るんるん、と適当な鼻歌を夕方の浴室に浮かべながら何の気なしにシャンプーに手を伸ばした時。はた、と気付いた。

いつもと違う、と。
私のお気に入りのシャンプーはピンクの容器で髪の毛のキューティクル補修がしっかりしててフローラルなすごくいい香りで、いつも私の血飛沫の付いた髪の毛を優しく洗って包んでくれる有り難い子で。なのに今私が手に取ったそれは、薄紫のなんだか見慣れない物で。

え、と思わず声を上げてその薄紫のシャンプーの容器をまじまじと見詰めた。おかしい。だってここは私の自室付きのシャワールームで、私は今さっき任務から帰ってきたばかりだけれど行きにはきちんと鍵を掛けていった筈で。なのに何故、どうして私のシャンプーがすり替えられているのか。しかもこれは恐らく男物。ますます意味が分からない。

首を捻ること数分、しかし幾ら考えてもその謎は解けなかった。
ただこのまま血生臭い髪を洗わないわけにもいかないし、仕方無くそのまま薄紫色のシャンプーのポンプを押した。中身も薄紫色だった。なんだかどこかで嗅いだことのあるような匂いに、思わず眉をひそめたのは言うまでもないだろう。

そして追い討ちとばかりに次に私の目に飛び込んできたのは、本来ならばピンクの容器で統一されている筈のトリートメントとボディソープだった。どうやらトリートメントはシャンプーとセットらしく、こちらも薄紫色をして何食わぬ顔でバスルームの隅に佇んでいる。ボディソープの方は銘柄が違ったが、私が普段使っているそれとも違った。何がなんだか分からない。もしかして誰かに謀られているんだろうか。

…まさか、毒が入ってるとか?
恥ずかしながら私は、自分は憎まれるような事は一切していません、なんて言い切れない。職業が暗殺部隊というだけに人からの恨みの多さは通常の三倍、いや三十倍はくだらない。
つまり今ここで落ち着いて考えるに、このヴァリアーに忍び込んでいるスパイ(または私を怨む隊員?)が私の留守中に毒入りシャンプーにすり替えたという説が濃厚だろう。

…なんて、それは流石にないか。だって私もうシャンプー使っちゃったし。少し髪がギシギシするけどそれ以外は何ともないし。

いいや、惑うのも面倒くさいし、他のも使っちゃお。
自分でも自分の浅はかさというか短絡さには息を飲むレベルで呆れるばかりであるけれど、もし毒入りなら毒入りで何とかなるだろうと楽観的な思考に切り替えてトリートメントの容器に手を伸ばした。

私のシャンプーたちは、果たしてどこにいったのだろうか。


○ ● ○ ● ○



「あ、センパーイ、やっときたー」
「へ?」


バスルームから出てルームウエアに着替えた私を部屋で出迎えてくれたのは、エメラルドの瞳を妖艶に歪ませたフランだった。当然のような顔をして微笑む彼の頭の上には、いつもの大きなカエルの姿はなく、代わりに風呂上がりの目には少々鮮やか過ぎるエメラルドが広がっている。


「フラン君、いたの?」
「はいー、来ちゃいました。てへ」
「てへ、ってあのねフラ、っきゃ!?」


ふわり、と体が宙に浮いた。するとその次の瞬間には私の体はもう、柔らかいスプリングのお世話になっていた。

実はフランと私は一応恋人というやつであるのだが、その前に二人は先輩後輩である。だからたとえフランがどんな(性的な意味で)奇襲を掛けてこようとも、平常心平常心と呟いて先輩としての心構えを忘れないように努めている。努めているけども、流石にこれはキツい。
この、瞬く間もなくフランの細い手首によってベッドに組み敷かれてしまった、という状態は。


「瞬間移動でも覚えたの…?」
「秘密、です。ミーは魔法使いですからー」
「笑えない魔法ね」
「これは先輩をミーの愛の力でベッドに縫い付ける魔法ですー」


聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞を紡ぐフランの瞳は、埋もれてしまいそうなくらいに美しくてどうしようもなくて、無意識のうちに息を呑んでいる自分がいた。綺麗、だなあ。声に出そうかと考えて、小さく肺腑に空気を溜める。

けれど突然、そんな私の先手を打つようにフランの青白い二本の腕が少し離れた場所からスルスルと移動してきて、声を上げる間もなく顔のあたりを包み込まれた。そのままその綺麗な顔まで近付いてきたものだから、反応に困るったらない。私は先輩なんだから。平常心平常心、と胸中に復唱を求めてもそんなのを返す余裕もない程。ああ自分が不甲斐ない。今まで後輩と恋愛なんてしたことなかったし、なあ。


「フ、フラン君…?」
「ふふ、先輩今日イイ匂いですねー」
「え?そ、そうなの?今日、いつもと違うんだけど…」
「だからーいい匂いって言ってるんですー」
「え?」


ニコニコと、普段の彼からは考えられないくらい甘い笑顔に脳細胞が溶かされてゆく。もう何が何だかよく分からない。透き通るようなフランの髪が私の右頬を掠める度にクラクラする。
そんな一歩間違えば気絶寸前の私を余所に、フランはここぞとばかりに額をすり合わせてきた。や、なんか、もう。


「…なによお、フラン…」
「真っ赤なセンパイは可愛いなーって」
「ふざけてないで、早く離して…」
「だーめ。だって今日の先輩はホントいい匂いですからー」


そう言って今度は頬擦りを繰り出してくるエメラルド色の後輩に、魂以上の何かを確実にもっていかれている気がするのは私だけだろうか。というか何で今日の匂いがそんなにお気に召したのだろう。

ふとそんな疑問に駆られ、その事をフランに尋ねようと口を開きかけた時。その時またもや、先回りと言わんばかりに彼の唇が綺麗に動いた。ミーと同じ匂いですね。
今日は何だか際どいところで先を越されてばかりいる、なんてそんな事は一気にどうでもよくなった。ミーと同じ匂い、フランと同じ匂いって、つまりもしかしていや確実にこれは。


「フランがシャンプーすり替えたの?」
「ご名ー答、です」
「じゃああの紫のやつってフランのいつも使ってるもの?」
「もちろんでしょー」
「な、なんのために?」


目を丸くして問い掛ければ、フランは年下とは思えないくらいに大人びた笑みを口元に浮かべて、分かってるでしょ?なんて余裕たっぷりに声を落としてくる。正直に首を振れば、何故か強く抱き締められた。

後輩のクセに広い肩とか、強い力とか、それにやけに甘い囁くような声とか。そういうのは色々と狡いと思う。
声に出したら先輩の威厳が粉々になりそうだから、絶対に絶対に言わないけれど。

気付かないうちにだいぶ早まっていたらしい動悸をなんとか落ち着けて、まっすぐに天井を見た。私みたいにだんだん落ちてゆく太陽の所為か、薄紫色の光が差し込んでいる。まるでフランのシャンプーの色、みたいな。


「センパイをミーと同じ香りにしてみたかったんですー。だってそうしたら、ミーのモノみたいな感じ、するでしょ?」


本当に幸せそうに微笑むフランには、先輩とか後輩とかそんな下らない葛藤なんて全く意味のない事なんだ、と緑色の瞳の中に映る自分を見詰めながら、ぼうっと理解した。彼の髪に今度は私が顔を埋めてみれば、なるほど確かにさっき私が使ったあのシャンプーの匂いが鼻孔を擽る。ああ、このまま匂いだけじゃなくて、全部混ざっちゃえばいいのに。そう思ったのは私だけの秘密、という事にしておこう。




染まれ、染まれ



(20130126)



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