「おい、ふざけるなよ」


まさに開口一番、というやつだった。何時ものように開けた扉の向こう側に仁王立ちしていた鉢屋が、私の顔を見るなりそんな言葉を放ったのは。

何故私の部屋の扉の外で待機していたのか、とか、そもそもどうやってくのたま長屋に入ったのか、とか、そんな疑問を投げ掛ける隙も何もなく、ただ刮目した。なんせ、私自身としてはそのような事を言われるような失態を犯した記憶はないし、何よりあの温厚な不破くんの顔で、こんなにもふてぶてしいものがあって良いのかと思う程の表情だったからだ。

何時もは澄ましたような表情を浮かべる鉢屋だというのに、一体何が有ったというのか。静かに二度、睫毛をパチパチと上下させると、心なしかチリチリと焦げているように感じられる空気が目に染みた。


「ふざけてない、けど?」
「嘘つけ」
「何が?」
「分かっててやってるんだろう」
「だから、何を?」


少しだけ語気を荒げて声に出した私の言葉を、目の前で私の行く手を塞ぐ重たそうな瞼をした忍たまは渋い表情で受け取った。それから眉間にきゅっとシワを寄せ、唇を小さく窄める。何だか駄々っ子のようだ、と思ったものの口にはしなかった。いや、口には出来なかった、と言うべきか。いま気の触る事を言おうものなら、全身の毛が逆立つくらいに不機嫌になるだろう事は承知していたから。

その代わり、ひと掬い分の吐息を足元へとゆっくり落としてから、鉢屋の顔を覗き込む。そのままこてんと小首を傾げると、斜め下に視線を置いていた彼と当たり前のように目が合った。


「…本当は知っているくせにタチが悪い」
「知らないってば。私何もしてないもん」
「正気か?」
「正気のつもりだけども」
「…呆れた」


真顔で返答した私に鉢屋が寄越したのは、仰々しいと言えるくらいに大きな溜息だった。呆れた、なんて言われても全く事態が飲み込めないし、良い気分にもならない。寧ろ流石の私でも、苛立ちに似た感情を覚えずにはいられなかった。当たり前だろう、見に覚えのない、皆目検討の付かない事を言われて、勝手に呆れさえ抱かれているのだ。これで腹が立たない方がどうかしている。

何か、何でもいいから言い返してやろうと、肺腑に思い切りに息を溜めたその瞬間。まるでそんな私の口蓋を塞ぐかのように、鉢屋の澄んだ声音が空気をぶるりと振動させた。お前は勘右衛門の気持ちを知らないのか。と。余りに切々とした口調だった為か、思わずおかしな短音を上げてしまった。

尾浜の、気持ち?何故いまここで、尾浜が出てくるのだろう。鉢屋の考えている事は見当も付かない。別に私は人より感情に疎いという訳でもないと思うのだが、鉢屋は尾浜が私に何か特別な感情を持ち合わせているとでも言いたいのだろうか。記憶にある限りでは、思い当たる節は皆無なのだけれど。

ううん、と更に首を捻った私とは相対するように、鉢屋は益々不機嫌そうに、表情を硬直させていた。同じ学級委員の仲間だろうに、何がそんなに気に入らないのやら。
すう、と、一度だけ静かに息を吸う。生暖かい空気が肺に満ち満ちてゆくのがそこはかとなく感じられて、何だか少し、気持ちが悪い。


「知らないよ、分からない」


だって他人だもの、とあえて歌うように流れ良く口にすれば、鉢屋は一度驚いたように目を見開いてから、再び面倒くさそうに肩を落とした。まるで私には飽き飽きだとでも言わんばかりの仕草に少しも胸が痛まなかったと言えば嘘になるけれど、鉢屋からのこの視線は慣れっこであるし、何より彼の行動はもしや、と考えたらそんな些細な痛みは何処かに飛んでいってしまった。私も大概に馬鹿である。けれど、まあ、それはもう治し様のない事だ。


「なまえは赤子か?」
「は、何で?」
「知らない知らない、何を聞いても知らないばかり。無知とはお前の為にある言葉みたいじゃないか」
「酷い言い様だなあ」
「事実だろ」


さらりと、何を悪びれるでもなく失言を落としてゆく鉢屋の、綺麗に通った鼻筋から眉間にかけてをじっと見つめてみる。結局のところ尾浜は何なのかと問うてみれば、彼はその目頭をくしゃっと潰してから苦々しく口を開いた。


「男だろう、あいつも」


ぼわり、と、そんなおかしな音を立てて、心臓のあたりが熱を帯びた気がした。それが今さっきまでは予想でしかなかったことが、確信に変わってゆく音だという事に気付いたのは静かに一度深呼吸をしてからの事だった。肺に入ってきた生温い酸素が、私の血液と一緒にぐるぐると体内を回って侵食しているみたいだ。うん、確かに、男だ。尾浜も鉢屋と同じ性別の人間だ。でも、でも。


「尾浜は、鉢屋とは違うよ」
「何でそう言い切れるんだお前は」
「え、だって」
「だって?」
「私が抱いてる思いが、全く違う色のものだもの」


嘘でなく、本物の、心臓の底に溜まっている言葉を吐き出す。鉢屋の頬に仄かに紅が刺すのをしかと見届けてから、寝巻きの袖を握りふわりと口角を上げた。普段は表情を余り崩さない鉢屋が、明らかに慌ててあからさまに視線を泳がせる様は何だか新鮮で、それと同時に何だかとても、愛おしく感じられて。

思わず声を上げて笑う私の目の前で、鉢屋は恨めしげな唸り声をぽろりと零す。けれど彼の口許は僅かとは言えど震えているから、きっと、きっと、ほんの少しは、小指の先くらいは喜んでいてくれるのだろう。いや、嬉しいと思っていてくれているのだ、と思いたい。袖にシワがついてしまう事なんてお構いなしに強く握り締めた冷めた紺色の絹が、手のひらの中で脈を打っているような気がした。まるで私の心臓みたい、なんて、一体何時から私は恋煩いで姦しい町娘のような思考が働くようになったのだろうか。


「…聞いた私が馬鹿だったか」
「うん、そうかもしれない」
「くそ、何だかムカつくな」
「でも、鉢屋が不破君から離れられないのと同じで、私が鉢屋から離れられないのなんて分かっていた事でしょう?」


何故か、理由は分からないけれど、私は心底この人の魅力に捕らわれている。もしかしたら、他人の顔を完璧に借りて、自分の素を滅多に見せようとはしない彼の、不意に浮かべる鮮やかな表情に心を持っていかれてしまっているのかもしれない。けれど、詳しくは分からない。分からないけれど、やっぱり彼は、私の中では他の誰にも替えの効かない存在なのだ。

今一度のんびりと顔を上げると、私よりも一回りも二回りも大きな体で、照れ隠しのように眉間を押さえる鉢屋と、それからその向こう側に広がる青空とが待ち兼ねたように視界に飛び込んでくる。ああ、今日は晴れか。今更そんな事実に気付きながら、寝癖でくしゃくしゃになった長い髪を右手で梳いてみた。お腹を擽る朝食の匂いが、ゆったりゆったりと漂ってくる。どうやら今日は焼き魚が出るらしい。


「なまえ」
「ん?」
「…一応、心配した」
「…うん、知ってる」


ありがとう、と、朝日に負けないように微笑む。どうしてお前は何も知らないクセに、そういう事は知ってるんだ。呆れを全面に押し出した鉢屋の声音を鼓膜のもっともっと奥の方で受け止めながら、大袈裟な動きで伸びをした。
別に何も知らない訳じゃない。ただ、君の事だけなら大概は分かるんだ。なんて、絶対にそんな事は口に出してなんかあげないけど。


「察せよ、な」


肌に纏わり付くように生温かいと思っていていた空気が、何時の間にか美味しいものに変わっていた。



青いそいつの秘密


(大好きなうかへ)
(title:シンガロン)(20130710)

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