いい加減、何もかもが嫌になってきた。 もう死にたい。その思いは彼が私をただの性欲処理機、若しくは都合の良いパシリとしか認識していないのだと確信した頃から膨らんでゆき、もう既に私の体内では収まりきれないくらいになってしまっていた。それでも私は未だに命を絶つことが出来ないでいる。 それは彼、つまりザンザス先輩の所為だ。 私はザンザス先輩の所為で死にたいと思い悩み、同じく彼の所為で死ぬことは出来ないと結論付ける事を繰り返しているのだ。 こんなのは可笑しいと、自分でも思う。でも、何故か抜け出せない。悪循環としか言いようがないこの世界の中で、私は一人ぐるぐる回る。 ザンザス先輩とは半年前に出会った。一目惚れだった。容姿に惚れたんだ。今思えば浅はかでお子様だったと思う、ほんとのほんと。後悔している。 そして私からアプローチを掛けた後、私はザンザス先輩から頻繁に学校内で呼び出されるようになった。 理由は簡単、彼の底抜けの性欲を満たす為だ。初めて呼び出された時、浮き足立って空き教室の戸を開けた自分が脳裏に浮かぶ。もしその時の自分に会えるなら、迷わず横っ面を叩いてやるのに。 前戯を欠いた先輩とのセックスは何時でも痛かった。 濡れてもいないのに徐に突っ込まれて、彼が満足するまでまるで物のように粗雑に揺すられて終わり。甘い言葉も雰囲気もあった試しがなかった。 それだけじゃない、先輩は事ある毎に私に、頼みと称した雑用を押し付けていく。 カバンを家まで運んどけ、は日常的で時には彼の代わりに「用済み」になってしまった女性に謝りに行かされる事もあった。「用済み」宣告をした女性から殴られた事だって何度かある。 私がザンザス先輩を奪ったのだと、おめでたい勘違いをしてヒステリックに叫ぶ彼女達は怖かった。でも命令に逆らって先輩から「用済み」だと言われる事の方が数倍怖かった。結局私から先輩を切ることなんて出来やしないのだ。だって私はザンザス先輩の魔力にがっちり嵌ってしまっているのだから。 その証拠に今もこうやって、先輩の鞄を持って彼の家へと歩を進めているんじゃないか。 わざわざ私の自宅の最寄り駅から2つ先の駅で下りて、無駄に大きな塀やお金持ちだと誇示するような門が特徴的な先輩の家へと向かう。二人分の鞄というのは、例え中身が殆ど空でも重いものなのだと歩きながらふと思った。 その間にも私の足は何時ものように先輩の家の前まで辿り着き控え目に門をくぐり抜け、気が付けばもう玄関の前にいた。 コンコン、インターホンを押すのは何だか憚られたので分厚い木の扉をノックする。返事はない。 先輩が誰かと一緒に住んでいるのかは分からないけれど、少なくとも私がこの家に来る時は誰もいないらしく大抵返事は返ってこない。こんな大きなお屋敷なんだから、誰か一緒に住んでるとは思うけれど。 一呼吸置いて、鞄の内ポケットから日の光を反射する鍵を取り出す。ザンザス先輩からは合い鍵をもらっていた。無論だからと言って急に押し掛けたりしたら殺される、たぶん。あくまでこれは、私が彼の荷物を玄関にそっと置いておく為の道具なのだ。 …なんだ、けれど。今日だけは違った。 何故かと言うと、玄関のすぐ目の前にある階段の上、つまり二回から小さくだけれど女性の嬌声が聞こえてきたからだ。明らかに取り込み中の。 またどこから引っ掛けてくるのかと目を疑うくらいにグラマラスなお姉さんとよろしくしてるのかと、麻痺しかかった脳では妬ましいとさえ思えなくなっていたけれど、それでも少し驚いた。 それも仕方ないだろう、だって私が見てきた中で、先輩が女性を家にあげているなんて初めてで。 ほんの一瞬だけ私は、息をするのを忘れた。 そして私の弱い部分はどうやらその一瞬に付け込まれたらしい。気付いた時にはローファーを脱ぎ、忍者になれそうなくらい忍び足で階段を上がっている自分がいた。私自身が一番びっくりだ。無意識っていうのは本当に恐ろしい。 駄目だ覗きなんて、ていうかこれじゃあ私変態じゃない。見つかる前に帰らなきゃ、今すぐ下りれば間に合う。 脳みその中で唯一正常に働く部分がそう訴え掛けてくるのに、私はそれに応えて何事も無かったかのようにこの家を後にしたいのに、なのに体が言うことをきかない。きいてくれない。ああ、体は正直ってこういう事なのか。 私の中でそんなシンプル過ぎる一つの答えに辿り着いたのは、先輩の部屋の扉の前に立ってから。幸か不幸か、ザンザス先輩の部屋の戸は少しだけ開いていた。中から廊下まで響くベッドのスプリングが軋む音からして、私の目の前のこの部屋で間違いないだろう。あ、ああっ、なんて甘い声が玄関で聞くより数倍大きな音量で私の鼓膜を刺激する。 やだ、なんか駄目。 無論そんな制止が効く訳もなく、開いた扉の隙間から中を覗き込んでいた。そう、その瞬間だ、体が魔法にかけられたように硬直したのは。 先輩が、愛撫をしている。 私の手足は、背筋は、心臓は、彼から名も知らない彼女に向けてのその行為によって完璧に私の意識化から外れた。ただ、気持ち良さそうに喘ぐ女性の声だけが私の肌に浸透してゆく。 愛のある、少なくとも私よりは断然愛のあるセックス。いや、最早これを見てしまったら私と先輩のしている事なんて言えない。あんなのただの交尾じゃないか。 愕然とした。そして次の瞬間にはもう耐えられなくなっていた。それは心だけでなく、体もそうだったようで。 弾かれるように回れ右をした後は、何が何だか分からずに階段を駆け下りていた。左右の感覚も覚束ないまま玄関を飛び出し門の外に出て、場所も分からずに私の心のような灰色のコンクリートの住宅街をひた走る。心なしか空も曇っている気がした。 そして走って走って、何時の間にか三十分前に下車した駅に戻ってきてからはたと思い出した。私が物凄い足音を立てながら彼の部屋を後にした事、そして先輩の鞄と一緒に、自分の鞄も置き去りにしてしまった事を。 ああ、やってしまった。 私の血の気が一瞬にして引いたのは言うまでもないだろう。 涙が出てきそうだ、そんな風に考えながら久々の全力疾走で乱れた呼吸を何とか正す。刹那、制服のポケットがけたたましい音と共にぶるりぶるりと震えた。私の背筋のように、と表現するのが正しいか。 なんせそれは文字通り、いま一番会いたくない魔王からの着信音だったのだから。 「遅ぇよカス」 「…すいません」 「五分で来いっつったろ」 二回目のすみませんを譫言のように口にしながらザンザス先輩を見上げる。 当たり前のように氷よりも冷たい視線と私のそれがぶつかった。肌に棘が刺さるみたいな感覚に襲われながらも、目は逸らさず彼の赤い瞳を見詰める。それは罪悪感や反抗感、いろんな感情が混ざった末の行動だったけれど不思議と後悔はしなかった。 ただ先程飛び出てきた広い玄関までもが、なんだか私を嘲笑っているように思えてならない。こわいこわい、逃げたい。 約十分前、五分で来い、そんな非道な命令を電話越しに受け取った私は、全力疾走の置き土産とでも言うべき疲れ切った体に鞭打ちなるべく早足で来た道を戻った。結果五分遅れ。それで今、玄関で仁王立ちをして待ち構えていたザンザス先輩により一層険しい顔をさている訳だ。 でも多分、彼の表情が険しい一番の理由は他に、というか私が現場を覗いてしまった事なのだろう。それだけは確信していた。そして案の定、次に先輩が口にした言葉は私の今日の行動について言及するものだった。 何であんな狡い真似しやがった、その質問に答えられる筈もなく、ただ視線だけは合わせたままで押し黙る。 もうこれで最後だろう、先輩は今、私なんて要らないと言うんだ。そうに決まってる。そう思ったから、彼の瞳の赤を網膜に焼き付けておきたかったのかもしれない。 「とっとと答えろ」 「…理由なんてない、です」 「ハッ、じゃあ覗きがお前の本分か」 呆れるな、と鼻にかけた笑いを惜しげもなく晒す先輩は、勿論怒っているようにも見えたけれど、でも何故か少しだけ悲しそうなに見えた。いや、私の見間違いか。 覗きが本分だなんて、滅相もないわ。 心中だけの呟きが外に漏れるなんてアクシデントもなく、ただ私を見下ろす肉食動物が愛おしいと思った。ああ肉食獸と言えばそうだ。 「彼女はどうしたんですか?」 「さっきのヤツか」 「先輩が家に上げるなんて、」 「お前に関係あるか」 「いや。ただ、すごく綺麗な人なんだろうなって思って」 言いながら、逆に私はすごく汚い人間だと考えた。本当に嫌になる。先輩の恋人でも何でもないのに。考えれば考える程私が悪人になってゆく気がして、涙が出そうになった。 その思いを切るような目線のまま見据えてくる先輩が、報われないと分かっていてもやっぱり好きだ。止まらないから、イヤになる。 「何泣いてやがる」 「泣いて、ないです」 「カスが嘘吐くんじゃねえ」 「もう、いいですよ」 「あ?」 「恋人でも何でもないただの勘違い女が部屋を覗いたんですよ?挙げ句愛撫してるの見て嫉妬して逃げて。最悪なのは分かってます。もう、いらないんなら要らないって」 はっきり言って下さい。 気付いたらそんな言葉たちが私の口から飛び出していた。今日は思うよりも体が先に動いてしまう日みたいだ、全く運が悪い。 先輩が一際鋭い眼光を持ってして私を射抜く。モロに当てられた所為か身じろぎすら出来ずに直立不動の情けない私。 けれどそれも束の間、次の瞬間には私の腕は、驚く程強い力で引っ張られていた。ずるずると、一瞬の判断の後辛うじて脱ぎ捨てたローファーを置き去りにして、先輩に引きずられてゆく。階段を上がるものだから偶にスネが当たっていたい。 でも痛いと小声で訴える暇もなく彼の部屋に投げ入れられ、そのままベッドに押し倒された。二人分の重みに耐えながら軋むスプリングに、先輩と女性との映像がフラッシュバックした。 意味が分からない。改めて伺い見た先輩の瞳が私をより混乱させる。声がうまく出せない。 「な、んです…」 「俺に愛撫されたいのか」 「は?」 「してやる」 流石肉食獸ですね、なんて皮肉混じりのセリフは声が枯れて出せなかった。 でも嫌だ、違うの違うの。こんな虚しさしかない行為なんてもう要らないの。 声帯が使えないなら体で態度を示そうと、必死に足をバタつかせるものの男女の体格差が邪魔をしてちっとも意味がない。逆に私の抵抗に気を悪くしたらしい先輩が、ぐっとその整った顔を近付けてきた。いやだよ、しにたい。 「何が嫌なんだよ」 「だ、って」 「言え」 「愛のない行為なんて、もう要らないです私。…死にたくなるから」 最後を付け足したら先輩の瞳が少し揺らいだ。ああ哀しいよ。それでも先輩が好きだなんて、私って可笑しいよ。 涙がポロポロ落ちてゆくのも分かった。それがシーツに染みを作っていくのも分かった。けれど先輩の意図するところだけが分からなかった。 「愛がねぇといつ言った?」 「は、だって女の人、沢山いるし」 「一度きりの関係だろ」 「でも、」 「なまえ」 いきなりの質問に、そして何より呼ばれた自分の名に心臓が跳ねる。もしかしたら下の名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。というか、先輩が私のフルネームを知っていた事すら知らなかった。 何ですか、と声に出したいのに出来なかった。 次、先輩が口にする言葉が何となく予測出来たから。そしてそれは私を浮き足立たせるものであろうと直感的に思ったから。一瞬目尻が、ほんの、ほんの少しだけ優しく下がったのが目の錯覚じゃなければの話だけど。 「チッ、カスが」 お前だけだろう、一度きりの関係じゃねーのは。 罵声をそんな台詞に脳内で都合よく変換するのと同時に、私の体の芯がじんわりと暖かくなる。 彼の腕の中がこんなに心地良い温度なんだと、目から溢れる排泄物と一緒に実感した。やっぱり死にたくないや。当たり前だけど、私はもっと先輩が好きになった。 否定したい存在理由 (20120419) |