毛が、私の頬や首筋を掠める。とてもくすぐったい。でも、擽ったくはあるけれど、不思議と止めて欲しくなかった。

それは恐らく少しでも彼を安心させてあげたいと思ったから、なんて言ってはみるけれど、もしかしたら、彼が今この場所にいることが夢でないと、そう自分自身に言い聞かせたいだけなのかもしれない。彼の存在を確かめていたいだけかもしれない。私は本当に自己中だから。


「どうすっかなぁ、俺…」
「ハチくん」
「いっそ俺が死ぬべきだったんじゃないか、とか…いや、俺が死ぬべきだったよな本当」
「ハチくん!」
「…どうすりゃいんだろうな、ってお前を困らせたい訳じゃないんだけど」


きっと彼はいま、本当に悲しい顔をして笑っているのだろう。顔が見えている訳ではないのに、何故かそんな確信を持った。放漫な動作で優しく背中を撫でてやると、上で微かに鼻を啜る音が聞こえてくる。何時もは私を守ってくれる大きくて逞しい背中が、今だけはとても小さく思えた。ああ、愛おしいなあ。

なんで私は彼ではないんだろう。何故、同じ命として生まれてこれなかったのだろう。
私には、本当の意味で八左ヱ門の痛みを理解してあげる事は出来ない。違う人間として生を受けているから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど、時たまそれがどうしようもなく煩わしくて苛立たしく思えるのだ。

でも、それでも、そんな風に僻んでいても何も変えられないから、私は少ないボキャブラリーを漁って精一杯に言葉を探す。彼に掛けてあげられる、わたしの中の一番の言葉を探して、普段は余り使いもしない脳みそを喜んで稼働させる。本当に、救い様の無いくらいに八左ヱ門のことが好きで好きで堪らないのだ。


彼の身体が今、鼓動も熱も伴ってここに存在することに対して、別段信じている訳でもない神様とやらに大仰な感謝を覚えながら、徐にその心地よい鎖骨から顔を離す。見上げた先の八左ヱ門と目を合わせると、矢張り彼は私の予想通りの壊れそうな笑顔で泣いていた。綺麗な透明な雫が生傷の付いた頬を音もなく伝う様が、何故かとても美しいと思えた。


「ハチくん私はね、いつもハチくんが帰ってきてくれる事がすごく嬉しいの」


戦忍びとして働く貴方を認めているからこそ、ああ、今日もこの家に無事に帰ってきてくれた、って。わたしの所に戻ってきてくれたって。幸せなの、本当に幸せなの。私は経済的にも体力的にもハチくんに守られてる身だから、本当はこんな事を言うのは筋違いだと思うのだけれどね、でも。


「もっと困らせてくれてもいいんだよ。今日みたいに、ただいまって言えない日があっても、良いんだよ」


一息で全て言い切った後、どういう訳か私の涙腺が壊れそうになって、思わずまた彼の首元に顔を埋める。柔らかい肌が自分の額にぴたりと付くことがこんなにも幸運な事だと、今までは思いもしなかった。

はだけた襟をきゅっと掴む。できる事なら一生離したくないなぁ。
そんな他人から言わせれば馬鹿みたいな事を考えつつ額をぐりぐりと押し付けていると、ふと、襟を掴んだ右手が暖かくなった。ああ、握ってくれたのか。そう理解するのにそう時間はかからず、じんわりとお互いの掌の熱を交換するみたいな動作に、今度は胸が熱くなるのが分かった。


「ありがとう、ハチくん」
「俺こそ…ごめん」
「ごめん…?」
「お前はな、本当はただ笑っててくれるだけで良いんだ。お前の笑顔があるから俺はただいまって言う訳で、だから、うん…ありがとう」


ありがとうが鼻声だよ、ハチくん。
流石にその思いは、声には出せなかったけれど。けれどそれでも、彼の柔らかい涙が私の首筋に落ちて、ゆるゆると伝い零れていくのがあり得ないくらいに幸せだと思えた。

カタカタ震える彼の肩にそっと手を置いて、もう一度、珍しく涙の膜を一杯一杯に張った綺麗な瞳を見上げる。涙でぐちゃぐちゃだね、と笑えば、お前が言うなと少し乱暴な動作で右頬を拭われた。


「でも、安易に死ぬべきだったとかは言っちゃ駄目だからね」
「…そうだな」
「ハチくんが死んだら私、後追うから」
「…それは、死ぬわけにはいかなくなったな」
「うん、だから、おかえりハチくん」


ゆっくり紡いだ言葉が、八左ヱ門の鼓膜でどんな風に震えたのか。それは私には計り知れない事だけれど、もし私なんかの声で、気持ちで、彼の心の隙間をほんの僅かでも満たせるのなら、それでいい。それ以外は何も要らない。私は八左ヱ門の笑顔の為なら、喜んで何もかもを差し出そう。


「ああ、ただいま」



とりわけ美しい白痴の話




(まーちゃんお誕生日おめでとう)
(title:√A)(20130509)
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