「おい、メイ」
「っ!…なに、お兄ちゃん」
「家庭教師呼んでんだってな」


こくりと頷きながらグラスに烏龍茶を注ぐ。こぽこぽ、と液体が零れ落ちる音はすぐに深夜のキッチンへと同化していくようだった。

その中で浮かぶようにその場に佇むお兄ちゃんの真っ赤な瞳が私のそれを抉り取るように見詰めてくる。怖い。
張りぼてが剥がされてしまった今となっては、兄は恐怖以外の何者でもなかった。


無言の空間も束の間、お兄ちゃんが手をにゅっと伸ばして早くしろと何かを要求してきた。
推測するに、自分にも茶を注げそして早く渡せ飲ませろという意味なのだろう。十何年間も兄弟をしていたらそのくらいは分かる。

それでも私は今までみたいに、もうお兄ちゃんの前で猫を被るつもりはさらさらないので敢えて意味が分からない振りをした。
ただでさえ顰めっ面のお兄ちゃんの額に、今まで以上にシワが刻まれてゆくのを見てふるり、背中が粟立つ。


「…早くしろカス」
「な…、なにが…?」
「分からねぇのか」
「…う、ん」


お兄ちゃんの鋭すぎる眼力に負けそうになりながらも、消え入るような声で分からないと嘘を突き通す私って何なんだろう。

いい顔しない代わりにうそぶくなんて絶対に意味はない。
そのくらい分かっているのに、何でこんなに頑なになってるんだろう。私、馬鹿みたい。

気を抜いたら涙が零れそうになったので、ぐっと下唇を噛んでキッチンの白い床と向き合う。頭部に刺さる視線でさえ痛いくらいなのに、これでどうやって兄と目を合わせろって言うんだろうか。

私がもう顔を上げないという意志を見て取った所為だろう、上からあからさまな舌打ちが降ってきた。

あまりに憎々しげな音に、彼は本当に私と血が繋がっているのだろうか、そんな考えを抱いてしまうのも頷ける話だと思う。


「カスが、嘘吐くんじゃねぇ」
「う、…そじゃない、もん」
「ハッ、顔に書いてあるクセによく言うなお前」


何時の間にそんな虚勢を覚えた?
そうやって、心なしか嬉しそうに笑うお兄ちゃんは黒が似合う。

仄かな光のみに照らされる暗がりの中、目の前の兄は妖艶なまでに黒く染まり、それなのに上品で…私は再度この人と血縁者なのかと疑うしかなかった。


「茶だよ」
「……」
「俺にも注げ、そんくらいお前も分かってたんだろ?」
「……うん」
「お前は小せぇ頃から人の顔色ばっか伺ってやがったからな」
「ごめんなさい」


私の口から、ポロリと零れていく単語は水の音同様、静まり返ったキッチンへと同化してゆく気がした。

兄が私の突然の謝罪に対し不思議そうにきゅっと眉根を寄せたのと相反して、私自身はごめんなさいの後に残された得も言われぬ奥ゆかしさをひとり噛み締める。


何故だろう、無性に謝りたくなったのだ。

今までずっと自分を偽っていた事に、それを剥がされたからと言って今度は虚無しか残らない嘘を吐いた事、そして何より彼の妹として生を受けてしまった事に。

何で私みたいなちっぽけで惨めな人間が、お兄ちゃんの様な人間の元に生まれてきてしまったのだろう。甚だ疑問だ。

考えながらも、食器洗い機の中から青みがかったグラスを取り出してお茶を注いだ。やっぱり音が響く、こぽこぽと。


「はいどうぞ」
「…ああ」
「…ねえお兄ちゃん、」
「あ?」
「私、逃げたいの」


どこでもいいから、逃げ場が欲しい。裏切られる事のない確固たる避難所が。私は小狡い妹だ。

お兄ちゃんは私を一別した後、グラスに並々注がれた烏龍茶を一気に飲んだ。上下する喉仏に、悔しくも目を奪われる。


「勝手に逃げてろ、ドカスが」
「うん、そうだね」
「…でも覚えとけ」
「え?」
「血の繋がりは、どんだけ逃げても追っかけてきやがる」


どんだけ逃げても、最終的には俺の妹って事実からは逃げ切れねえ。


兄の言葉は、暗い弥生のキッチンには少しまだ暖かすぎて。

いや、端から見ればなんて淡白な兄なんだと思うのかもしれないけど、私からしたらこの言葉は所謂デレだった。珍しい、お兄ちゃんのデレ。


春がくるなあ、とちらりと思った瞬間にお兄ちゃんは私からくるりと背を向けた。もう寝るのだろうか。

ぽろり、何かが零れる。

「ありがとう、ザンザスお兄ちゃん」




(20210305)



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