おー、やってるな。

太陽が西に傾きかけた頃、部屋の扉が音を立てて開いたと同時にそんな声が向かってきた。わざわざ顔を向けなくてもそれが土方さんちのお兄ちゃんであることは分かっていたので、英文を追い掛ける事は止めずに半端な声量で挨拶をする。おはよう。もう夕方だけど、は関係代名詞の如く省略した。

向こうも私が根詰めている事は重々承知しているようで、気持ちの入っていないこんにちはを咎めはしなかった。ああそれにしても、単語力が足りない。


「長文だな、過去問集か?」
「うん、国立二次の問題寄せ集めてるやつ」
「それ言うならより抜いてる、だろ」
「あー…そーだねうん」


私国語力もないわー、そう呟きながら単語集の索引ページを開く。
上から小さな溜め息が降ってきたのは私の覇気のない口調の所為か、それとも覗き込んだ先の長文の不出来な様の所為か。どっちなのかは分からなかったけれど、取り敢えず今日は意味が分からない単語がたくさんあって長文は蛍光ピンクに染まっていた。我ながら情けない。

けれどこれが紛れもない私の現実なのだ。向き合いたくなんてないけれど、向き合わなければ何も始まらない、現実。


「今が勝負の時期だからな」
「分かってる」
「…そこ、declineに気を付けて訳せよ」
「え、減る、じゃないの?」


decline、減少する、衰える、低下。
頭の中に夏休みに必死で覚えたそんな意味たちが動詞名詞を問わずに飛び交う。何か他に意味があったっけ。

有りもしない脳みそをフルに働かせつつ傍線の付いた英文の構造と意味を取ることを試みてみた。なるほど確かにこの文で、いきなり減少するなんて単語が使われるのは可笑しい。けれど、だからと言って文脈的に意味が汲み取れる訳では全くなく、結局うんうん唸った末にお兄ちゃんを見上げる事となった。


「んだ、推測出来ねえのか?」
「うん、さっぱり…」
「英語は語彙力と推測だ」
「ですよね…、で?」
「は?」
「意味は?」
「お前なぁ…!」


自分で辞書引け、馬鹿。

石が詰まっている私の頭に、ご親切にもゴツンと拳を落としてくれたお兄ちゃんに恨みを込めた小さな悲鳴を送るも、それは無効に等しかったようだ。何しろ腕を組んで仁王立ちして眉根を寄せてらっしゃる。しかも私のすぐ右横で。

その目から出ているのであろう、紫外線よりも強い早く調べろよ光線に圧されて仕方なく、いや仕方なくはないけれど電子辞書を開けた。英和辞典にしてお目当ての英単語を打ち込めば、すぐさまその意味が出てくる。日本の技術万歳。

decline、減少する、衰える、断る。

動詞というマークの後ろに、そんな意味がずらりと並んでいた。断る!断るか。確かに考えつきもしなかった。予想だにしなかった意味にびっくりして再びお兄ちゃんを仰ぎ見る。分かったか、そう目で問い掛けてくるお兄ちゃんに意外な意味だねという旨を興奮しながらも小声で伝える。

私にっとてこういう小さな意外性なんかを発見出来るときが、勉強も捨てたもんじゃないなんて考えるときだ。本居宣長があの「係り結びの法則」を発見したんだよ、なんて話を資料集で読んで鳥肌を立てたのがいい例だ。まあ兎に角、そんな訳で。


「断る、か…!」
「結構出てくるから忘れんなよ」
「うん、付箋貼っとく」
「あとはそのthatが何なのかを」
「ちゃんと見極めろ?」
「…分かってんじゃねーか」


クイッとお兄ちゃんの口角が上がると同時に、私の頭の上に先程とは打って変わった暖かくて大きなが手のひらが乗せられた。
もう高校三年生にもなるのにこんな子供扱いを喜んでいいのかは微妙なところだけど、でも嬉しい。なんか凄い、凄い嬉しい。褒められてるみたいで、って実際褒められてるのかもしれないけれど。

無意識的に自分の頬も緩んでいっていたらしく、お兄ちゃんはニヨニヨしないで早く英文に取りかかれと上から催促してくる。けれどその癖私の頭の上の手を退ける素振りなどないのだから、全く困った大人だ。


「ほら、早く訳せっつの」
「分かってるってば」
「お前、ウチの大学受かりてーんだろ?」
「うん」
「ならもっと死ぬ気でやれ」


力を込めてそう言うお兄ちゃんは今、二年前の自分自身を脳裏に思い浮かべているに違いない。なんせ彼もまた、大学受験で苦労して苦労して希望を叶えた人なのだ。

確かに受験期のお兄ちゃんは凄まじかった。
夕方学校から帰ってきては勉強、夜九時に寝て夜中二時に起きてまた朝まで勉強、そして学校に行くというサイクルを、目の色を変えて粉していたのだから。さすがの私も引いた。いつかそう遠くない未来にお兄ちゃんの胃に穴が開くんじゃないかと本気で心配したのを今でも覚えている。

だから私の、というより寧ろ全国の受験生気持ちも分って、こんな風に檄を飛ばしてくれるのだ。有り難いことだ、たまに口出しが過ぎて五月蠅いけれど。


うん、今からセンターまでの三か月間、死ぬ気で頑張ろう。
自分の中で誓いを立てる。けれどそれだけでは何だか飽き足らなくなって、気がつけば私は私の頭に鳥の巣でも作る気なお兄ちゃんの大きな手のひらをガシッと掴んでいた。


「うわっ、んだよ」
「私、胃に穴開けるから!」
「はあ?」
「決めたの!そのくらい死ぬ気で勉強する!」


出来るだけ知識を脳みそに詰め込んでやる!
いきみながら高らかにそう宣言した。ええ、宣言してやりましたとも。

てっきりお兄ちゃんは笑いながら「まあ頑張れよ」なんて言って私の頭をもう一度撫でてくれるかと思っていたのだけれど、そうではなかった。何故か彼は真面目な、本当に大真面目な顔をして、只でさえ開いている瞳孔を更に開きながら、大きく大きく頷いたのだ。言ったこっちがびっくりするくらいに、だ。

何がお兄ちゃんをこんなに本気にさせているのか。もしかしたらお母さんがお兄ちゃんにお金でも渡しているんだろうか、なんてケチな我が母に限ってある筈のない考えまで浮かぶ程の表情に、思わず彼の手を掴む事を止めていた。


「…ど、どしたの?」
「いや、是非頑張って貰おうとだな」
「なんで?」
「は?」
「何でそんなに応援してくれるの?」


実は前々から謎だった。
隣の家の二つ下の妹みたいに育ったただの女の子に、何故バイトの時間を割いてまで助力をするのか。いや、してくれるのか。

小首を傾げ上を向くと、開きっぱなしの瞳孔の奥に映る自分と目が合った。妙な気分だ。
そんな中お兄ちゃんは私と彼との間に溝でも作りたいのか大きい割に嘘臭い咳払いを一つ。ほんと何が目的なんだろうこの大学生。


「そりゃー、あれだ…」
「うん?」
「お前に受かってもらわねえと困る」
「え、何で?」
「何でもクソもねえ、困るんだよ」
「あるわ!てか目反らさないでよ!」


立ち上がってお兄ちゃんの肩を揺する勢いで詰め寄ってみる。彼は珍しく顔を赤に染めて、寄るな馬鹿寄るな馬鹿とどこかの新興宗教の念仏のようにひたすら呟いていた。ますます気になる。だって、だって私は、お兄ちゃんのことが。


「意味分かんない!」
「いんだよ分かるな」
「勉強手に付かなくなるもん」
「……手に付けろ」
「無理、教えて?何?」
「…味気ないだろ」
「は?」

「お前とキャンパスライフを送れないなんざ、マヨネーズのかかってねー食いもんと一緒なんだよ」




何もかもが正解




(title:ノイズレコード)
(20121011)



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