何時の間にか几帳面に塗られていた筈のマニキュアが禿かかっていた。
お気に入りの淡いピンクとパールホワイト。自分で塗り直そうと、いったん除光液で綺麗さっぱり剥がしてから部屋で奮闘したもののどうにも上手くいかない。何度やってもさっきまでの爪のように美しく塗れないのだ。だって重ねる度に変な線はできるし、油断すると直ぐ爪じゃない場所に付いちゃうし神経使うし。だからと言ってネイルサロンに行くお金はないし。もうやだ。だめ。女の子やめたい。

でもやっぱり、女子大生が爪に何の塗装なしで表にでるのも如何なものかと思う。と、いう訳で。


「十四郎!」
「ああ?んだようっせーよ」
「ヘイトシちゃん!」
「言い方変えりゃいいってもんじゃねーよ!」


どっちにしろうるせーんだよ!と喚くトシちゃんもとい土方十四郎に構わず彼の部屋に入り込む。いやコイツの喚く声の方がよっぽどうるさいわ。

この隣の怪物くんならぬ隣のニコチン君的な存在の彼は私の従兄弟という奴で、同級生かつ近所な事もあって小さい頃からそりゃあもう飽きる程に顔を合わせていた。もう二十歳も過ぎたのに、私が彼の部屋に遠慮なく入るのもその兄弟のような関係の所為だ。まあ、この習慣は本来ならば消え去っていなければいけないものなのだろうけれど。けれどお互い変な所で変な知恵が回るらしく、私たちは一度も一線を踏み違える事なくここまで健やかに育ってきてしまった。というか面倒臭いからぐだぐだ考えるのも止めよう。

一呼吸置いてから、家具の配置からタンスに入った下着の傾向までほぼ全てを把握している十四郎の部屋を縫うように歩いてベッドの縁に腰掛ける。ローテーブルの上に未開封のコンソメパンチが置いてあった為迷わずかっさらった。


「あのね、十四郎、爪剥がれた」
「あっそ。それが何だよ」
「だから、またお願いしますー」
「ふざけんな。てか人のポテチ勝手に開けんな」
「お願いやってよ私出来ないもん」
「お前この間やってやったばっかだろーがあとベッドの上でポテチ食うんじゃねえよボロボロ零れんだろ!」


そう言って唾を飛ばしながら怒鳴るくせに私の手の中にあるトップコートと二色のマニキュアを無造作に引ったくる。その時ふと、何だか何時もは感じない違和感を感じた。というか何故か今日は、この部屋に入った瞬間から普段とは違うような気がしたのだ。本当に何故かは知らないけども。

ただいちいち理由を考えるのもやっぱり面倒なので気にしない事にした。その代わりに、いつの間にか私の右手を取って眉根を寄せながらも爪を眺める十四郎に意識を向けた。このまま手の甲にキスでもしてくれれば私も女の子に変身できるのかもしれないが、万が一にもそんな事は起こらないだろう。やられても困るし。うん、きっと困る。

それにしても黙っていれば(あとは瞳孔を閉じてマヨネーズを封印すれば)申し分なくイケメンである。この容姿なら大抵の女の子ならばコロッと、それこそ殺虫剤のように殺せるに違いない。無論性的な意味で。恐るべし土方十四郎。


「こわいこわい」
「は?何がだよ。てかお前、」
「うん?」
「定期的に甘皮は処理しとけっつっただろーが!こんな甘皮三昧じゃ塗れるモンも塗れねーぞバカ」
「え、だって面倒じゃない」
「はあ!?ものぐさも大概にしろや。つーかだからポテチ零すんじゃねーよ!」


こめかみに青筋を立てて、やいのやいの怒る十四郎だったが徐にその場を立つと凄い勢いで部屋を飛び出していった。続いてドタドタと階段を下りてゆく音。そして少ししたらまた、ドスドスとゆっくり上がってくる音。全く忙しない幼なじみである。

神速で部屋に戻ってきた彼は手には湯気の立つ銀のボウル、そして分かってはいたが二つの瞳孔は尚開いたままだった。息を切らす十四郎に「どしたんトシちゃん」なんて軽口をきけば鋭い眼孔と共にお前が聞くなよ的なセリフがくるりとユーターンして戻ってくる。


「ホラ手ぇ出せ!躊躇してんじゃねーよぬるま湯だよ」


ぬるま湯。土方家ではもうもうと白い湯気の上がるお湯の事を「ぬるま湯」と呼ぶのか。そんな事今まで知らなかったぞ。ていうか無理だよね、これに手を突っ込めとそう仰ってるんだろうけれど全く理解不能だ。ホワッツ、パードゥン。そう聞き返してやろうかとも考えたがいかんせん目の前のお湯が、いや熱湯がとてつもなく熱湯に見えるのでここは分かり易く両手を引っ込めておいた。すると何だ、無理矢理私の右手首を掴んで来たではないか。助けて。


「やだやだ手の皮剥ける!」
「剥けねーよ大人しく突っ込めや!」
「見るからに熱いもん!絶対直ポットだろ」
「うっせーぐだぐだ言うんじゃねえ!」
「い、つ、あ?」


熱い、訳でもなかった。あったかい、そう言い表すのが適当なくらいの温度。思わず肩の力がすっと抜けていく。と同時に、十四郎の馬鹿にしたような短い笑い声が私の脳みそに直接攻め込んできた。なによ馬鹿にして、とももちろん思ったけれど口に出すと色々面倒臭そうだから使い道の消えた言葉は胃液の海に放り出す。その代わりに空いている左手で、コンソメパンチの袋をガサガサ漁った。驚くことにもう殆ど残っていない。どうしよう太る。

後悔先に立たずという格言を体験する私の近くにしゃがみこむ十四郎は、乙女の体重などいざ知らずと言った体でただひたすらに私の甘皮さんと格闘していた。たまにピリッて痛いのが、何だか少しエロい。いや、別に十四郎とそういう事する妄想なんてしてもあんまり楽しくないけれど。というかしたことないけど。

でも私の要求に顔をしかめていたクセに、結局真剣な目をして施してくれる十四郎とだったら、一線を越えてしまっても良いかもしれない。なんてね。


「おい、反対の手」
「ん」
「んだオメー左手ちっちぇーな」
「右手と変わんないよ」
「そうか?左のが小せえだろ」


つか、どっちにしろ俺の半分くらいしかねーしな。
そう言って彼は得意気に笑う。ムカつく。半分は大袈裟だろって反論と共に左手をグーに丸めてそのままその自称二倍の手のひらに思いっ切り叩き込んでやると、十四郎の眉尻が僅かだけど下がった。どうやら少しは効いたらしい。

それにしても、意外にも本当に二倍くらいありそうな手の平で驚いた。きっとこのままぎゅって閉じられたら私の拳なんてスッポリ包まれちゃうんだろう。もしかしたらオプションとしてドキッなんてするのかもしれない。
そんな下らない事を考えていたら、自分の手の平と私のそれの差をしげしげと眺めていた筈の十四郎と目があった。その瞬間である。

ギュ、と。夢が現実に、というか想像が現実になってしまった。私の左手は十四郎の驚くべき指の力でがっしりとホールドされており、ピクリと動かす事さえ不可能だ。その所為なのか、残念ながら「ずっきゅん」なんて胸を射抜く音は聞こえてこなかったけれど。


「なに、十四郎」
「別に」
「別にじゃない。なに」
「気にすんな」


そんな事を言いながら顔を近付けてくるんだから困る。これで気にしない人どうかしてるよなあ。

思っている間にも彼の開きっぱなしの瞳孔はどんどん私へと迫ってくるし、それに比例するみたいに閉じ込められた手はどんどん熱くなっていった。もしこのままくっついてしまったら、私はどんな反応をすべきなんだろう。どこか他人事みたいに考えながら、まだ湿っている右手で小さく彼の肩を押した瞬間。ようやく気付いた。今日この部屋に入った時から感じていた違和感が何なのか、今やっと。

思わず抵抗の為に押したはずの肩をぐっと掴むと、目の前の瞳孔は黒目が破れるんじゃないかといらない心配をしてしまう程に拡張される。ほら、やっぱりそうだ。違和感が百パーセント超の確信になり、無言のままゆっくりと生唾を飲み込んだ。そうだ、そういえばこの間私が言ったのではないか。


「私の所為?というか私のお陰?」
「は?」
「十四郎、煙草止めたの」
「…悪いか」


バツの悪そうな十四郎をまじまじと見詰める。すごい至近距離でじいっと見詰める。今なら睫毛の数まで数えられそうだ。

本当にそれを右端から数え始めたとき、何故か先日自分で口にした台詞が蘇ってきた。喫煙者とは死んでも付き合いたくないね。
辛辣に言い切ってやったのはつい3日前のことである。そうか、だから十四郎は。最初から、私を見ていたのか。いや、見ててくれたのか。僅かな時間で沢山の事を理解した脳みそが、ふるりと身震いしたのが分かった。ここにきて、遂に幼なじみではなくなりそうな予感がする。


「私、素直な十四郎わりと好きだけど」


自然と口をついた言葉に、トシちゃんはニヤリと口角を上げた。



不健康なあなたの言葉になりたい



リクエストありがとう、そして誕生日おめでとう
(20121211)
(title:藍日)




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