彼女と過ごす時間というやつは、とても早足だから困るったらない。とても穏やかで満ち足りて、静かなくせに、歩みだけは普段とは桁違いに速いのだ。きっとこれは彼女の忍術なのだと、最近の俺は思っている。いや、それじゃあまるで彼女が俺を疎んでいるみたいだけれど。 「あ、勘ちゃん見て」 俺の肩に頭を預け、のんびりと足を崩して座っていた彼女が指差した方に目を向ける。するとそこには、塀を乗り越えてでもきたのだろう小さな猫が茂みの中で丸くなって寝ていた。白くて柔らかそうな毛が、朝日と一緒になってやってくる静かな風に靡いてふわふわと空気を孕んでいる。 可愛いな、というのがまず口から勝手に飛び出した言葉だった。 「ね、随分と可愛らしいお客さんだね」 「ああ、飼いたくなるな」 「勘ちゃん猫好きなの?」 「まあ、人並みには好きだよ」 彼女との他愛のない会話は滑らかに進むから、俺たちは今まで一度たりとも可笑しな沈黙に襲われた事はない。穏やかで、それこそゆっくりと目を瞑って眠りたくなるような沈黙ならあった気がするけど、少なくとも無様に会話を探したりはする必要がなかった。だからこそ、俺は彼女と一緒に過ごす時間が大好きな訳で。 ふと、隣から彼女の温もりが消えた。 それは本当に唐突で、すやすやと眠る子猫に向けていた視線が自然と左隣に回る。何だかとても、意味も名前もないような漠然とした不安に襲われた。 今ここで彼女を失ったら、俺はどうしたらいいんだろうと、何を寄る辺にして生きてゆけばいいのだろうと。そんな本当に自分中心な考えが脳裏を支配して、一気に灰色のぐるぐるした世界に落とされた気分だった。怖い。よく分からないし情けないが、とにかく、こわい。 「行くな」 気が付けば、そんな声を上げていた。俺の隣から離れて、ゆっくりと猫の方へと向かっていた彼女が、ぽかんとした表情でこちらを振り返る。 それから彼女は目尻を最大限に下げて、ふわりと浮くような仕草で小首を傾げた。大丈夫だから、少し待っていてね。俺の鼓膜に届いた彼女の声音は、波を作ってそのまま体内に吸収されてゆくような柔らかさを持っていた。ああ、何でこんなに安心するんだろう。敵わないな、彼女には。 俺の一回りも二回りも小さな背中が、子猫の前でゆっくりと丸まって、それからまた元に戻る。それと同時に彼女こちらに向き直って、何時もと何も変わらない穏やかな笑みで帰ってきた。子猫のいる茂みに、日除けの女性用の傘が優しく置いてあるのが視界の端に映って、無意識のうちに二度ほど瞬きをする。 可愛いのではなくて、愛おしい。なんて、思ってしまう俺はもう末期なのかもしれない。 「勘ちゃん、ただいま」 唐突に、ぴたりと足を止めた彼女は、そう言って綺麗に微笑んだ。心地良い風に溶けてしまいそうだと、またどうしようもなく馬鹿らしい不安が頭を過ったが、それでも俺も静かに笑い返す。 早く戻ってこいよ。 堪らずに口蓋から出て行った俺の我儘を、果たして彼女はどんな風に受け取ったのか。分からないけど、でもまあ、すごく嬉しそうに目を細めたから良しとしようじゃないか。 「ほんと、勘ちゃんは寂しがりやだねー」 「うるさいなぁ」 「はいはい、ごめんね」 「なぁ」 「ん」 「おかえり」 帰ってきてくれて、ありがとう。 言葉の内側に目一杯詰め込んだ気持ちに、どうやら敏い彼女は気が付いてくれたようだ。小さな陽だまりに似た暖かい笑顔が、俺の網膜をじんわりと焼いた。 アルストロメリア:花言葉は柔らかな気配り ************** 以前も言った気がしますが、凛ちゃんは普段あんなツイートしてるけれど、とても気配り上手な人間だと思います。フォロワさんひとりひとりを大切にしているイメージもあって、尊敬出来る方です。今回は夫婦なイメージで書いてみました。早く結婚しろよ凛勘。凛ちゃんRTありがとうございました。 |