「は?一時間!?」

電話越しのスクアーロにそう問えば、済まねえなぁ、申し訳なさそうな声音の返事が返ってきた。

顔を見ずとも分かる、彼は今眉根をきゅっと寄せ不貞腐れたようにその長い腕で銀糸を掻き上げているに違いない。バックミュージックのように電話から流れ込む銃声や標的の断末魔がそれを証拠づけていた。ばりばり仕事中ってヤツじゃないか。

だからこそ本気で怒る事はできない訳で。
ただ、だからと言って不満げな雰囲気を隠す気も起きず、私は誰が聞いても不機嫌ととれる声で「仕方無いから待ってる」と言い放った。
その後すぐに電源ボタンを三回、自分でも驚くほど素早く連打した。あっという間に待ち受け画面に戻った液晶を見て、寂しさと苛立ちが募ってゆくのをひしひしと感じながら邸の庭にある大きなベンチに腰掛ける。

きっとボスがまた我が儘でも言い出したのだろうと、ほぼ百パーセントの確率で当たるであろう考えを抱けば出てくるのは溜め息ばかりだった。


何と言ってもスクアーロはヴァリアーのナンバーツー。ボスに一番近い人間として、そしてヴァリアーの誉れ高き剣帝として身を粉にしてこの暗殺部隊を指揮統括しなくてはならないのだ。
だから仕事が忙しいのは仕方の無いことだと思う。同じ幹部だという所為もあってボスのご機嫌取りが物凄く難しい事も知っている。

でも、でも。年に一度あるかないかの連休、しかも恋人と休みが重なっている日くらい、仕事を忘れてくれたって良いじゃない。自分の担当じゃない任務に同行する事なんかないじゃない。Sランクだからってベルも行くんだから心配ないのに、馬鹿じゃないの。

ワーカホリックめ、心の中で悪態を吐きながらムカムカするくらいに青い空を眺める。
その青さにやられてしまったらしい私の頭の中では、幹部に成り立ての頃に見た走馬灯と同じくらいの速さで今日明日で巡る予定だった観光地の景観たちがぐるぐると回っていた。何故か心臓の奥が苦しい。

スクアーロ、はやく帰ってきてよ。
じゃないと行きたかった美術館が閉まってしまうよ。確か午後5時までだったもの。

ふと右手親指の爪に違和感を感じる。
視線を青空から右手へと目をやれば、爪先がギタギタに禿かけてしまったヌーディーピンクのマニキュア。どうやら私は無意識の内に爪を噛んでしまっていたらしい。折角ルッスに塗ってもらったのにどうしよう。

まあ!駄目じゃない爪なんて噛んじゃ、女の子失格よー!なんて、唇をすぼめて説教するルッスーリアの姿が目蓋の裏に浮かんでくる。それもこれも全部スクアーロの所為だ。
全てをあの銀髪になすりつけてから、取り敢えず座っているだけなのも詰まらないので重い腰を上げ立ち上がる。

これから一時間、何をしよう。
服はもう一張羅に着替えちゃってるから無理には動けない、というか動きたくない。しかも珍しく念入りにセットした髪もメイクも崩したくはない。だからと言って、このヴァリアー邸で体を動かさないで出来る事と言ったら報告書作成くらいだしなあ…、あ。

そうだ、溜まっていた報告書を書き上げちゃおう。
思った時にはもう足はお屋敷の中へと進んでいた。


気が遠くなるくらいに長い廊下を突っ切って自室に戻り、隅に申し訳なさそうに置いてある真っ白いデスクに付属された椅子に座る。
ただ書類を粉すだけでは到底我慢ならないので、左手でチェックすべき報告書を探りながら空いている方の手でテレビのスイッチを押した。途端に部屋の中がカラフルな音と液晶から仄かに放たれる光で包まれてゆく。

デスクに座っている角度からはきちんと画面が見えないけれど、どうやら昼の時間帯にやっているパターン化しきったメロドラマのようだった。鼻につく女性の声同士が何か言い争いをしているのが聞いて取れる。痴話喧嘩ってヤツですか。

そんな風にあまり興味も示せずにただサウンドトラック代わりにドラマを代用しながら、とうの昔に提出期限の切れている報告書に筆を走らせる。

が、その手は直ぐに止まってしまった。
何故か。答えは簡単、四角い液晶の中から恋人の声が聞こえてきたからだ。

椅子を放り出すようにしてテレビにかじり付く。
テレビに映る男性は銀髪でも長身でもなく、ただ美形なだけで大して演技も上手くなかった。けれど声だけは驚くくらいにスクアーロそっくりだった。恋人の私でも多分本人と区別が付かないだろう。まあスクアーロは語尾が特徴的だから、そこで聞き分ける事は出来ると思うけども。


「俺は君しかいらない、考えられない。他の人間なんて気にして何になるんだ」


それが声のみ疑似スクアーロの言い分らしい。
けれどお相手は5歳年下の夫と仲睦まじく暮らしている美人妻なのだからあまり共感は出来ない。他の人間なんか気にして何になるって?何にでもなるでしょうよ、そんな女口説いてる暇あるなら仕事して業績伸ばして貯金していい女捕まえなさいよ。

役柄には呆れるものの、声はやっぱりスクアーロに似ていて画面から目が離せない。いや、目というよりは耳が離せない。
君以外いらないか、と今さっきバカにしたばかりの台詞が頭の中で無限ループの始末だ。これでいいのか私。暗殺者としてこんなんで。

そうは思うものの、気を抜けば何秒と経たずにスクアーロの声で囁く甘い言葉に思考が捕らわれてしまう。スクアーロ、早く出かけようよ。早く帰ってきてよ。

画面はテレビに釘付けのまま、やっぱり私は爪を噛んでしまっていたようでマニキュアが更に剥がれていくのを味覚で感じた。舌に残る、健康に悪そうなマニキュアの味。それは何処かスクアーロから遅れるとの電話をもらった時に舐めていたザクロ味の飴に似ていた、気がする。気がするだけだと思うけれど。


ふう、と一息吐いて再びデスクに戻った時には、もう時計の針が大分動いていた。もう男性の声も聞こえなくなってきていたので、再び無駄にボタンの多いリモコンを手にとって右上の赤いボタンを押す。ぷちん、文字通りの音と共にあんなにカラフルだった画面が闇の中へと立ち戻っていった。

ああ、やれる内に報告書書かなきゃ。期限切れてるし、これ以上溜めたら流石にボスに怒られる。ボスは怖い。

ボスの何時もの無愛想な顔を思い浮かべれば、自然と腕は自分でも驚くくらいの速さで動いていく。恐怖政治って怖い。いや、別にここが恐怖政治と思ってるわけではないんだよ、本当に。兎に角、報告書報告書。今はスクアーロは忘れて、報告書だけに集中しよう。



約束の一時間後が来た。
でもスクアーロからの電話はまだ来ない。スクアーロやベルが付いている以上任務失敗なんて微塵も考える事が出来ない私は、ただもどかしさだけと戦っていた。遅い、遅い遅い遅い。再び苛立ちが募ってくる。胃液がこぽこぽ音を立てて湧き上がろうとしたその瞬間だったと思う。

私の携帯がけたたましい着信音にその全長二十センチ足らずの身を震わせたのは。
それに鬼神の如きスピードで反応して受信ボタンを押す私は、自分が思っていた以上にこの小旅行を楽しみにしていたらしい。

でも仕方無いか。だって今回は、すごく評判のレストランでディナーを食べたり、白いビーチで足だけ海に浸かったりする予定なのだから。勿論美術館にも行きたい。ただ閉まっちゃうかも、しれないのだ。スクアーロが早く来ないから悪いのだ。

そんな気持ちは電話とは言え隠しきれる筈もなく、すぐさま受話器の向こう電波の向こう側のスクアーロから詫びを入れられた。
すまねえんだが、そこまで来て私は方耳を塞いだ。無論受話器を傾けている方は塞ぎようが無いので意味はないのだけれど、それでもそうせずにはいられなかったのだ。次にくる台詞が何となく分かってしまったから。


「悪いなぁ、今帰り道だがあと少しかかる」


そして予想通り、次の言葉は私にとって最悪のものだった。どうせ帰って来たってやれボスに報告だ、シャワーに入って血生臭い体を洗わせろだと時間がかかるに決まっている。もう、計画も何もないや。

たまらず返事もせずに電話を切る。
早く来てよ。爪がボロボロ。自分で我が儘な自分が嫌になった。スクアーロはヴァリアーの為に働いているのに。なのに責めるなんて最悪。頭ではそう思うのに、私はやっぱり無意識に爪を、そして唇を強く噛んでいた。


▼△


「遅れて悪かった」

帰ってきた。やっとスクアーロが帰ってきた。
とっくに自室を出、庭近くのベンチに呆けたように座り待っていた私は、荷物も何もベンチに置き去りのまま彼に駆け寄る。スクアーロの開口一番はやっぱり謝罪の言葉だったけれど、私にはそれが嬉しくも憎々しくも感じられた。

押し留めておこうと思っていた言葉が喉元へと迫り上がってくる。止めよう、ここで止めなければ。
分かっているのにその気持ちは、スクアーロの銀の瞳と視線がぶつかった瞬間に瓦解していった。


「スクアーロ遅すぎ!ざけんな」
「悪ぃ」
「何任務って。ベルがいんじゃん!任務より約束の方が早かったのに!」
「…悪い。ほんとだぁ」
「っ、美術館閉まっちゃうよ」

ディナーの予約も時間きちゃうよ、今日回りたかった所全然行けないよ馬鹿。

一気に外に出ていってしまった言葉は、自分でも嫌になるくらいに冷たかった。可笑しい、本当はこんな事言いたかったんじゃないのに。
仕事に疲れて帰ってきたスクアーロを笑顔で迎えてあげたい、いや、迎えてあげるべきなのに。なのに何で言葉が出てこないの。

彼の帰還を待っていた時よりももどかしい気持ちに襲われる。口をぱくぱくさせても、本当に言いたい言葉は出る気配もない。代わりに涙が出てきそうだった。


「すまねぇ、悪い」
「あ、やまんないでよ、」


辛かった。こんなに申し訳無さそうに眉をしかめるスクアーロに謝られるのが、胃がきりきり痛むくらいに。
私はスクアーロに笑って欲しくて旅行を計画したの。なのにこんな顔させちゃって。ごめん、ごめんなさい。

肩をがくりと落として、今にも溢れ出て来そうな涙を必死に堪える。堪えていたのだけれど、不意にスクアーロが私の手を優しく引っ張り脇に寄せてあった車の中へと引き込んできた事で、涙はたがが外れたかのようにぶわっと溢れてきた。


「泣くな、ほらもう行くぞぉ」
「なんで、ボスに、ほうこく」
「ベルに任せといた」
「荷物、よ…ういしなきゃ」
「もう車に乗せてあるぜぇ」


こんな事もあるかと思ってなぁ、とニヒルな笑みを浮かべながら口にするスクアーロに、また涙が零れそうだと危惧する。

スクアーロ着替えてないのにと訴えれば、お前の泣き顔を見るくらいなら血濡れの方が良いと言われた。その台詞が何だかあのメロドラマの男性の様で、私の脳内が一気にスクアーロへと染め上げられる。銀色だ。なにもかもがスクアーロの色だ。


「それに大して返り血も浴びてねぇからなぁ」


制服を見せ付けるようにして自分も車に乗り込むスクアーロの手には、何時の間に取ってきたのやらベンチに置き去りの筈の私の荷物。彼への愛しさが込み上げててきて大変だ。パンクしそう。


「スク、だめ」
「はぁ?」
「着替えてきなよ」
「美術館見れなくなるぞぉ?」


確かに美術館には行きたい。でも気付いたのだ。私を一番に考えてくれるスクアーロ。そんな彼との旅行ならば、どこに行ったって良いという事に。場所なんて関係ない、地元の海だって構わない。スクアーロと一緒に居れるなら、地獄だって素敵な観光地に出来る。

そんな馬鹿な事を考えつつ自分の手を見やれば、彼への思いの勲章とも言うべきボロボロの爪が、私達を笑っているような気がした。


会いたくって爪を噛む




サンタモニカさまに提出
ぬるい鮫でごめんなさい
(20120406)