未だに住み慣れない無駄に広くてお洒落な部屋の、高級そうな革張りの二人掛けソファの上で彼の名前を呼んでみた。

ジーノ、という私にとっては耳に優しい言葉は視線の先で美しいサッカーを展開している液晶画面の織り成す雑音にかき消されてしまうのではと思ったけれど、どうやらそんな事はなかったようで、「どうしたの?」なんて棘のない声音がキッチンの方向から返ってきた。屈んでいるのか姿は見えないけれど、何だかひどく安心する。その目には見えない安心感というやつを舌の上で確かめつつ何でもないと返答し返すと、間もなくして彼はキッチンの奥からするりと姿を現した。両手にほんわりと湯気のたつコーヒーカップを持って登場したジーノに、やっぱりすごく安心した。

それと同時に、ああやっぱり好きだなあって、何故か強く考える。その間にも、ジーノは何時も通りの余裕しか見えない表情で私の方へと近付いてきて、ゆっくりと右のカップを差し出してくれた。


「ほら、なまえ」
「ありがとう」
「フフ、どうしたんだいさっきは」
「さっき?」
「ボクの事呼んだでしょ?」
「ああ」


ジーノの淹れるコーヒーは美味しいなあ。
まだ一つも口を付けていないのにそんな事を考えつつも小さく頷いて、少し離れたダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした彼に小さく微笑みかける。

コーヒーの湯気が部屋の空気に柔らかく溶けてゆくこの空間は、私にとっては信じられないような宝物だった。でもその喜びを派手な言葉達で飾り立てるのは何だか気が引けて、ただ単純な言葉を紡ぐ。すごくね、幸せで。幸せすぎてジーノの名前を呼んでしまった、というに何の捻りもない私の説明を聞いたジーノも、幸せそうに口角を上げてそうかと頷いてくれる。

こんなにあたたかくて素敵な時間を、今日もまた一日過ごしてしまおうだなんて、私はとても贅沢だ。贅沢だけれど、でも湯気の向こうのジーノはそんな事も忘れてしまうくらいに格好良くて優しくて。
きっと彼は魔法使いで、私はその魔法にかかっているんだろうと、液晶から響く雑音を受け流す傍らで強く感じた。


「ねえ、なまえ」
「ん?」
「こっちに来るかい?」


そう言ってジーノは自分の膝を指差すものだから、私はますます幸せの魔法という奴に掛かってしまう。何でこんなにも愛しいんだろう。

返事の代わりにソファから立ち上がってジーノの元へと歩いてゆく。遠慮がちに、ただ確実にその膝の上に座れば、彼の手がお腹の前に回されて、伝わる体温がとても心地良い。目眩のするような幸せな休日に、思わず息を吐いた。

おもむろに私の肩に顎をのせて甘えてくるジーノが、言葉じゃ言い表せないくらいに愛おしくて、気を抜いたら涙が出てきてしまいそう。回された手をぎゅっと握ると、首筋に顔を埋められた。くすぐったいと同時にあたたかい。しあわせだ。


「サッカー、観なくていいの?」
「ここからでも見えるさ」
「うん」
「それとも、もっと近くで見たい?」
「ううん」


耳元で囁くように掛けられる言葉の節々にジーノの愛情を感じるのがとても嬉しくて、握っていた彼の手に今度は指を絡めて甘えてみた。浮かれる私をさらに持て囃すように、私たちの視線の先では青いユニフォームの選手達が素早いパスを繋いでいる。

プレミアの、チャンピオンズリーグの準決勝だけにパスも連携も個人技でさえもとても洗練されていて、思わず息を飲んでしまう場面もあるくらいに美しい。特にジーノは半分はイタリア人な訳だから、きっと色々な思いを混ぜて遠目から鑑賞しているんだろう。その証拠に、私の首筋には感嘆だったり嫉妬が混じっていたり、果てには悩ましげだったりと様々な吐息が幾度となく当てられていた。
本当に、かわいいひと。


「私は、ジーノのサッカーの方が好きだなあ」
「え?」
「この人達のプレーは確かに綺麗だけど、なんか、ジーノみたいにキラキラしてないから物足りないよ」
「はは、ボクは輝いてるって事かい?」
「うん。試合中のジーノ、汗まで宝石みたいにキラキラ光ってて、だいすき」


自分でも気恥ずかしくなるような歯の浮いた台詞を放っている事は分かっていたから、視線は液晶に向けたままにした。
ジーノは一瞬目を見開いたけれど、すぐにまた何時も通りの余裕綽々な笑みを取り戻した、と思う。見えないけれど。でも何となく、私を抱き締める腕の力が強くなったような気がするから、恐らく間違いではないんだろう。

嬉しくて愛しくて思わず小さく笑みを漏らせば、ジーノは馬鹿にするなと言わんばかりに首筋に顔を埋めて息を吹きかけてきた。変な気持ちになるから止めてほしい。


「ボクが格好良いのは試合中だけかい?」
「え?いやそんな事ないよ」
「…本当に思ってる?」
「思ってるよ。だって今だって、」


ジーノはキラキラ光ってて眩しいよ。
言いながら首を捻って、ジーノの整った顔を見やる。さすがはハーフと言いたくなるような長い睫毛の間からは柔らかい午後の光が漏れ差し込んでいて、とてもとても、美しいと思った。

きちんと通った鼻筋も、私の髪を優しく梳いてくれる大きな手も、少し子供みたいな言葉もキザな言葉も自由自在に操れる艶やかな声も心地いい体温までもが、全部愛おしくてたまらない。こんなにも好きな人がいて、更にその人からも愛情を受けている私は、きっと世界で一番幸せだ。

ジーノの顔をじいっと見詰めたままの私に痺れを切らしたのか、彼は「なまえ、ボクのなまえ」と甘い声音を従えて思い切り抱き締めてきた。ジーノのシャンプーの匂いはとても爽やかで、それなのにこんなにも甘えた態度を取ってくるのが可愛くてどうしようもなくて、再び私の首筋に埋まった彼の耳朶にやわやわと唇を寄せる。

ちゅ、と小さなリップ音を立てれば、ジーノは勢い良く顔を上げて「ふふ、まだ昼間だよ?いけない子だ」なんて嬉しそうに口にした。私はいけない子であるらしい。でも、それを言うなら綺麗な手で私の肌を撫でるジーノもいけない子じゃないか。そう思ったけれど、声には出さなかった。その代わりにジーノの頬にゆったりと右手を添えてみる。

その瞬間、もしこの人がいなくなってしまったらどうしよう、と何故かそんな恐怖が頭を過ぎった。

日光を存分に含んだ室内で急激に増してゆく不安に思わず目を瞑る。気紛れで自分を王子と称するくらい気位の高いジーノがどうしたのかと私を覗き込むのが、気配で何となく分かった。


「どうしたんだいなまえ」
「…いなく、ならないでね」
「いなくなる?ボクが?」
「…私、重いかもしれないけど、あの、もし私に嫌気がさしたら、せめてそれを教えてください。何も言わないで消えたりしないでくれたら、嬉しい」


何だかジーノからの質問の答えになっていない気はしたけれど、気にせずに言い切った。

ジーノは、私を馬鹿な女だと思っただろうか。愛の重いヤツだと、付き合いきれないと。
目を瞑ったまま、有るはずもない悪い考えばかりを頭に巡らせる私の瞼に柔らかな感触を覚えたのは次の瞬間だった。それがジーノの唇なんだと、そう理解するのにあまり時間はかからなかった。なんたって私のこの体は、日頃からジーノに随分と愛を注がれているのだ。

優しく、さっきの私と同じように小さなリップ音を立ててきたジーノの吐息が顔に掛かる。目を閉じたままなのに、涙が出てきそうになった。


「ボクはなまえを放してなんかやらないよ」


ゆっくりと、重く暗い世界を作り出す瞼を上げる。そこにはジーノがいて、彼は今まで見たことのないくらいに嬉しそうに微笑んで私を見詰めていて、持ち上げた瞼はまだ仄かに熱を帯びていて。途端に変な心配に取り憑かれていた自分が馬鹿らしくなった。

わたしは彼を拠り所として、彼も私を拠り所にして生きているというのに、何故触れられもしない未来を憂う必要があろうか。

そうやって「何か」が一段階昇華されると同時に、ジーノの唇が触れた瞼を発端に、脳みそから爪先までくまなく全身に幸福感が流れてゆく。


「わたし、重くない?」
「ふふ、キミからの束縛なんて、ボクが抱いてる感情に比べれば可愛いものさ」
「信じていいの?」
「もちろん」
「…じゃあ、遠慮なく」
「おっと。はは、やっぱりいけない子だね」


ぎゅう、と。身体を捩ってジーノに抱き付くと、その大きな手で頭を撫でてくれた。暖かくて柔らかくて甘くて、心が溶けてしまいそうだなんて有り得ない事を本気で危ぶんだ。

視界の端には飲みかけのコーヒーカップのペアが、収まりよく座っている。後ろの欧州では、どうやらどちらかのチームが得点を決めたらしい、サポーターの歓声と解説者の興奮しきった声音が混ざって部屋を騒がしく飾っていた。ああ。幸せだ。本日何度目になるのか分からない感情を胸の奥に大事に大事に仕舞って、ジーノの胸に頬擦りをする。

不安になることなんて何ひとつないのだ。
私の世界は、こんなにも美しい。




瞼の裏からひたひたと



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(20130111)

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