先輩、と声に出して彼女の事を呼ぶ。一歩間違えば吐き気を覚えるようなはしたない性の匂いが立ち込める部屋の中、彼女はまるで猫のように大きく伸びをして、それから小さく目尻を下げた。その白すぎる肌は、薄暗がりの中でもそのきめ細やかさを感じさせるに十分で。俺はまた、ほんの僅かに息を吐いた。


「なあに?どうかした?」
「いや…何時までもそんな格好でいると、風邪ひきますよ」
「ああー、うん」
「はは、聞く気無しですか」


絵に描いたような生返事に苦笑すると同時に、彼女の肩まできっちり掛かっていた布団がするりと、音もなく落ちてゆく。

綺麗だと、柄にもなく思った。俺と先輩はそういう間柄ではないのに、どうしようもなく美しいと、閉じ込めてしまいたいとさえ、どこか霞んだ脳内でぼんやりと考えた。何故だろうか、なんて、それは分からない。いや、分からない事にしておく、と言った方が正しいのか。ただ、どちらにせよ、俺と彼女の付き合いが世間一般に受け入れられるものでないこと位は、分かっている、つもりだ。


「兵助くん?」


どうやら、一人思考の渦に巻き込まれてしまっていたらしい。ぼうっとしていた俺を放漫な動作で覗き込んできた先輩に、思わずビクリと肩が揺れた。情けなくはあるが、突然だったのだから仕方ないだろう。

はぁ、と一度大きく肩で息をしている間にも、彼女は忙しなく瞼を上下させて小首を傾げている。恐らく俺の反応が物珍しく、その理由でも考えているんだろう。全く、どこまでも奔放なひとである。


「どうしたの、今日何かあるの?」
「いや、別に」
「落ち着かないなぁ」
「すみません」
「いや、私は良いんだよ。だって私は、」


兵助くんの時間を無為に奪っているだけだから。

ほんの少しだけ、寂しそうに目を伏せて。そうやって紡がれた言葉が、俺の喉元にぐいと食い込んできた。否定も出来ず、肯定も出来ず、ただ気管が塞がれたかのように黙して、彼女が遣る瀬の無い微笑みを浮かべるのを見送る。

自嘲壁、とまではいかないかもしれないが、先輩には自分を卑下する所がある。しかもなお悪い事には、その卑下は決して誇張され、謙遜じみたものではなくて、本当にどこまでも愚直な彼女の本音なのだ。だから、安易に声など出ない。いや、出せないのだ。それに彼女の隣りにいる資格など持ってはいない俺が、あまり踏み込んでいいはずもない。お互いがお互いに干渉しない、ただ欲を満たして、足り無いものを補うだけの関係。それが俺たちだ。初めて彼女と夜を過ごした時に、約束した、動かす事の出来ない関係。


「あ、そう言えばね」
「はい」
「長屋の庭の隅に、漸く紫陽花が咲いたの」
「紫陽花、ですか。もう梅雨か…」
「そうね、雨の季節」


でも、何故か、自分はだんだん彼女に依存していっている。それは最近、ひしひしと感じている事だった。
先輩が視界の端に映れば自然と目で追い、微笑めば自分の口許まで綻ぶのを感じ、上の空でいられると急速に不安に襲われる。まるで中毒のような感情に、一番嫌気がさしているのは俺自身である訳なのだが、だからと言って抜けられはしない。

ただ、この感情は慕情ではない。否、慕情であって良いはずがない。俺のような人間が、先輩に、三郎と同じ感情を抱いていい筈が。


ふと、窓の外が段々に白んでゆくのを感じて、一度だけ静かに目を閉じた。瞼の裏側で、詰まらない虚無感と彼女の白い肌が残像のようにゆらゆら揺れる。諦めることが出来る内に、引き返せば良かったのにな。今更過ぎる後悔を浮かべても、何の役にも立ちはしなかった。


「罪なひとですね」
「え?」
「…いや、何でもないです」
「そう、うん、ああ、そうだ」
「はい」
「紫陽花、今年も兵助君と一緒に見れたらいいね」


思わず目を見開いた先に存在する、余りにも美しい白色をした彼女は、果たしてその心の中で何を考えているのだろうか。俺の事を、ほんの少しでも思い浮かべてくれているのだろうか。

幾ら考えたって到底分かりやしない事を脳裏にぐるぐると巡らせながら、ゆっくりゆっくり息を吐く。何時もと何ら変わらぬ笑顔を顔に貼り付けている先輩は、きっと、世界で一番にずるい人だ。すう、と、まるで何かの敵を構えるかのように一気に肺に酸素を取り入れて、それから、笑った。


「はい。俺も、先輩と見たいです」


深入りしたのは俺の責任。でも、深入りさせたのは紛れもなく彼女自身だ。どちらが悪いだなんて言えないけれど、どうしたって考えてしまう事がある。先輩、もしこの関係を止めようと言ったなら、あなたはどんな顔で微笑むのですか?









*************
久々知とは「都合の良い関係」な予定が案外久々知が健気になっててもうなんかもう。

(title:ノイズレコード)
(20130528)

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