「夏は嫌い」

蝉が煩く喚く蜃気楼の手前、季節にそぐわない真白い肌で夏はそう言った。

「夏」というのは彼女の本名ではない。俺が勝手に呼んでいるだけの徒名だ。8月生まれで、海や向日葵が好きで、夏になると水を得た魚なんざ目じゃないくれえに生き生きとするから「夏」。

なのに、意外だった。彼女がまるで忌名のように夏という単語を口にした事が。


「意外だな」
「そう?」
「てっきりお前は夏が好きだと思ってた」
「まさか、夏なんて嫌い」


だって日番谷君の元気を奪ってくから。
言いながらも僅かに目を細めて、すぐ側にある小さな窓から覗く暑い暑い季節を夏は憎らしげに見詰めていた。

俺は確かに夏は苦手だが、気力まで奪われた覚えは今まで一度もない。無いが、どうらコイツにはそう思えないらしい。

夏の視線とは真逆の、彼女の制服が掛かった白い壁へと目をやれば、何故か俺の心臓がゆっくりと揺れた気がした。それと共に乾いた笑いが何の意図も無しに喉元から迫り出してくる。


「笑わないでよ」
「ばーか、俺はひ弱か」
「うん」
「お前なぁ、」


間髪入れずに返ってきた答えが些か頭にきて彼女の方へ一歩近付くと、夏は焦ったように小さく首を三度、横に振った。

何を怖がっているのか。何故そんなに、何時からそんなに人との距離感に怯えるようになったのか。聞きたい事はいつだって山程あるが、それを口に出すまでには至らない。というより、そんな質問をする勇気が無かった訳だ。

雑巾を絞るみたいに勇気が絞り取れるならどんなに良いだろうな、なんて思う自分は殺したくなるくらいに情けない。


「だって日番谷くんは冬が好きでしょ?」
「まあな」
「夏は苦手でしょう?」
「苦手っちゃ苦手だな」
「だから嫌い」
「へえ、お前も人に同調出来んのか」


からかうつもりで言った俺の目の端は、自然と夏の表情を捉えて離す事を良しとしなかった。どうやら今度は彼女が腹を立てる番みてえだ。ふざけて口に出したんだが不味かったか。

ただ、そんな一瞬の危惧は次の瞬間には見事に杞憂へと変わることになった。彼女が取り繕うような、今までで一番のふやけた笑みを浮かべて冗談は止めて、と一言声を発したのがその理由だ。

何かを自分の中に押し留めるかのようなその声音に、俺の臓器は少し締め付けられ鈍い痛みを覚えた。可笑しい。痛い。この痛さは何だ。こんなとち狂った痛みなんて知らない。

俺の物ではないと、思い込もうとしたが無理だった。その代わりに出てきたのは、本当に自分の声帯が作り出したのかと驚く程に間抜けな声で。今度は赤面する羽目になった。

俺もつくづく馬鹿野郎だと頭の片隅で考えながら彼女の表情を伺ったが、幸か不幸かそこからは何も読み取れなかった。無表情。この単語以外に今の夏を表せる便利な言葉があるんだろうか。

聞こえてなかったのか、胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女の今にも折れそうな手首がしなり俺の腕をしっかりと捉える。どうした、視線でそう伝えると夏は先刻同様、小刻みに首を振って否定の意を示してきた。


「何だよ」
「日番谷くんは冬が好き?」
「ああ、まあな」
「…ふーん」
「何だよ、お前は嫌いなのか?」


夏が嫌いなんだから冬は好きなんじゃねえのか?
続けてそんな風に質問した。すると同時に、今この瞬間の自分の台詞の自己顕示欲の強さに気付いた。

俺のことを考えて彼女は夏を嫌いだと言った。本当は一番好きで、一番彼女自身が輝いている季節を否定した。だからと言って俺が好きな冬を何の見返りも得られない彼女が好むと勝手に思い込むとは、自分は何様のつもりなんだろう。

恐らく俺は彼女より弱い。だからこそ怖くなる。よく分からないこんな傲慢が生まれる。

我ながら恐ろしいと、俺が全く女々しい事を考えている間にも夏は呼吸をして、掴まれたままの俺の腕を千切るくらいに強く握っていた。痛くはない、決して痛みはなかったが。


「残念、私は冬も嫌い」
「…悪い」
「え、何が悪いの?」
「いや、悪ぃな」
「意味分かんない、まあいいけど」


食い下がる事を知らないとでも言うように、彼女はあっさりと俺の事を許した。確かに許した。だからやっぱり胸が焦げるように熱くなる。

流石に涙までは出てこないなと、自分で自分を疑いたくなる気持ちを隠さんとして彼女と青空とを阻む忌々しい天井を見上げた。けれどそれも、夏の予想外の台詞の所為で長続きはしなかった。


「冬は、日番谷くんを連れていっちゃうから嫌い」


彼女はそう言った。意味が分からねえ、眉間に皺を寄せて小首を傾げる。腕から伝わる夏の温度は驚く程低く、この暑苦しい空間の中での冷却材と化していく、気がした。


「だって冬になると日番谷くん子供みたいに喜ぶし」
「うるせえ」
「すぐ外出てっちゃうし」
「俺はガキか」
「うん」
「……」


今度はお前なあ、そう諌める事もままならなかった。理由は至って簡単だ。すぐ側に佇む俺を、その更に上に位置する天井をも通り越して、遠い夏空を見据える彼女の目が余りにも儚げだったから。それだけだ。

一呼吸置く為に、未だ俺の手首から離れようとしない夏の手を解こうと強制されていないもう片方を伸ばしたが、彼女はそれを許してくれなかった。
この掌から、俺に一体何を伝えたいのかはまだよく分からないまま、ただ時間だけが蝉の声と同じペースで進んでいく。


「ねえ、日番谷くんって髪生まれつき?」
「ああ」
「そ、私も生まれつきなの」
「…ああ」


自らの鎖骨辺りを半ば自嘲的ともとれる眼差しで撫でる彼女と、それを見詰めて顔をしかめる事しか出来ない俺。

どちらが不器用で、どちらがより悲観的なのかは分からない。甲乙付け難いまでに俺達は似通った存在なんだと、柄にも無く思った。


「そう言えば向日葵がそこに咲いたの、見た?」
「さっき見た」
「向日葵きれいだよね、すごく」
「ああ」
「ねえ日番谷くん、私と付き合ってよ」
「ああ」


なんとなく予想はしていた。
だからこそ間髪入れずに即答で頷くと、夏はまるで俺が断らないと確信を持っていたかの如く優しく目を細めた。

ありがとう、優しいね。
蚊の鳴くような細く拙い声に俺も吊られて目を細める。掴まれた手首が熱を持っていた。熱かった。ただそれは夏季の暑苦しさとは違う部類の、心地良い暑さだった。

その一瞬だけ、本当に一瞬だけ時間軸のズレを感じて静かに目を瞑る。どうかこのまま時間が止まればいいと考えてしまうのも仕方ないと頷いて見逃して欲しい。


「優しくて酷いよね、日番谷くん」
「悪い」
「嬉しいけど」
「ほんと、悪ぃ」


正体不明の彼女に対しての罪の意識に苛まれて、ただ闇雲に謝罪をする。

すると彼女は俺の腕をより一層に強く握った。大した握力ではなく、振り払う事など造作もなかったがそれはしなかったし、まず出来なかった。ごめんな、気付けば言葉が唇の間をすり抜けていく。


「いいって」
「でも俺は、」
「分かった、じゃあ言い方を変えよう」


その瞬間垣間見えた彼女の精一杯の笑顔は痛々しかった。向日葵よりも明るいくせに、だ。
夏の張りぼてのような言葉が文字通り白い部屋の中に浮かぶ。俺はそれを掬い取ろうと手を伸ばす。

彼女が、もし彼女が何時までも夏を好きでいれたなら。そうしたら俺も、夏を好きになれたんだろうか。


「日番谷くんは、優しくて儚いね」


彼女はしっとりと笑いながらそう言って、漸く俺の腕を解放した。まだ熱を持っている。でもそのうち、外気三十二度に溶けていってしまうんだろう。

儚いのは、それはお前だろ。
彼女を前にしてそんな無粋な言葉が俺の口から出力出来る筈もなく、仕方無く取り繕った笑みを漏らした。


壁も床もカーテンも、全てが白い部屋の小窓からは夏の鮮やかな色彩と蝉のけたたましい音楽とが容赦なく雪崩込んでくる。それをベッドの上で一身に受け止めて、崩れそうになって、それでも笑顔を捨て置く事のない彼女は馬鹿だ。

でもそれを言うなら、そんな痛々しく美しい彼女を捨て置けない俺もまた馬鹿野郎で。ただ俺は、夏が嫌いだ。それだけだ。

向日葵の黄色が浮き立つ無菌の白色の中、忌々しい肌透明なチューブと機械を装備している青白い彼女を見詰めてそう思う。夏を奪われた彼女を奪われた俺。酷く滑稽で、儚いもんだ。


「なあ、冬になるまでは死ぬなよ」


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オデットの追憶さまに提出
(20120607)