「こんばんは、シンドバッド」
「ああなまえ、待ってたぞ」
「へえ。それは私でもシンドバッドを焦らせる、ってこと?」
「勿論だ。お前は今日も美しい」
「口だけ達者になったよね、ほんと」


人間は愛を乞う生き物だ、と思う。
それは女であろうが男であろうが同じ事で、私たちは何時だって変わらぬ愛を、自分だけに向けられた不変の愛情を求めて囁き合う。ただそれが全て正当化されるかと言えば、そういう訳にもいかなくて。そして私たち二人はきっと、そんな正当化されない恋愛をしている代表格みたいなものなのだろう。

本来なら決して交わってはいけないであろう私とシンドバッド王。けれど私はやはり愛情を乞うてしまう愚かな人間だから、今日もこうやって彼の骨張った首筋に腕を回して、逞しい胸板に頬擦りをする。シンドバッドもシンドバッドで、手慣れた手付きでそんな私の頭を優しく撫でるからいけないのだ。だから、また、抜け出せなくなる。


「ほらなまえ、顔を上げてくれ」
「嫌。上げたらキスするでしょ」
「当たり前だろう。何で嫌がる」
「今日はアンタ酒臭いから、絶対いや」


両頬を包み込んでくるシンドバッドの手の平に逆らうように深く俯けば、上からはまいったなぁの声が零れ落ちてきた。
シンドバッドは好きだけれど、酒宴を終えた後の彼とのキスは好きじゃない。鼻をつくお酒の匂いとか、酒の勢いで始めましたみたいな雰囲気とか、文句だけなら山程出てくる。

今日は絶対キスなんかしてやるもんか。
そう思って強く下唇を噛んだその瞬間に、シンドバッドの柔らかな前髪が私の頬を擽った。と思ったら、右耳に生温かい感触。
それがシンドバッドの舌だと分かるのには二秒も要らなかったけれど、何分突然だったもので強く抵抗する事を忘れてしまった。はだけた胸板を押す機会を逸した私の耳の穴の中に、彼のザラザラした舌がこれ見よがしに入ってくる。


「ちょ、シン、やだ」
「嘘吐け」
「ちょ、耳元で喋んないでよ酒乱」
「いいだろ、久しぶりなんだ」


そうやって全ての主導権を握る為に耳元で言葉を紡いでくるシンドバッドに、この状況をどうやって打開しようかとぐるぐる頭を巡らせる。が、これといって良い案が降ってくる訳でもなく、気付けば彼のされるがままという最悪の展開になっていた。流石は七海の女たらし、とでも言えばいいのか、何故か今私の目の前にはシンドバッドの端正なお顔と、それからその向こうの白い天井が広がっている。恐るべし早技である。

驚きも勿論あったけれど、一度拒否の色を見せたプライドが作用して、今更ながら私よりも断然大きなその肢体を上から退かそうと精一杯腕を伸ばした。無論男の、しかも完成された肉体を持つ彼が、ただの女である私の力なんかで動く事などなかったけれど。


「ちょっと、少しくらい動いてよ」
「嫌だ」
「な、あのねえ、シンドバッド」
「好きなんだ」
「……」
「愛しているんだ」
「…そう」


無償の愛がある。瞬間的に、そう感じた。
何の見返りもない、逆にバレたら国の大事にすらなりかねない事をしているのに、シンドバッドの厚い胸板の向こう側には確かに私が求めている無償の愛があると思った。

けれど、けれどこれは本気にしてしまえば寂しくて、辛くて身が本当に焦げてしまうであろう恋愛だから、だから私は、自分の喉に蓋をする。簡単に同意の言葉を放ってしまわないように、必死に必死に閉じ込める。ただ無言で、彼を見詰める。


「同意してくれないのか?」
「…なに、私も好き、って言ってほしいの?」
「ああ」
「っ、…奥さんが聞いたら泣くよ」
「はは、今更だな」


今更、なんて狡い言葉を使って乾いた笑みを漏らすシンドバッドは、思わず見入ってしまいそうになるくらいに、とてもとても美しかった。それは何時か、シンドバッドが国を作るという理由で私の元から離れていった時と、それから彼がどこか遠くの国のお姫様を娶る事になったと報告してきた時と、同じ美しさを孕んでいた。なんだか、泣けてくる。

私の何がいけなかったの、とか、何で他の子を妻にしたのに私のところに来るの、とか、聞きたい事は沢山あったけれど、そんな質問をしたら私の中で堰き止められていた「なにか」が流れ出してしまいそうで、どうしたって出来なかった。

彼の言葉を借りれば、結局そう、今更なのだ。彼が妻帯者となり、私も夫を持った今となっては。
今更になって、好きだとか愛してるとか、そんな風に私の主食である愛情をぶらつかせるシンドバッドはきっと悪魔なのだろう。そしてそんな悪魔にやすやすと引っ掛かってしまう私は、やっぱり只の愚か者なのだ。


「シンドバッドは狡い、なあ」
「ああ、そうだな」
「私達ってさ、不倫でしょう?」
「…そうか?」
「紛うことなき不倫です。アンタには可愛いお姫様がいて、私には爽やかな旦那がいるもの」


皮肉を込めて眉根で笑うと、彼もつられたように笑みを零した。二人して自嘲的に笑うだなんて、ほんと私達って馬鹿だよなあ。
頭の片隅で諦めに近い感情を自由に遊ばせつつ、久し振りにシンドバッドが私の前に現れた半年前を朧気ながらも思い返してみる。思えばあの時から、もう私は彼の毒牙に掛かっていたのかもしれない。溜め息を吐く為に一度肩で息をしようとしたその瞬間、シンドバッドの低い声が私の鼓膜を揺らした。

俺としては寧ろ、俺とお前が正式な恋愛をしていて、双方が別々に不倫してると思っているんだがな。
そんな考えもつかないような事を宣って、無造作に私の髪をひと梳きするシンドバッドに、知らず知らずのうちに背筋を伸ばした自分がいた。

そんな事を言われたら、益々私は逃げられなくなる。抜け出せなくなる。彼からの愛情に縋るようになる。なのに、シンドバッドは、私の感情なんて全てお見通しなのであろう黄金色の瞳の私の不倫相手は、まるでスローモーションのようにゆっくりと、その形の良い唇を私のそれへと重ねてきた。ああ結局、私の負けだ。降伏の代わりに静かに瞼を下ろす。もう、抵抗しようとは思わなかった。

酒臭くても、不倫でも正しい恋愛でも何でもいいや。彼が私に愛を供給してくれるなら、拒む事は止めにしよう。とことん悪いシンドバッドとなまえになろう。それだけでいい。何も要らない。愛情以外、なんにも。

やはりスローテンポで離れていく唇を名残惜しいと思いながら、その速度に合わせて両腕を宙に浮かべる。そのまま愛しい彼の首の後ろに腕を回して、思い切り抱き締めてみた。暖かい、動悸がきこえた。きっと私の動悸も同じように彼の耳に届いているんだろうと、傲慢に近い確信を持った。


「妻は一生娶らないとか私に言ったクセに」
「仕方無いだろう。国の存亡の危機で渋々、だったんだ」
「へえ」
「それにお前だって、さっさと違う男と一緒になったじゃないか」
「仕返しに決まってるでしょ」
「俺に対しての、か?」
「もちろん」


それ以外何があるのだと微笑めば、シンドバッドの降参の意味合いの含まれた笑い声が抱き合ったままの、私の鼓膜で跳ねた。今私に掛かっている、この他でもないシンドバッド一人分の重みが何よりも嬉しいと思った。それと同時に、自分の夫、つまり彼に言わせれば私の不倫相手の職業が、一度旅立てば1か月は帰ってこないような貿易船の乗組員である事を神様に感謝した。

私は悪い女だ。いや、たった今ほんものの悪い女になってしまった。もちろん後悔なんかしていない。

なんせ、数センチ先の彼もまた、私を愛する悪い男であるのだから。
人間は愛を乞う生き物で、私たちはお互いに心臓を分け合うように囁き合っていて、もう破滅したって構わないとさえ思える程で。
それの何が悪いと言うんだろう。何故世間は私たちのような正しい恋愛をしている男女を、不倫と括って白い目で見るのだろう。わからない。いや、今やもう、分かってはいけない気がする。

世間一般の倫理観には重い蓋をして、代わりに閉じていた言葉の道を開いた。先程のお返しとしてシンドバッドの左耳の縁をペロリと舌でなぞってから、ザラザラした舌先に小さく言葉を転がした。


「私、たまに泣くかもしれない」
「なまえの涙なら大歓迎さ、どんとこい」
「ふふ、私の事大切にしてくれるって意味?」
「ああ。俺はなまえが何より大事だ」
「…その台詞、お姫様に何回言ったことある?」
「四回程、だな」
「あはは。正直でいいね」


声を上げて笑いながら、二人で白いシーツの海に沈んでゆく。自分から彼の額に擦り寄ると、柔らかい口付けが流星のように群をなして私の瞼に降ってきた。私とシンドバッド以外の誰が、この甘美な世界を体験出来ると言うのだろうか。


「なまえ、愛しているよ」
「…これも四回くらい、使った?」
「いや、これだけは今も昔もお前にしか言った事がないぞ。感心だろう?」
「本当に?それは嬉しい驚きだね」
「本当さ」
「…愛してる、シンドバッド」


やっと言ったか、と、そう言って心底嬉しそうに笑みを漏らすシンドバッドを見たら、もう本格的に全てがどうでもよくなっていった。
私はこれからも、この人に愛を求めよう。いつか崩れてしまうとしても、それまでは全力で、息を切らして彼への愛を歌えれば悔いはない。

再び迫ってきた彼の口唇を受け入れる為に、幸せな微笑みは頬の下に隠して静かに目を瞑った。



献身的に悪い事をしよう




(title:√A)
(20130204)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -