「メイ、あなたこの間のテスト最悪だったじゃない」
「だからって家庭教師なんか…」
「いいじゃない、プロなのよ?」
「いやだ!」
嫌だ嫌だ嫌だ。勉強なんてだいっ嫌い、家庭教師なんかに何時間も縛られるくらいならベランダから身投げしてやる。
強い意志を込めて頭が取れそうになるくらいに激しく首を振る。そんな只今午後四時十五分。
お母さんはそんな私の態度を見て、困惑したような怒ったような表情を隠せずにいるようだった。
でもそれもそうだろう、だって私がお母さんに刃向かうなんて殆どない事なのだから。
私は生まれてこの方、親に逆らうなんて危ない真似は一切せずに何事もそつなく粉していた。親にぎゃんぎゃん噛みついて悲しませるのは兄の役目で、逆に従順を装って笑顔にさせるのが私の役目だと過信していたからかもしれない。
兎に角そうやって、親にもいい顔兄にもいい顔友達にもいい顔をして生きてきた。八方美人と、一度クラスの子から陰口を叩かれた記憶がある。
でもそれでいいと、それが私の精一杯の出来る孝行だと思っていた。思って、いたのだ。
けれどどうやらそうではなかったらしい。
この間、たった一人の兄から言われてしまった。お前の猫被りは見るに耐えねぇ、胸くそ悪くなると。
それはずっと兄に向かっても完璧で可愛らしい妹を演じていた、いや、演じている気になっていた私にとっては余りに衝撃的な言葉で。
そしてそこからの瓦解は自分でも驚く程のスピードだった。
両親に対して反抗まではせずとも生返事を返すようになったし兄の顔を直視出来なくもなったし、何より私は勉強をしなくなった。
元々好きではなかったのに、親の期待を裏切らないようにと半ば無理をして粉していた数学や化学。私は弦が切れたかのように、勉強という行為を一切しなくなった。
それから二週間後、今から約1ヶ月前に行われた定期テストは案の定と言うべきか、過去最低の順位を叩き出した。
そうして今に至る訳だ。
母が痺れを切らしたように私を呼びつけ、家庭教師などという枷を持ち掛けてくるという今に。
「あのねえメイ、来月にはもう三年生、受験生なのよ?」
「…分かってるもん」
「大学に行かないつもり?」
「大学には行く」
「じゃあ勉強しなさい、ちゃんと」
「……家庭教師は嫌だ」
お母さんの、今までは兄に向けられたモノしか聞いた事のないような棘のある声音に少し物怖じした自分がいた。口内にじんわりと鉄の味が広がるのは、たぶん無意識に下唇を噛んでいるからなのだろう。
ああ、ムカつく。
私の気持ちなんかこれっぽっちも知らずに、ただ険しい表情をするお母さん。消えてなくなっちゃえばいい、なんて言ったらもっと酷い顔をされるんだろうか。
でも、正論だと思った。
悔しい事にお母さんの言っている事は全て正しい…けど、やっぱり一度芽生えた反抗心というのは予想以上に大きいらしく、結果私が唇を尖らせたままお母さんと軽く睨み合うという何とも新鮮な構図が出来上がる。
私達の間に気まずく流れる沈黙を今すぐ取り払ってくれる人物がいたなら、私は迷わずその人を崇め奉るだろうに。
「…ごめんなさいね、メイ」
「え?」
「お母さんもう家庭教師…呼んじゃってるのよ」
あと一時間もしない内に来るんじゃないかしら。
やっと沈黙を破ったお母さんは、まるで隣の家の奥さんの噂話をする時のようにさらりと…ごくごく流動的にそう口にした。というか口にしくさりやがった。その瞬間、私の体が硬直したのは言うまでもない。
「…っは?もう呼んだって何?」
「てっきりメイは了解すると思って…、火水日の週3日で契約しちゃったのよ」
はあ、何してくれてんのお母さん、最低!!
…とは言えず、私はただ単にぽけっとした顔で私を産んだ女性を眺めるしかなかった。
ああ、ジャージから着替えなくちゃ駄目かな。考えたら何故か、ちょっとだけ涙が出てきそうになっった。
ばたばたばた、とわざと大きな足音を立てて階段を駆け上がって自室に飛び込む。
お母さんは私に何か言いたげな表情を浮かべていた気がするけれど、そんなの気にしてやるかって勢いで振り切ってきてしまった。何だかもやもやする。って、なんで私が罪悪感なんか、感じなきゃいけないの。
暫くして、ベッド脇の壁に掛けられたら黒い時計の針が気怠げに五を指したのとほぼ同じその瞬間に。
私の鼓膜を家のインターホンのけたたましい耳障りな音と、もの凄い大きなだみ声が震わせた。
声でかい…ていうか男かよ。
のろりと腰を上げてカーテンを開ける。
そこから見えた家庭教師らしき人の頭は、笑っちゃうくらいに真っ白でちょっと本当に笑った。
(20120303)