今日こそ駄目、目眩がする。会社休もう、うんそうしよう、今日は寝てよう。きっと上司も怒らないよ、だって体調不良ですもの。あ、しかもお腹も痛くなってきた、こりゃ本格的に仕事なんてできないな。さあ会社に電話を入れよう!

って、出来たらどんなに楽なんだろう。
はあ、とため息を吐き出して布団から出る。ベッドの端に座って大きく伸びをしながら、手近なもこもこ靴下を履いていく。

連日の残業が祟ってなのか、前述の通り体調は最悪だ。それは嘘ではない。嘘ではないけど、そんなの通用するような社会でもない。社会人ってそういうものだ。死にたいくらいストレスフルな仕事をこなして、家に帰って寝て、吐きそうになりながらまた仕事をして。我ながら馬鹿みたい、でも、その「馬鹿」をしないと生活が出来ない。つまり、これがまさしく労働の対価としてお金を稼ぐということ、なのだろう。

眠い目をこすってテレビをつけると、朝の情報番組が流れていた。今日もお天気コーナーのお姉さんは早朝から綺麗な服を着てハキハキと喋っている。お姉さんのこれも仕事。この人は、毎日こんなに朝早く起きて他人の目を気にする仕事をして疲れてはいないんだろうか。
左上には優しい黄色で5時58分と表示されていた。
毎日思うけど、ストレス貯めにいくのになんで私もこんなに早起きなんだか。そう思って、早くも本日2度目のため息が勝手に出て行こうとしたその時だった。
ぐわ、と、後ろからもの凄い力で引き寄せられた。


「わ、十文字くん?」
「…ねみぃ」


否、抱き寄せられた、と言うべきか。
ベッドのマットレスに再び体が沈む音を聞きながら、首を捻って後ろから私に腕を回してきた人物を見やる。ほぼ半目の彼と目があったのは、完全に私の体が布団の中に収まってからだった。彼はわたしと目が合ったことをぼんやりした視界の中で感じ取ったのか、欠伸を噛み殺してからより一層腕に力を込めてきた。


「…どうしたの?」
「行くな」
「それは無理だよ。お仕事です。」


どんなに大好きな彼氏くんの頼みでもね、と少し茶目っ気を含めて口に出す。すると目の前の彼氏くんは、不機嫌そうに眉根を寄せてこちらを睨んできた。全く、これだからお子様は困る。心の中だけでそう独りごちてから、ゆっくりと自分の胸骨のあたりに回された腕をほどこうと力を入れる。


「…ん、あ、ん?」


ほどけない。力を入れたはいいものの、どうにもこうにも彼の腕力の方が強くて一向に解けそうになかった。体ごと振り返って彼を見やれば、まだ不機嫌そうに頬袋を膨らませていた。


「ねえ、ちょっと、離して」
「ヤダ」
「はい?仕事だから仕方ないでしょ、起こしちゃったのは謝るからそんな不機嫌な顔しないで大学生は二度寝する!ほら!お休み」


そう言い切ってから十文字の頭をわしゃわしゃ撫でると、彼はそれが気に入らなかったのか益々不機嫌な、この世を終わりにさせてやろうかくらいの鋭い眼差しで私を射殺そうとしてきた。一体何がそんなに気に入らないのか。彼は大学生にしては頭も良くて物分かりが良い、スポーツ青年なはずなのだけれども、今日はすこぶる聞き分けがない。


「あのねえ、十文字くん、」
「休んじまえよ」
「はい?」
「休めばいいじゃねえか、仕事」
「…馬鹿言わないで」


それが出来たら苦労しないわよ。
思わず、言う予定のなかった台詞が口をついた。十文字くんは既にあの眠そうな半目とは決別して、今は至極真剣な表情でこちらを見据えていた。あのね、と彼を諭そうと再び空気を吸ったが、私より先に彼が言葉を発したのでその空気はごくりと喉を通って私の胃の底へと落ちていく。


「最近、うまくいってないんだろ」
「何が」
「仕事。ここ最近ため息多いし、帰ってくんの遅いし、酒も控えるようになったし。何でそんなに嫌な仕事やってんだよ」
「お金のため、生活のためでしょ」
「生活の為って言ってもそう嫌々仕事してちゃ意味ねえだろ」
「ない訳ないでしょ!」


社会に出たこともない学生が偉そうに口を挟まないで、と、あと一歩で勢いとともに言ってしまいそうな言葉をギリギリ舌で踏み止める。いつのまにか緩まっていた彼の腕から乱暴に抜け出して、ベッドの上に座り込んだ。

やめてほしい。職場だけじゃなくて自分の家でまで追い詰められたら、本当に頭がおかしくなってしまうと、本気で思った。どんな思いで私が仕事をしていると思ってるのだろう。

仕事は遊びじゃない。だから一生懸命やってるつもりだ。逃げてしまいたいほど仕事が山積みで、休んでしまいたいほどクライアントから怒られて、死んでしまいたいほど意地悪な上司がたくさんいる仕事でも、それを職場に選んでしまったのは私だし、第一私が今仕事を投げ出したらプロジェクトはどうなるの。それでどれだけの損失が考えられるか。頭が痛くなる。
そうだ、頭が痛くなるほどの損失なのだ。だから、私は。


「私は…。休めない、よ」
「あのなあ、お前は仕事が大事かもしれないけど、俺から見たら、仕事にお前が壊される方が大問題なんだよ。毎日死にそうな顔して、死期早めるために仕事してんじゃねえただろ。」
「でも…」


反語の先がうまく出てこない。何も言えずにいると、私の体重を支えているベッドが軋む音がして、伏せていた睫毛をあげる。十文字君が上体を起こして、私の正面に座り直しているところだった。


「正義感が強いのは知ってる」
「…」
「任された仕事を途中で投げ出すようなやつじゃないのも知ってる」
「…」
「でも、弱いだろ。本来は守られる存在だからな、俺に」
「何言って」
「ごめんな」


突然の謝罪を口にした十文字君は、眉尻を少しだけ下げて、何故か悲しそうな目をしていた。それを見たら私もなぜか、胸が締め付けられるような感覚に陥る。

大好きな彼を、こんな寂しそうな顔にさせる為に働いているのではないのに。
じゃあ私は何の為に働いているのだろう。さっき言った、お金や生活の為?それはそうだ。でも、それ以外の目的はないのだろうか。今の私は自分の骨を削って内臓を吐きながら生活しているみたいなものだ。そんな生活の為に仕事?何か矛盾してる気がする。

考えれば考えるほど、思考回路の溝にはまってしまうようで、頭が今にも割れそうだと思った。目の前では、そんな私を哀れむように、目を細めた十文字くんの金髪が本日最初の朝日を受けてキラキラと光っている。


「なんで十文字くんが謝るの。」


やっとの思いで乾いた唇を動かして問いかけた。彼は、分からないのかと言って私を咎めるでもなく、かと言って分からない私を当たり前とも思っていないような目をして、一つ大きくため息をついた。


「言っただろ、本来は俺に守られる存在だからって。なのに、今は守ってやらなくてごめん」
「どういうこと、全然意味がわからない」
「はっ、お前頭はいいのにこういうのには疎いよな。」
「なっ…」


なんて酷いことを言うのだ。頭に血が上って反論するより早く、十文字くんの逞しい腕が私の背中に回された。大人しく抱き寄せられるのも癪で、少し力を入れて抵抗を試みてはみるものの、流石日々のアメフト部の練習で鍛えているからか、それともこれがもともとの男女差という奴なのかは分からなかったけど、兎に角彼の腕はびくともしなかった。そのまま、ぎゅ、と擬音が付きそうなほどしっかりと抱き締められる。彼のお家の洗剤のいい匂いがした。
少し前に胃の中へ押し込まれた空気が、霧散して消えていくような気持ちになった。


「なに」
「俺、大学卒業するまでにアメフトで結果出せなかったら、就職する」
「うん」
「ちゃんと働いて、お前がこんなに辛そうな顔で出勤しなくていいように、養うから。」
「…うん」
「だから、それまで無理すんな。お願いだから、休めよ」


そう口にした十文字くんの表情は、まるで大会で負けた時みたいに悔しそうに曲がっていて。私なんかの事を考えてそう言ってくれているのが嫌が応にも伝わってきて、心臓の核の部分に針が刺さったみたいにずきずきと痛んだ。彼の言わんとしている事、気持ちは分かった。大切にされているのだということも十分感じられた。それでも、すぐにうんと返答することが出来ない。ごめんね。私こそ、意地っ張りで頑固なのに弱くてごめんね。


「…今日は会社に行く」
「お前なぁ、」
「でも!今日、いつもより20分くらい早起きしたから、今から20分、いちゃいちゃしよう」
「そんなんで良いのかよ」
「今はね、取り敢えず。私が今日仕事中に迷走神経反射起こして倒れないように十文字くんチャージしとく」


しっかりと言い切れば、十文字君は黙ってうーんと考える素振りを見せた。彼の優しさとか、私を好きだと思ってくれてる気持ちは本当に十二分に分かったしすごく嬉しい。それだけで頑張れそうだとも思った。そして同時に、私はこの人の笑顔の為に仕事をすれば良いのだと思い当たった。単なる生活の為じゃなく、笑顔で十文字君と生活する為。そう思えば、私が血反吐を吐いて仕事をするのにも華やぐ香りの意味がある気がしてきた。


「あと、十文字くん水曜と木曜全休だったよね?今週そこで有給とる。一緒にいれるかな?」
「アメフト部の練習…はあるけど、サボれるな」
「それは駄目、練習は出なさい。じゃあ夜ご飯だけとかでも良いから、どっか出かけよう。」
「…おう。なんだ、急にやる気出して」


拍子抜けしたような彼を尻目に、くすりと微笑んでみてからテレビのリモコンを手に取る。いつの間にか今週のニュースコーナーになっていた色とりどりの画面の左上には、6時9分が変わらぬ黄色で踊っていた。あ、もう、11分も時間を無駄にしちゃった!


「早く養ってもらえるように、私も本気で結婚資金貯めなきゃって思ったらやる気の一つや二つ、出るでしょ」


そう言ってもう一度微笑んで見せると、彼の耳朶が一気に赤みを帯びて行くのがみて取れた。結婚とか、そんなつもりで、まあ、言ったは言ったんだけど…。と言葉尻を濁しながらしどろもどろする金髪に、胃の底から好きが一直線に駆け上がってくるのが分かる。

甘い感情に耐えきれず、ものすごい勢いで十文字君をシーツの海へ己もろとも引き摺り混む。図らずもラリアットするみたいな形になってしまったが、そんなの今は全然気にならなかった。十文字くんの分厚い胸板におでこを擦り寄せて、文字通り猫みたいに喉を鳴らすと、刺すような早朝の空気も幾分か柔らかくなっていく。そんな私を見た彼の目尻がとても温かく降りるのを視界の端で感じ取りながら、あと9分間、どうやって彼をチャージしようかぐるぐる思考を巡らせた。

ああ、未来の旦那様、あと二年間くらいならどうにか頑張ってお仕事するから。だから早く、ダンディでスーツの似合う十文字一輝になってね!


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5年半振りの更新なのでリハビリと思って許してください。アイシはひるまもが好きです。
(20190121)


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