キツくてキツくて汗が出る。

空調が効いている筈なのにもわっと熱が籠もる空気、みんなの荒い息遣い、筋肉の収縮が多い所為で吊りそうな指先。
それら全てが私に、きついという感覚をもたらしていた。

もう、本当にボスは容赦って言葉を知らないんだもん。自分だって汗ダラダラのクセに…!



なんて、思っていたのがほんの十分前まで。今は練習スタジオを出てすぐの、だだっ広いロビーみたいな場所で涼んでいる最中だ。

ボスが話をつけた対バンは明日。
今日は最後の追い込みというか、取り敢えず朝8時から現在(午後1時)までぶっ続けで練習している。恐ろしい事にたぶん夜まで続くんだろう。

本当に対バン前のボスは鬼以上だ。
だってあんなに練習して、休憩はたったの三十分なんて。まあこういう日は大抵、夜ご飯は皆で食べにいこうってなるからいいけど…。

でもそれにしてもハード過ぎやしないだろうか。まあ皆さんは鍛えてるっぽいからいいけど、私は仮にも女の子だよ?
立ちっぱなしで何時間もずっとキーボード弾いて、腱鞘炎とか突き指とかしちゃったらどうする気なんだって話。


ふう、と一つ息を吐いてから伸びをする。それからすぐ側で立派な彫刻の横に慎ましやかに立っている自販機で買った水色のサイダーの缶ジュースを額に当ててみた。あー冷たい。気持ちいい。

高級ホテルのロビーを思わせる空間の中で、誰もいないのを良いことにソファに寝そべらせてもらう事にした。
ぐてん、と何とも脱力感溢れる効果音を脳内で響かせると同時に、私の世界が反転する。ちょうど真上に位置するシャンデリアがキラキラ眩しくて目眩がした。

ボスの家って本当にお金持ちだよなあ。
もしバンドで成功出来なかったらボスの家にご厄介になろうかなあ、などと消極的な事を頭の片隅で考えながらサイダーのパッケージを眺める。糖質オフ…ってほんとかしら。

ぼんやりと、サイダーの泡がコポコポ浮かんでゆく映像をなぞってみる。

なんだか少し眠くなってきかもしれな「しし、碧ハッケーン!」…ああ、睡魔なんかより面倒くさいのが来ちゃった。


閉じかけていた瞼を押し上げると、途端に私の視界を埋め尽くしたのはシャンデリアにも似たキラキラと輝く金色。

もういっそ狸寝入りすれば良かった。
けれど後悔先に立たずとはよく言ったもので、目を開けてしまった時点で私の敗北は決まったも同然なわけで。
現にほら、ベルの口が嬉しそうに孤を描いた。ついでに私は背筋が寒くなった。



「何…?ベルどしたの?」
「ヒマ。碧付き合えよ」
「嫌だ」
「ししっ、オマエに拒否権ねーし」


なんだそりゃ。
そう声に出そうと思ったものの、何故か声が出なかった。

変わりに思い切り眉根を寄せて天井を、煌びやかなイギリス辺りの宮殿を思わせるようなシャンデリアを見上げる。私につられてベルも顔を上に向けたのが、何とはなしに分かった。


「ねえベルー」
「あ?ンだよ」
「ベルのレスポールって重い?」
「うしし、当たり前だろ」
「よく耐えられるね」


それなりの重さのあるギターをずっと肩に掛けておくなんて無理。少なくとも私は絶対に。

単純に流石は男の子だなあと関心して言ったのに、何を思ったかベルはとても上機嫌な雰囲気でしししって笑い声を漏らした。

たぶんこの王子様の事だ、私がベル単体をほめちぎってるとでも勘違いしているんだろう。全く、彼は高校生の時から何ら成長を遂げていない気がする。気がするだけである事を願いたい。


「まー王子も疲れてっけど」
「そりゃ疲れるよ。ボス鬼だもん」
「んじゃ疲れてるっつーことで」
「え?」
「ししっ、いっただきー」


ひょい、なんて軽快な仕草で私の手の中でクールダウンの役を買って出てくれていたサイダーが奪われてしまった。

なにすんのよベル!と怒る暇もなく、いとも簡単に私の手からベルの手へと乗り換えたサイダー。
なんだサイダーのヤツも結局は色気か。色気がある人間に飲まれたいっていうのかこの淫乱。



「返して私のサイダー」
「ヤダ。丁度喉乾いてたし?」
「じゃあ自分で買えよ」
「ししっ、金向こう置きっぱなしだっての」


だから仕方ねーじゃん、なんて屁理屈を言いながらスタジオを顎でしゃくるベルを殴ってやりたい衝動に駆られた。
無論そんなのは夢のまた夢というヤツで、悲しいかな、実際私には人を殴るなんて事絶対できないけど。

取りに行ったらいいじゃん。
力が駄目なら口でと、精一杯の力を込めて言葉を放つ。おまけに腕も精一杯伸ばして愛しのサイダーちゃんを取り返そうとしてみる。

…ものの、結果は言うまでもなく失敗。

まずベルは私の言葉に聞く耳なんて持ってはいない(というか持たれた事がない)し、私のリーチの短い私がベルから何かを取り返せる訳はないし。私がベルを下せる確率はほぼ0パーセントだ。
でもこのままサイダーをあげるのは何か許せないんだよなあ…。

よし、ちょっと頑張ってみよう。


ソファから重い腰を上げて、再びサイダーに手を伸ばす。

すると何て嫌な男なんだろう、ひょいと交わしただけではなくそのまま笑いながら逃げやがった。ここまで王子っぽくないと逆に笑える。ベルは私の王子観念を360度変えた人間だ。


「返してよ!私が飲むの!」
「ししっ、鬼さんコチラってヤツ?」
「主旨変わってんじゃん!」


逃げられたら追う。これは自然の摂理ってやつだと思う。
故に私も、普段は使わない中学一年生の運動会で一着を叩き出した駿足で追いかけた。

けれど矢張り男女の差は大きいもので、どんなに自分でスピードを出していると思っていてもベルの背中は遠ざかるばかり。

終いには疲れ果てて、ハアハアと肩を上下させていたら余裕の表情でベルが歩いてくるもんだからすごく苛々した。

なにこの金髪、何で息一つ乱して無いわけ?私への当て付けか堕王子め!


「うっわ碧ダッサー」
「うる、さいっ!疲れた、の!」
「まあオレは楽しかったけど?」
「は?なんで?」


なかなか整わない息にやきもきしつつ、眉をしかめてベルを見上げる。
歳はとりたくないなあ、なんて考える私はもう相当精神的におばさんなんだと思う。

それもこれも、目の前で口角をより一層吊り上げたこの金髪の所為かもしれないと思うと泣きたくなってくる。ああ、私って何でこんな人生辿ってるんだろう、なんて。



「王子は碧の必死に走ってる顔が見れたし満足」
「ちょっ…なにそれ!」
「しし、稀にみる不細工じゃね?」
「それ消して!脳内から消して」
「ムリ」
「くっ…即答か、」


自分がどんな顔をベルに晒していたんだろうかと考えると頭痛がした。

ズキズキ、やっちまった感と共に頭蓋に走る痛みを覚えて頭を押さえた私の眼前に、ずいと突き出されたのは水色の缶。
バッと顔を上げると、ベルの顔はまだにやけたままでなんだか気に入らないんですけれど。


「なに?」
「やるよ」
「私から奪ったヤツじゃん」
「しし、王子心広っ」
「聞いちゃいないね」


言いながら突き出されたサイダーを掴むと、何故かベルが早く飲めよと急かしてくる。

一度息を吐いてから、まあ気にする事はないかと缶を開けた。プシャアアアアと爽快感溢れる音を立てた瞬間にサイダーの甘味臭が鼻をつく。

…ん?プシャアアアア?


「って、ぎゃああ!」
「しししっ、」
「うわ服にかかった!顔ベタベタ!」


最悪!そう叫ぶ私の横でベルが耳につく笑い声を空間に響かせる。

こいつ、謀りやがった…!

振りに振られたサイダーは私がフタを開けた瞬間に、ロケット花火の如き勢いで飛び出したのだ。お陰で顔と手と服がやられた。


「ベルひっどい」
「しししっ、だせー」
「どうしよ服洗わなきゃ、」
「なあ碧、」
「なに」
「もう休憩終わるぜ?うししっ、」

「……ふぇ、」


その直後に王子鼓膜と派手なシャンデリアを震わせる、私の悲痛な叫びが響き渡ったのは言うまでもないだろう。



ああ嫌だもう嫌だ



あれおかしいな甘くならん
(20120213)