四畳半からはじまる世界


彼は自分の行動を正義だと言う。少しだけ寂しそうな瞳で、心臓に詰まった言葉に気付かない為にも自嘲気味に笑う。
私はそれをただ、藺草の上で静かに受け止めていた。

彼が正義だと言うのなら、きっとわたしは悪なのだろう。
この脆弱な人間というものが肺に取り込むのが酸素で、排出するのが二酸化炭素であるのと同じように、わたしと彼とは対極のもの。いや、対極にいて然るべきものなのだ。だから、彼が正義ならわたしが悪で、彼が白ならわたしが黒。これは当然の道理なのである。


「ん?どうしたんだい」


正義だの悪だのとけったいな事をぼやぼや考えていると、正面で背筋を伸ばし正座をする彼、名取がわたしに向かって柔らかく声を投げ掛けてきた。それに対して真面目に答えるでもなく、ううん少しだけ考え事、と目線を宙に遊ばせながら言葉を紡ぐ。障子紙をいとも簡単に越えて名取の身体を貫く夕焼けの赤さが目に毒だと思った。綺麗だけれど、やはり。矢張り名取には、どこか毒々しい雰囲気がある。


「…名取は、ほんとうに白いの?」
「は?」
「前に言ってたでしょ。人は白だけど妖は黒いって。だから自分は妖を祓うんだって」
「…ああ、そうだっけ」


詰まらなそうな表情で生返事をする名取。それが不思議でならなくて彼をじっと見詰めると、何故か呆れに近い吐息の混ざった溜め息を零された。おかしい、だってわたしは名取の言葉をそのまま復元したに過ぎないのに、こんなにも冷めた顔をするだなんて。素直に小首を傾げて見せると、何故か彼の口からは再び溜め息が落ちていった。


「…そうだよ。でも」
「でも?」
「最近はまた、逆じゃないかとも思うようになってしまったりしてね」
「逆…」


ぎゃく。それはつまり、本当は名取は黒くて、わたしが白いという事だろうか。何故だろう。

身に纏っている衣服が白いから、という事くらいしか理由としては頭に浮かんでこない。が、しかしこの名取のことだ。恐らくそんな単純かつ稚拙な答えではないのだろう。もっとこう、わたしには考えも付かないような思いが、名取の心臓には纏わりついているに違いないのだ。

それが寂しくない、と言ったら嘘になる。嘘になるが、深く追求しようとも思えない。だってきっと、そんな風にしたら面倒臭い奴として捨てられてしまうから。
そう考えたら、至って自然に、自分自身に対しての嘲笑が浮かんできた。わたしが眉尻を下げたのを怪訝な表情で見詰める名取の睫毛から、色の濃い陰が沈んでゆく。
拾われてすらいないのに、捨てられると思うだなんて、ね。


「どうした?」
「ううん、ただ少し、遣る瀬無いと思った」
「…何を」
「名取が、何時まで経ってもわたしの事を見てくれないことを」
「……」


黙り込んだ名取を横目で確認しながら、彼に気付かれないように小さく息を吐く。

我ながら意地の悪い事を口にしたと思う。名取を困らせたい訳ではないのに、心の隅で彼が頭を抱えればいいと考えてしまう自分もいて、そんな相反する二つを持て余してしまうことに嫌悪感を抱いた。再び名取を見やれば、今度は何か言いたげな様子で俯いている。

瞬間、何故か次に彼から出て来るであろう言葉を聞きたくないと、そう思った。もしかしたら人間お得意の直感、というやつなのかもしれない。だから、わたしは、彼の口蓋を無理矢理縫い付けるように「嘘よ、そんな事思ってない」と声を発した。


「…嘘、か」
「ええ。ごめんなさい」
「謝るのは、本来なら私の方なのにな」
「え?」
「…お前に、こんなに気を遣わせてしまって」
「…名取、」


そんなに辛そうな顔をしないで、とは言ってあげられなかった。分かっているのだ。その「辛そうな」顔をさせているのは他の誰でもなく、わたしであるという事を。自分の無力さには呆れるばかりだ。
にも関わらず、慰めの代用として自然とわたしの口を吐いたのは、やはり彼を苦しめるものたちだった。


「式にしてくれればいいのに」


ぽつり、と零れたその使い古された台詞を、果たして名取はどんな気持ちで受け取ったのだろう。わたしにはどうしたって分からないが、ただ名取の心臓がより一層に締め付られた事はわかる。

それを証拠付けるかのように、名取は一瞬で苦い表情をより濃くして斜め下に視線を移した。きゅっと寄った眉根が、いつもとは違う固い面持ちを際立たせる。なんだか、俳優とかいう変な芝居の仕事をしている時の名取みたいに思えた。

不意に、名取の腕がわたしに向かって伸びてきた。拒むこともせず、ただ無言でそれを受け入れれば、表情とは正反対の柔らかな手付きで頬に手のひらを添えられる。わたしの数倍は暖かかった。悔しい。わたしは、彼をあたたかくしてあげられないのに。なのに何故何時も、彼はわたしに自分の体温を分け与えてくれるのだろう。考えたら、瞼の裏がじんと痛んだ。


「すまないな、私が不甲斐ないばかりに」
「なとり、わたしは」
「出来ないんだ。」
「……」
「私にはどうしても、お前を式にする事は出来ないんだ」
「…知って、いる」
「こんな事を言うなんて祓い屋失格なのは分かってる。だが」


お前を、道具として扱うだなんて、私には到底耐えられる筈もないんだ。
酷く悲しそうな顔で言い切った名取から伸びている腕は、小刻みに震えていた。

悲しい、嬉しい、切ない、狡い、苦しい、好きだ好きだ好きだ。
決して声には出せない不安定な感情たちが、名前を付けてもらう為にわたしの気管で列を成して蹲る。涙は意志とは関係なく流れ出る物なのだと、初めて知った。

名取、あのね、妖は濡れても風邪はひかないし、人間よりもずっと長く生きてるから達観している所もあるし、何よりわたしは臆病で自分が嫌いな貴方を守ってあげたいのだ、本当は。けれど、名取はそうではないのだね。
名取はわたしが大切だからこそ、わたしを式にはしない。仕事の時はわたしとは会わない。わたしが怪我をすると馬鹿みたいに大仰な手当をする。この畳の上の狭い世界で、きっとわたし達の世界はこれからも形を変えはしないだろう。

だから、やはり、名取は誰よりも白い。人一倍辛い思いをして生きてきて、人一倍黒く染まれるのに、やっぱり辛くて白い道を選択してしまう名取は。そしてわたしは、そんな彼がどうしようもなく好きなのだ。

頬に添えられた名取の大きな手のひらを、わたしの小さなそれで包み込んで静かに目を瞑る。彼が息を詰めたのが分かった。このまま時が止まってしまえばいいのに。何とも幼稚なその思いは、名取の睫毛の間から指す光にゆっくりと溶けてゆく。


「名取は、きっと正しい」


だって正義だもの、と、悪であるわたしは愛おしい彼の額に口を付けながら、さめざめと泣いた。藺草の匂いが鼻腔を刺す、午後三時のことだった。



四畳半からはじまる世界
(月と六ペンスさまに提出)
(20130319)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -