再びあの死体の前まで来た私は、数秒間の間それを見下ろす形で立ち竦んでいた。


私の目に堂々と写る、たった十数分前に事切れたばかりの新鮮な肉体。
それにベル愛用の鈍色に光るナイフが容赦なく突き刺さっている様は、嫌でも私の気分を高揚させる。

さながら興奮剤のように作用するそれに、思わずしゃがみ込んでじっと見詰めずにはいられなかった。でもせめて理性は保とうと頭を抱えながら、ベルのナイフを一本ずつ引き抜いていく。

けれど人間の理性というのは何とも脆いもので、ナイフを抜く度にこぽりと溢れ出てくる赤い液体に、私のそれはいとも簡単に崩れ去っていった。



気付けば私は、引き抜いた筈のベルのナイフを死体に容赦なくグサグサと刺していて。

そして肉を割り裂く音が鼓膜を叩き感覚は腕を伝わり、それを快感と感じた私の壊れた脳はその行為を止めろと伝令する事はなかった。
振り下ろしたナイフを勢い良く抜く度に飛び散る赤い飛沫に、私の背筋がぞくぞくと粟立つ。狂気に呑まれるのが分かる。


ああ、なんて素敵なんだろう。
もう一振り、あと一振り…――。


銀の凶器を強く握って大きく振りかぶり、今一度快感を呼び寄せようとした私…だったけれど、その快感は得ることが出来なかった。


何故って、そう遠くないどこかで、カツカツというブーツの小気味良い音が私の耳に届いたから。意識が飛ぶかと言う程に興奮していた精神状態でも、三半規管は辛うじて正常に働いていたらしい。

足音にびくりと肩を揺らしてから、はっとして自分の惨状を見詰める。

手はどうしようもないくらいに真っ赤、服には水玉模様のように小さな赤い雫が散らばり、極めつけには無意識の内に指に付着した血を舐めていたらしく、口周りを拭えば袖が微かに赤くなった。

剣や体に付いた血を舐めてしまうのは私の悪い癖だ。

直さないと、と小さく呟いてから、もう一度、今度はちゃんと自分を制御しながら突き刺さったナイフを丁寧に拭いて、隊服の裾や袖で拭う。
どうせ服は汚れてしまっているし、せめてベルのナイフだけは綺麗に、という私の配慮だ。


それから、こちらに近付いてきているらしい足音を気にしながら、音を立てず気配も消して部屋の扉まで戻った。

多分今聞こえている足音の人物が、廊下の隅に横たえられている無残な死体に気付くだろう。そうすれば人を呼ぶなりなんなりして処理してくれるはず。

大丈夫、ベルは部下殺しを常習しているような口振りだったし、そう心配する事もないと思う。


一人でぐるぐる思考を巡らしながら、ゆっくりとドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、一筋の銀色の鋭い光。

咄嗟に首を曲げてそれを避ければ、ストッという何とも軽快な音と共に木製のドアに見慣れたナイフが刺さる。どうやら銀色の光は、ベルのナイフが反射したもののようだ。


別段驚く事もなくソファに優雅に座っているベルに視線を投げると、彼からは満足そうな笑みが返ってきた。

それでも異常という部類に属する私は、彼にナイフを投げつけられた事よりも、色気を醸し出すかのような脚の組み方が気になってしまった。
それが一般人の感覚からは並外れて可笑しい事くらいは、自分でも分かっているつもりだ。



「王子の許可ナシに遊んだろ」
「…まあ、ちょっとね」
「しししっ、どこがちょっとだよ」



べっとりと赤く染まった私の手や服をしかと見たベルは、いけない姫だと歌うように言葉を放った。

その大好きなベルの声に耳をそばだてつつ、彼にナイフを返すべくソファに向かって歩いていく。

ドアを開く前に靴裏の血をきちんと拭き取ったおかげで、床に血の足跡が付くような失態はせずに済んだ。というよりベルの部屋の床を汚すなんて、死んでもしたくないもの。




「血、見たら止まんなくなっちゃった」
「それはオレも分かるけど」
「人ってすごいよね」

「あんな綺麗なモンが流れてるってトコだけな。うししっ」
「すごいベル、分かってる」



私もいつも思うんだ。
人間は誰しもが体の中に、どんなに鮮やかな絵の具よりも綺麗な色の液体を流している、それって凄く神秘的だって。


ベルと気持ちを共有できている事が嬉しくて、彼のすぐ傍まで辿り着いた私は、ナイフを手渡しながら吸い込まれるように彼の隣に腰を下ろした。

常人なら絶対嫌がるであろう血みどろの私でも、ベルは依然口の端を吊り上げたまま受け入れてくれて、あまつさえ私の肩に手を回して体を密着させてきた。
血なんか洗えばいいから気にするな、という解釈をしても良いんだろうか。


「ししっ、ノエル血のニオイ」


いい匂いだと口を歪めるベル。
訂正、ベルは血の匂いが好きだから密着しているらしい。

そんなところまでも愛しいと、如何にも盲目的な事を考えた次の瞬間、私の頭の中である話題が持ち上がった。

それはこの間スクアーロと話した、ベルの誕生日プレゼントの話。

いくら考えてもぴったりする物は見つからないし、だからと言って需要の無いものをあげるのは御免だしで、もう本人に直接聴くしかないだろうなと考えていたんだった。今はその丁度良い機会かもしれない。

そう判断した私は、ゆっくりとした動作で血のこびり付いた手を冷たいベルの頬へと宛行った。



「ねえベル、」
「ししっ、ナニ?」
「誕生日に欲しい物ってある?」
「んー…」



私の質問に顔色も変えず唸るベルに、どんな物でもいいからと付け足す。

暫くしても彼が自分の中で答えを出した様子は見受けられず、やっぱり自分で考えるしかないかと思った矢先、不意にベルがあの耳障りの良い笑い声を立てた。



「しししっ、あんなノエル、」
「え、なに欲しいもの?」
「教えて欲しい?」
「うん」
「、ムリ」
「えー…」



ベルに教えて欲しいかと訊かれた段階で何となくこうなると予想はついていたものの、実際それが真にになると存外落ち込むものだ。
私も例に漏れずそうで、思わず息を吐き出して肩をすぼめずにはいられなかった。

そんな私を一度見やったベルは、予想通りとでも言うように嬉しそうに笑みを漏らしてから再び唇を動かした。ベルが色っぽいから、彼の手のひらで踊らされていることにも目を瞑る事にしようと思う。



「ノエルなら王子の本当に欲しいモン、分かる筈だし」

「本当に欲しいもの…」
「そ。オレが一番に望むモノ」



そう囁いたベルは、私の指に付着する黒へと変色した赤を綺麗な舌でペロリとひと舐めして、骨が砕かれそうなくらいに妖艶な笑みを浮かべた。




To be continued...


(20121215)

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