先輩、と、彼女を呼ぶ声は自然と大きくなってしまった。慌てて口元を抑えてみるも、一度振動となって空気に触れてしまった物がどうなる訳でもなく、くるりとこちらを振り返った彼女の笑顔だけが、妙に色濃く網膜に入り込んできた。 「鉢屋くん、こんにちは」 「はい」 「あれ、忍装束じゃないんだね。どうしたの?お出掛け?」 絵に描いたような柔らかい笑顔を浮かべる彼女、なまえ先輩はくのたま内ではかなり優秀な生徒らしい。一見そうは見えないが、苦無の扱いは忍たまの六年生にも勝るとも劣らないと聞いた事がある。それなのに、この気の抜けたような微笑み。 嬉しいような困ったような、複雑な感情に焼かれて苦笑いを浮かべると、先輩は不思議そうな顔で小首を傾げた。うざったく思えるくらいに眩しい陽光に晒された先輩の白い肌が、キラキラと細かな光を反射する。綺麗だ。まるで顔料を塗られた陶器のようだ、と、何故か面白くも何ともない例えが頭に浮かんだ。 「今日は街へ買い物に出ようと思って」 「そう。何を買いに行くの?」 「女装用の紅や白粉を」 「へえ…ああ、前から疑問に思っていたのだけれどね、」 「はい?」 女装や変装で使う化粧道具は、矢張り「想い人に贈る」と言って買うものなの? 先輩はそう興味深げに問い掛けると、私の私服を改めてまじまじと見詰め始めた。何とは無しにこそばゆく、擽ったい気持ちになったがそれは見て見ぬフリを決め込んで、静かにううん、と唸りを上げる。たっぷり三秒の間を貰ってから、大体は贈り物と誤魔化すと答えれば、先輩は嬉しそうに眉尻を斜め下に下げた。 「やっぱりね。大変だね、忍たまも」 「私は女装して買いに行く事もありますけれどね」 「ああ、その手もあるね」 「はい。ところで先輩、」 「なあに?」 「私からもひとつ質問して良いですか?」 彼女の艶やかな黒髪が、ひと掬いだけ風に攫われ、存分に窒素を孕んだ。その様子にじっと目を向けながら、勿論だと笑顔で快諾した先輩に向かって静かに口蓋を震わせる。 「何故、先輩は私が雷蔵ではないとお分かりに?」 先程から疑問に思っていた事を尋ねると、彼女の表情がふんわりと綻ぶ。弟に算術を教えるようなその表情に、少しだけ、心が痛んだ。 彼女は私を、見ていない。 それは大分前から分かっていたことだ。私が彼女に、所謂慕情というものを抱くようになってから、何度も感じていた事。先輩は何時だって、私でなく、どこか違う方向を見ている。私に近い場所にあって、私から一番遠い場所にある人物の方向を。 それが堪らなく悔しくて、私は更に、稚拙ともとれるような嫉妬心に駆り立てられるのだ。今だって、何で私を見てくれないのだと、叫びたい気持ちがふつふつと湧き上がってきていると言うのに。 「ふふ、当たり前でしょう?だって雷蔵君は私の名前をあんなに大きな声で呼び止めないし、何より彼は必ず、なまえ先輩と言うもの」 柔らかい笑顔のまま紡がれた言葉に、静かに、ただし強かさを秘めて、彼女への思いが落ち着いてゆくのを感じた。 見ていてくれていない、訳ではないのだ。ただ、彼女は私が思っていたより不器用で、本当に欲しいものに対しては素顔を晒せないだけなのだ。きっと、その者に対しても先輩は、私に向けるのと同じような微笑みを向けてしまうに違いない。その奥底に隠した気持ちなど、おくびにも出さずに。何て不器用で、なんと美しい生き方なんだろうか。 妙な感動を覚えて、大仰なまでに深呼吸をする。何より柔らかく、何より寂しい瞳でこちらをしかと見据えている先輩を、抱き締めてしまいたい衝動に駆られた。無論駆られただけであって、実行に移しはしなかったが。結局あれだ、私も相当に臆病なんだろうな。なんて。 「そうでしたか。失礼しました」 「いえいえ、全然」 「先輩」 先輩、なまえ先輩。あなたが無理して笑う度に、私はいつも胸が苦しくなるのです。けれどきっと、彼奴は可笑しなところで馬鹿だから、先輩の笑顔をそのまま鵜呑みにしてしまうんでしょうね。皆が一様に、それぞれ気付かないなんて、なんて滑稽で寂しい事でしょう。 声には決して出せない思いが、気管の端まで詰まって身動きが取れなくなる。彼女に恋慕の情を抱いているのだと、改めて喉元に突き付けられた気分だった。 「遠慮という文字を捨てないと、きっと、後悔しますよ」 にこりと、精一杯の笑顔を携えて。呆けたような表情を浮かべた彼女に小さく会釈をしてから、ゆっくりと背を向けた。私もつくづく馬鹿な人間である。想い人の恋を、応援しようとするだなんて。 不意に、涙腺が圧迫される感覚を覚えた。けれどそれは気の所為だと自分自身に言い聞かせて、音もなく足を踏み出す。じゃりじゃりと、乾いた砂を踏む音が無遠慮に鼓膜を叩く。憎らしい事に、今日は快晴だ。 泣いてしまいなさい ************** 鉢屋は先輩に片想いしています。素敵設定。久々知と併せてどうぞ。 (title:ノイズレコード) (20130528) |