「ハロー、私が今日からあなたの守護霊です!」


女の第一声はそれだった。女、というと何だか語弊がある気がする。詳しくは俺の自室に突如浮いて現れた全く見たことのない女らしき何か、だ。

俺が言葉を発する前に、ソイツは妙に半透明な体を揺らして俺に擦り寄るようにして体をぶつけてきた。だがそこに肉体の感触はなく、変わらず室内の空気が俺の肩をふわりと包んでいる。おかしい。これは明らかにおかしい。


「…誰だぁ」
「だから守護霊だってば」
「ンなの存在してたまるかぁ」


そうだ、幽霊なんて曖昧で信憑性がないモンなんて信じられる訳がない。
例え女の体の向こうにある筈の黒い液晶テレビが透けるようにぼんやり見えているとしても、何度瞬きしても女の体が地上十センチをふわふわ浮かんでいるとしても、だ。

だが目の前の自称「守護霊」はそんな俺の疑念などはさして気にしてはいないようだった。その証拠だろう、男の部屋のくせに案外片付いてるとか何とか呟きながら、女は俺を中心にした半径三十センチほどの円を楽しむようにクルクル回っている。


「お前、何で浮いてんだよ」
「あ、私の事は幽霊ちゃんとか、素敵な幽霊、かわいこちゃんなんて呼んでいいからね」
「呼ぶか、しかも無視すんじゃねぇ」
「だって、あなた頭カタイんだもん」
「んだとぉ!」


左目を閉じつつ唇に人差し指、そんな安っぽいアイドルみたいなポーズをとりながらソイツはクスクス癪に障る笑みを漏らした。俺も気が長い方では決してないので、無論瞬間的に頭血が上り思わず大きな声を漏らしてしまう。それにも関わらず自分を幽霊と言う女は全く気にする素振りも見せず相も変わらず俺の周りを回っていた。

何なんだ、こいつは。
幽霊なんざ信じる性分じゃねえし、こんな状況になった今でさえ完璧に信じてはいねえ。可笑しいだろ。こんな事があっていいはずがない。


「あれ、どうしたの?」
「…夢か」
「違うよー」
「夢に決まってんだろぉ、こんなの」
「えー」
「俺はもう寝る」


夢の中で寝てやりゃあこんな異空間ともおさらばだ。そうに決まってる。

何故かは分からないが妙な確信を得、唇を尖らせる女をよそにそのままベッドの上に体を預ける。スプリングが軋むと同時に、もう寝ちゃうのー、なんて詰まらなそうな女の声が鼓膜を揺らしてきやがった。うるせえ、夢幻のくせに。

聞かなかった振りをして、手元のライトを消せばもう何も見えない、黒い空間の完成だ。今日やる予定だった書類の束を思い出したが、それも今夢の中であるなら無意味だろうという結論に至った。今はまず、この耳障り目障りな女を消す事が最優先だろう。
無理矢理閉じた瞼の奥で、おかしな事に透明な浮遊物が好き勝手に走る。うぜえ。


「あ、言うの忘れてた」
「……」
「私、すごい乗っ取られやすいの」
「……」
「だから悪い霊に乗っ取られてあなたに迷惑掛けちゃったらその時はよろしくね、んじゃ!」

意味が分からねえ。
朧気な意識の中で交わした会話は直ぐに立ち消え、代わりに浅い睡魔が俺を襲ってきた。







「あ、起きた」
「…何でまだいやがんだぁ」
「おはよう」
「おい質問に答えろぉ」
「お早うスクアーロ」


寝起きの辛さが祟って、頑なに俺からの挨拶を要求する半透明の根気にも負けて小さくお早うと返す。その後すぐに満足げに笑んだ女には苛立ったが。

身体中からまだ気怠さが抜けない。またこの幽霊女が浮いているように見えるのもその所為と思いたかったが、生憎そこまで自分はおめでたい人間ではないようだ。もう完全に理解していた。否、もしかしたら初めから分かっていたのかもしれない。

この女は夢でも幻でも何でもなく、本当の霊なのだと。

取り敢えず一度大きく伸びをして体中の筋肉を解放すると、幽霊は気流に乗るように室内を飛んでいるのを止めてこちらに顔を向けてきた。


「何だ」
「スクアーロ、今日は仕事は?」
「あるに決まってんだろぉ」
「ふーん、つまんないの」
「幽霊女、一応言っとくが俺はお前に構う予定は全くねーからなぁ」


お前みたいなのに構う暇もねーしな。
続けてそう言いながら、デスクの上の書類の束を見やる。昨日夢だ夢だと思い込もうとして放置したサイン待ちの白い紙が朝日に照らされて目に悪い色で光っていた。今日は忙しくなりそうだ。


「…ワーカホリック」
「あ?んだとぉ」
「仕事ばかりして過労死が落ちね」


全く、守護のしがいがないと幽霊は溜め息を吐きながらクルリ、空気と同化しそうな体で宙を一回転する。お前に言われる筋合いはないと、そう突っぱねてやろうとした時にふと感じた。

この幽霊女の言葉に、どこか皮肉らしさが付いたような。台詞が鋭くなったような気もする。

魚の小骨が喉に引っ掛かるように、消化しきれない小さな違和感。それが俺の腹の中でチリチリと弱い痛み、それに何故か少し懐かしい痛みを生み出していた。でもそれを深く考える程時間にも精神的にも余裕はない。
そうやって俺は背中に張り付くようにして付いてくる幽霊を疎ましく、しかしどこか懐かしく感じながら1日の仕事を粉していった。






「ねえスク、もし私が死んだらどうする?」
「お前が死ぬ事はねぇ」
「…どうして?」
「お前は人一倍頑丈だろうが。…それに俺がいるからなぁ」
「ふ、なにそのナイト宣言」
「ばっ、馬鹿にすんなぁ!」
「スクアーロって本当恥ずかしい」
「うるせぇ!」
「…でも、本当に私が死んだら」
「…なんだよ」
「そうしたら、火葬して灰にしてね」
「柄にも無え事言うなぁ」
「うん、でも、土葬は嫌だから」
「…お前は死なせねぇ」
「うん、ごめん」
「……」
「ごめん、スクアーロ」






バッと上に掛けていた毛布を剥いで天井を見る。心なしか呼吸が上がっている気がした。額に手を当てると汗の所為でぺたりと張り付いた前髪の感触がじんわりと掌に広がる。情けねえ。

随分と懐かしい夢を見た。
彼女が夢に出てくるなんて何年振りだろうか。俺が殺した、彼女が。

夢の中ではにかむように笑っていた彼女の輪郭をぼんやり脳内に浮かべながら、当時の自分の痛々しいくらいの浅はかさを思う。あん時はまだ若かったからなぁ、というのが言い訳だが、それが通じない程の罪を犯してしまった事は分かっていた。まあ、暗殺を生業としている時点でもう罪もクソもないんだが。

はあ、と一度大きな溜め息を吐く。
見回すと普段と変わらない自室で、幸運な事に今日はあの幽霊女はいなかった。消えてくれたのだろうか。


「あ、おはよう」


考えた瞬間にその希望は打ち砕かれた。すう、なんて音がしそうなくらいにゆらりと壁を透けて現れた幽霊に思わず肩を落とす自分がいた。どうにかいなくなってはくれないものか。

試しに幽霊女に向かい、というよりは幽霊越しに見える壁に向かって手元にあった黒いリモコンを思い切り投げつけてみる。だがそれは予想通り幽霊の体には一切のダメージを与えることなく、そのまま半透明な腹を抜け結構な音を立てて壁にぶつかった。


「うわ、なに。怖い」
「お前、本当に透けてんだなぁ」
「まあ、死んでるからね」
「早く俺の側から消えろぉ」
「ごめん、それは無理」


思った以上に壁が固かったのか、ぶつかった衝撃で最早プラスチックの破片と化した元リモコンが床に散らばっているのを興味深げに見ながら、幽霊は落ち着き払った様子でそう口にした。

自分は守護霊だから何時でもどこにでも付いていくと、何故か微笑みつつ言葉を紡いだ幽霊は本当にどこにでもついてきた。暗殺に行くのも例外ではない。何時も通りターゲットを確実に殺し、その後始末を部下に任せ車に乗り込む俺を、幽霊女はまるで壊れ物でもあるかのような目で見ていた。正直気持ち悪い。


「…スクアーロ」
「なんだ」
「ううん、お疲れ様」
「疲れてねーぞぉ」
「そっか」


帰りの運転をする筈の部下が一人、敵にやられてしまった為今運転席にいるのは俺だ。だから人前では絶対に話し掛けてこない幽霊女が俺以外誰もいないのを良いことに、こうやって言葉を投げてくる訳だ。全く、嫌な時に死んでくれたモンだ。


「誰かに運転させないの?」
「人手が足んなくなられても困るからなぁ」
「…今日、あの子死んじゃったね」
「そうだなぁ」
「何とも思わないの?」
「俺達は暗殺者だ。弱いのが悪い」


あんな護衛に負けるくらいだ、所詮はその程度だったと言うことだ。残念な事に俺は死んだ部下に一々関心を持つような造りではなかった。それが普通なのだ。

だが幽霊女は違うようだった。ミラー越しでソイツは、少しだけ悲しげに、そして何故か愛おしそうに目尻を下げる。


「ニル・アドミラリィ」
「あ?んだそれ」
「冷淡、無関心って事」
「ラテン語かぁ」
「うん、スクアーロにぴったりでしょ」


今さっきの表情など忘れたかのような、皮肉っぽい言葉と笑みに一瞬内蔵が蠢いたのを感じた。確かに感じた。何故か、何故かは分からないが、今朝見た夢が思い出される。彼女とは顔も違えば、声も体型も何もかもが違う幽霊が不思議な事に彼女と重なって見えた。

何なんだ。無意識的に粟立つ背中を伸ばしきちんとハンドルを握る。少しだけ、吐き気がした。






目が痛ぇ。もうどれくらいの時間、報告書と対決していたのか。

そんな馬鹿馬鹿しい事を考え始めたころ、幽霊女が痺れを切らしたのかその鈴を転がした声音で俺に問い掛けてきた。恐らく閉鎖的な執務室で溜まりに溜まった書類整理を始めて半日、殆ど会話を交わしていなかったのが気に障ったのだろう。口調に棘がある。


「うるせぇなぁ」
「いいでしょ、答えてよ」
「お前のその幼稚な質問かぁ?」
「いいから答えて」


幽霊の質問、それは至って簡単なものだった。

自分の一番大切な物はなにか。
小学生みてえな質問だと内心呆れながらも、書類へサインする腕を少しでも休ませてやろうかと思い答えを探す。一番大切なモン、なあ。そんなの決まってやがる。


「剣と命だぁ」

それ以外何もいらない。剣と命さえ有れば、俺は何でも出来る。
自負やその他諸々を込めて口にした台詞を、幽霊は目を細めて受け取っていた。透ける体の向こう側で、趣味の悪ぃ誰かの肖像画がゆらゆら揺れる。


「思った通りだね」
「そう言うお前は何だ」
「私?」
「ああ」
「…命」


寂しそうに言った幽霊の口角が小さく下がる。命、人間にとっては至って普通の答えだが、幽霊がそれを言うと何とも不可思議な感があった。ネタのつもり、では無さそうだが。
それでも真顔でその返答を咀嚼するのは憚られて、意味もない薄い笑みを形作る。


「もう無いモンだろぉ」
「…そうね、それもそうね」


幽霊女は笑った。見ているこっちが辛くなる笑顔だった。何故そんな質問をしたのかと聞けば、「守護霊として、スクアーロの大切な物くらい知っておかないとと思って」だそうだ。






幽霊に付きまとわれてもう五日目だ。
昼下がりのうざったい日差しに晒されながら、五日間のあまりの速さに驚く。中庭を横切ろうと一歩踏み出したと同時に、右斜め上から幽霊女の細い声が落ちてきた。


「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる」


何かが一滴だけ零れてしまったのか、小さく呟いた幽霊の視線の先にはもうとっくに葉となり緑に身を包む桜の木があった。俺はと言えば春になれば嫌と言うほど目に入る桜より、幽霊の意味深な発言に気持ちが引っ掛かっていた。
死体が埋まっている、暗殺部隊の根城で言われると強ち嘘ではなさそうだと思わせられる。


「無数に埋まってそおだよなぁ」
「梶井基次郎」
「は?」
「書いた人よ、ほんと素敵な感性」
「そうかぁ?」
「分からないの?流石スクアーロは疎いね」


皮肉を込めクスクスと笑う幽霊が、また彼女の輪郭と重なって見えた。
心臓がざわつく。溜まらず「おい、幽霊女」そう声を掛ける。何かが俺の中で悲鳴を上げているのを感じて焦燥感から逃げるように透ける体に手を伸ばす。

幽霊の返答を耳に入れる前に、気付けば口を開き二日前に見た夢の事を話していた。幽霊の目が珍しく丸く見開かれている。
彼女が、たまに、幽霊女、お前と重なって見える。
何故か息も切れ切れにそう幕を閉じた時には、幽霊は切ない表情で小さく首を傾けていた。


「記憶って、素敵だね」


幽霊の方も耐えきれずと言った様子で声に出した言の葉が、俺の心臓の中核に染み渡る。その瞬間に確信した。馬鹿か、俺は馬鹿か。何で今まで気付かなかった。何故今までコイツを邪険に扱った。
でも今はそれはいい、兎に角今は。今は、まず確かめなくてはいけない。


「お前の名前は?」


情けなくも震える喉を通り過ぎて外に出された言葉に、幽霊、いや、彼女ははにかむように微笑んだ。夢と寸分違わぬ笑みの生み方に、伸ばしていた手が宙を掻き彼女を捕まえようと動き出す。だがどんなに拳を開閉しても掴めるのは空気だけだった。

そればかりでなく、半透明の彼女が寂しそうに唇を動かす。さよなら、音に聞けずともそう言ったのがわかった。

分かった瞬間に彼女は消えた。

しかし一度瞬きをした時に、また彼女の姿が俺の眼前に戻った。だがそれは雰囲気からして彼女ではなかった。ヘラリとした笑顔を浮かべるソイツはそう、幽霊の第一印象そのままで。


「おっつかれー、なんちて!」
「お前…、」
「あなたとは久し振りだね、元気?」


明らかに彼女ではなくて、幽霊だった。
現に今コイツは俺の事を「あなた」と呼んだ。彼女は俺を「スクアーロ」と呼んでいたのに、だ。
そこで全て悟った。初日に、夢だと思い込み毛布を被った時の自分を責める。あの時、もっと言葉の意味を疑っていれば。


「だから言ったでしょ、私は乗っ取られ易いって」


まあ今回は私が体を貸してあげてたんだけどね。笑い混じりでそう口にする目の前の幽霊に掴みかかりたい衝動に駆られる。
つまり彼女は、コイツの体を借りて俺の側にいたのだ。今までどんなに悔いても願っても一瞬姿を見る事さえ叶わなかったというのに、丸三日も。気がつかなかった、俺は本当に馬鹿だ。


「戻せぇ」
「え?」
「俺はアイツに言いたい事がある。戻しやがれ」
「んー、それは無理」


唇に人差し指、いつか見たようなポーズで本当の幽霊は困ったように眉根を寄せる。無理でも、意地でももう一度会ってやる。もう既にそう腹に決めていたので、語気を荒げて何故かと問い詰めた。


「あのね、ユウレイは名前を明かしたり、本名での呼び掛けに応えたりするのは御法度なの。もし破ってしまったら大変なの」

そうなってしまったら、その人間から守護霊といた記憶を丸々消さなきゃいけないんだから。


そう続けた自称「守護霊」が霊でもなんでもない、只の悪魔に見えた。

俺がこのまま無理を言って彼女を出させて話を、彼女の名前を呼んでしまったら、この5日間の記憶がなくなる。それをしなけりゃ俺は記憶を留めておけるかもしれないが、だが、彼女ともう一度話す事は叶わない。
どっちにしろ最悪だ。どうすべきかなんて正解があるとは思えなかった。拷問のような二択に脳が焼けそうだと危惧する。

「記憶って、素敵ね」

突然、そんな彼女の先程の台詞が脳裏を掠めていった。一瞬にして俺の気持ちが定まる。そうだ、答えなど初めから決まっていたのだ。


「記憶が無くなるのは構わねえ、俺はアイツに話があるんだぁ」


幽霊の目を見据え言い放つ。
すると次の瞬間、耐えかねたように彼女がその場に浮き上がってきた。今度は夢と同じ、俺の記憶のままの懐かしい容姿で、彼女は半ば叫ぶようにして俺の名を呼んでくる。


「馬鹿!スクアーロは馬鹿ね!」
「…久し振りだなぁ」
「折角気を利かせたのに、棒に振るなんて」
「仕方ねえだろぉ」
「仕方無くなんてないよ」
「いや、仕方無ぇ」


仕方無いと思ったのだ、自分の5日間の記憶が無くなるくらいは。
それより、自分の想いに蓋をしつつ俺の側で三日を過ごした彼女の記憶を、少しでも良くしてやりたかった。俺が忘れても、彼女が覚えていればそれでいい。

何時の間にか幽霊の姿はどこかに消え、この場には二人だけになっていた。アイツが気を利かせたのか空気を読んだだけなのか、どちらなのかは分からないが。


「悪かったなぁ」
「なに、が」
「死なせねぇって言ってたのに」
「そんなの気にしてない」


彼女の目に涙が溜まっていくのが見て取れた。もう大分年を重ねた俺とは違い、目の前の恋人はまだあどけない姿のままだった。心臓が痛くなる。


「一つだけ言わせろぉ」
「…なにを、」
「早く成仏しろぉ」
「っ、」
「…待っててやるから」


びくんと揺れた彼女の肩に手を伸ばす。触れられないのが悔しい。透けている体を抱き締めるように腕で囲めば、彼女の透明な涙が俺の胸に落ちようとして、そのまま通り過ぎていった。


「待ってるって、なにを」
「転生なんつーのは信じてねぇが、」
「……」
「でも、お前が生まれ変わるのを待っててやるから」


だから早く早く成仏して、生まれて来いよ。
震える声帯に全て託すと、彼女がふるりと震えた気がした。逢瀬にはタイムリミットが付き物らしい、彼女の体が段々薄ぼんやりとしていくのが確認出来る。早すぎる、会える時間が想いの大きさに比例すれば良かったのにな。


「ねえスク、葉桜が咲いてるね」
「ああ」
「…ありがとう」


彼女が静かに、笑みを浮かべて消えていく。
俺は記憶なんて要らねえ。その代わり彼女が覚えていれば、その方が幸せだ。

腕の中で空気に溶けかけた彼女にまたなと零すと、それが合図かのように意識が白い海へと沈んでいった。






頭が痛ぇ。ベッドからのそりと起き上がって一度伸びをする。筋肉を伸ばしてやってから欠伸を噛み締めると、反射的に涙が出てきた。
今日もザンザスから言い付けられた書類が山程ある。テキパキと動かなくちゃいけねえなぁ。シャワールームに向かいながら、今日の仕事のスケジュールを大雑把に決めていく。


「なんだぁ、これは」


ふと目に付いたのはデスクの上に置かれた黒い破片たちだった。プラスチックだったり、色や数字の付いたゴムがバラバラになって朝日に照らされている。

リモコン、かぁ?

何故リモコンが粉々になっているのか、記憶にない事態で気分が悪くなる。が、それと並行して何故か涙が出そうになっていた。意味が分からねえ。分からないが、その破片を一掴みしてみる。

外に投げ捨てようかと窓を開ければ中庭の葉桜が目に飛び込んできて、得も言われぬ思いが音を立てて俺の中でせめぎ合う。なんだ、コレは。

ふと、昨日夢で微笑んでいた昔の恋人が脳裏を過ぎった。一滴だけ、涙が出てきた。










(title:ちえり)
(20120722)