「た、…っつみ!待って!」

追いかけて追いかけて、足が取れそうになるくらいに走って、やっとの思いで目当ての彼の背中を視界に捉えたのがほんの数秒前。久し振りの全力疾走の所為で私の気持ちに関係なく上下する肩が、この上なく鬱陶しい。そしてジャリ、と砂を踏む音と共に追い掛けていた彼、達海猛が振り返って私を見た。

あれ、お前どしたの?
なんてびっくりした声音で目を丸くしてそう口にする達海。声を掛けた時点で多分コイツは私だと気付いていただろうに、わざと分からなかった振りをするんだから相当の悪魔だと思う、うん。

「どしたのじゃない…!馬鹿!」
「え?俺なんかしたっけ?」
「黙ってイングランド行こうとしてたじゃん!」

仮にも彼女にそれは酷くない?そう言いながら彼に更に歩み寄っていく。
自分でも分かるくらいに険しい表情の私と相反して、達海は困ったような考えているような、えもいわれぬ表情を浮かべてボリボリとブラウンの頭を掻ていた。そのだらしない仕草によって私は、頭はカッとのぼせ上がるような苛立ちを覚えているのに逆に心中では彼にきゅんときているなんていう、可笑しな構造が作られてしまう。

ただ持て余すは両手。
いつの間にか至近距離に来ていた達海の肩を掴むべきか、女の子らしく服の裾をきゅっと掴むべきか、はたまた思い切り腕を伸ばして抱き付いてしまうべきか。
迷っていたら先にモーションを仕掛けられた。前頭部をさわさわと撫でられる。赤くなるなよ私のほっぺた。

「な、なによ」
「んー…、好きだ」
「なっ…」

いきなり何なの達海、そう言おうと肺に酸素を溜めたのに何故か体外に出力する事が出来なかった。達海に唐突に好きだと言われる事なんてもう慣れっこなのに、だ。たぶんそれは今彼が旅立たんとしているって状況とか、ここは空港の入り口付近だとか、そういった色んな要因が絡み合っている所為なんだろう。

ああ、早鐘を打つ心臓にうんざりする。嫌だ嫌だ、私は達海が大好きだって思い知らされるのだから。
そんな事されたら思わず、「海外になんて行かないで」って言ってしまいそうなのに。

ただずっと二人で暖めて来た想いというものは私の思っている以上に、遥かに重い物であるらしく。
気付けば私の頬には、暖かな何かが伝っていっていた。それが涙だと自覚するまでに随分と掛かったのだから、今の私は存外脆い人間となっているに違いない。

「うわ、なに俺なんかした?」
「っ、達海なんてきらい、かおもみたくない」
「ふーん、ま、俺は好きだけど」

また好きって言った。
しかも情けなく泣きじゃくる私の頭を大きな手の平でポンポンと撫でながら、何故か心底嬉しそうに彼特有のニンマリとした笑みを携えて。そんなの、反則だ馬鹿。ここがフィールドだったらレッドカードで即刻退場にしてやるのに。なのに、彼の安心感をくれる手の平を拒む事が出来ない自分がいた。

「やだよ馬鹿、私はきらいだもん」
「多少嫌がられた方が燃えるよな」
「やだへんたい、きらい」
「うん、でも俺は嫌いじゃない」

寧ろ好きなんだよな、っつーよか好き。
好き、好き、好き。達海からの好きを貰う度に、不規則に跳ね上がる鼓動と必死に格闘する。

彼はいつもこうだった。デートの時とか、セックスの時とかには決して好きだ愛してるだなんて甘い言葉は吐かないくせして、何故か突拍子もない場面でサラリと愛の言葉を紡いでくる。私が料理を運んでいる時や、二人でホラー映画を見ている真っ最中なんかがいい例だろう。
そして毎度毎度私は、まるで達海の作戦に見事に引っ掛かったなとばかりにその言葉たちにドキドキさせられてしまうのだ。

現に今も達海に好きだと連呼された所為で、必死に想いを堪えて彼を遠ざけようとしていた筈の私は何時の間にか自分の頭に優しく乗せられている彼の骨張った手をきゅっと掴んでいた。出来ることなら一生この手を離したくない、そんな思いが涙と共に繋がった手の平から伝わればいいなんて自己中な事を願いながら。

「ばか達海、勝手に行くな馬鹿野郎」
「いやほら、会ったら行きたくなくなっちゃうじゃん?」
「知んないよそんなん、」
「わーるかったって、な?」

どうやら私の我が儘な願いは見事天まで、否、達海の脳内まで届いたらしい、その証拠に彼の暖かな手が私の頭から頬へと移動してきた。無論私は未だ、それに自分のちっぽけな手を添えたままだ。
改めてきちんと向き合った達海は、いつものだらしない表情ではなくなっていた。その代わりに彼は、彼にしては珍しい、少し憐憫を帯びた瞳と熱を孕んだ声音を私へと向けて飛ばしてくる。

「うん、悪かった」
「どこが?」
「お前を悲しませたところが」
「許さないって言ったら?」
「あー、それは困るんだよなあ」
「っふ、……達海、すき」
「ニシシ、だと思った」

俺がいねーとダメだもんお前。
今までの真剣な表情はどこへやら、子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべる達海に思わず私の頬の筋肉も緩んでいく。
俺がいねーと駄目って、今からいなくなる人間が言っていい台詞じゃないでしょ。
そんな小さな矛盾は、彼の名誉と気分、そして何より私の涙腺崩壊を防ぐ為に胸中だけで反響させた。

好きで好きで仕方ないのに、離れなきゃいけない。それがどんなに辛い事か分かった。今ようやく分かった。きっと今日からは、今まで安っぽいとバカにしていた悲恋ドラマに大いに共感できるだろう。

「いつまで向こうなの?」
「さあ?現役引退するまでじゃない?」
「は?引退って…、達海前じいさんになるまで現役続けるとか言ってたよね」
「うん」
「じゃあ…、」

もう私達終わりじゃない。
その言葉は飲み込んだ。いや、飲み込んだと言うと語弊があるかもしれない。正しくは、飲み込まなければ崩れてしまいそうでそうする他なかった、だ。

彼はふわふわ浮いているように見えて、その実は驚く程にしっかりした芯を持っている。だから達海は、きっと体力の続く限り現役を続けるに違いない。
でも、でもそれじゃあ。

やばい、涙出てくる。
たまらず達海の視線から逃げるように俯けば、足元に広がる無機質なコンクリートが視界一杯に飛び込んできた。一体この灰色は、どれほどの人達の別れを見送ってきたんだろうか。どれだけの人の涙を吸い取ってきたんだろうか。そんな風に思ったら、もっと耐えられなくなってしまった。心臓も胃も腸も、私の体全てが彼と離れたくないと悲鳴を上げる。
そんな事をしたって無駄なのに、達海がプレミアリーグでプレーする事は決定事項であるのに、私はなんてしつこいんだろう。

ふわり、不意にそんな風に髪を掬われた。
勿論それをしたのは達海だけれど、思いがけない行動に少なからず驚いてしまった私の顔は自然に上がっていく。

「た、つみ…?」
「俺さ、お前を諦める気ないよ?」
「あきらめる?」
「うん。」
「な、なにが…?」
「それはモチロン」

お前をアッチに連れてくことだよ。
頬が上気しそうになるくらいにニヒルな笑みを浮かべて、直ぐにとは言わないけど、なんて歌うように口にする彼。私はあまりの言葉の衝撃に、ただ何も言えず数回瞬きを繰り返す事くらいしか出来なかった。

「つっ、…つまり?」
「え、言わなきゃ分かんないの?」
「わ、分かんない」
「ふーん、じゃあしゃーないな」

きっと達海は、私が分からないフリをしているのに気付いている筈だ。表情がそう語っているもの。それでも二ヒヒと笑って、言葉を紡ぐ。その唇が果てしなく愛しかった。

「決まってるだろ?お前をイギリスに引っ張ってくんだよ」

それで、一生俺のモンにすんだー、って話。
それだけ言ってから、達海は私に小さなリップ音を立ててキスをした。
それを皮切りに、私の周りの世界がせわしなく変化し始める。空港独特の周りの喧騒がだんだん耳に届くようになってきて、時計を見ればもう達海の乗る便の時間に迫ってきていて、彼も「じゃあな」と言って私の頭をポンポンと撫でて。

ああ、一度さようなら。
暫くは達海と、お別れなんだね。
そう思ったら、たとえ直前に甘い台詞を貰っていようともやっぱり涙が出てきそうになった。でも、絶対に私は達海のところに還ろう、と思う。

願わくば今、私の心臓と感情だけは一緒にイギリスに連れて行ってね。ここで一旦、終わりだけれど。
ポロリと零れた透明な雫を手の平に感じた時には、もう彼の背中は大き過ぎる空港の入り口に吸い込まれて見えなくなっていた。



さよなら、私の心の臓


(20120227)
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