歯が痛い。軋むような痛みに思わず寝返りを打ちながら、もうすぐ熱が出るということを確信した。 私の風邪は昔からこのパターンで、まず歯痛から始まり高熱と頭痛へと進み、治るのには最低二日間を要する。つまりこれは、風邪のひきはじめの合図。 まずいなあ、これは。 顔をしかめながら、横で規則正しい寝息を立てる達雄くんを盗み見る。現役サッカー選手の彼に、風邪を移したりなんかしたら大変だ。特に達雄くんなんて、もうフレッシュな若手ではないのだから体調管理が大切なのは尚更で。 だからこのまま同じ布団に入っているのは駄目だ。かなりの確率で彼に移してしまう。 怠く重い体に鞭を打って、真夜中のベッドからゆっくりと上体を起こす。ひんやりした夜の空気にぶるりと体を震わせてから、ベッドの近くに放られていたガウンに手を伸ばした。深い暗闇の中で丁寧に拾い上げてから、極力静かに、息を殺しながらネイビーのそれに右腕を通さんと腕を曲げる。と、私の小さな気配を感じとってしまったのか、大人しかった筈の横の彼が小さく身動ぎしたのを感じた。 「ん…、なまえ」 「ごめんね達雄くん、起こしちゃった?」 「どうかした?」 「うん、ちょっと用事思い出したから、帰ろうかなって」 なるべく普段通りの笑顔を心掛けてそう言うと、達雄くんは「こんな夜中に帰るの?」と酷く驚いた様子で目を見開いた。安らかな眠りを妨害しないように、書き置きでもして帰ろうと思っていたのに、逆に今の言葉で彼を眠りから覚醒させてしまったようだ。まずいなあ、と先程と同じ事を思いながらもベッドの縁に手をかける。 するとその瞬間に、私の手首は達雄くんの左手に捕えられてしまった。言葉を発する間もなく、そのまま元のように彼の腕の中へと押し込まれてゆく。でも移すのは嫌だから、足掻いてでもベッドから降りようとはしてみたものの、それは女の私よりも数倍強い力が許してくれなかった。辛うじて小さな掠れた声で離してとお願いすると、腕の中の私は器用に回されてあっという間に元通り、向かい合わせの形になる。 「用事ってのは嘘でしょ」 「……」 「どうした?なんか悩みでもある?」 達雄くんの瞳は真剣そのもので、そこには私への気遣いの色だけが深く深く呈されていた。 いつもマイペースなのが彼の持ち味だけれど、こういう時の石神達雄という人間は頑固だ。 それは身を持って理解している為、無駄な抵抗は止めて大人しく肩を窄めて口を開く。もちろん、私を本気で心配してくれる彼が愛おしくてどうしようもなくて、このまま何も言わずに自分一人の味気ない部屋に戻ってしまうのが嫌になったのも理由の一つだったけれど。 「…熱、が出ると思う」 「熱?」 「うん、たぶん」 「うわ、もうおでこ熱いじゃん。多分じゃねーよ」 「え、もう?」 「うん、結構熱いよ」 ホラ、と言いながら達雄くんは自分の額を私のそれへとくっつけてきた。それに伴って、顔だけじゃなく全身がカアッと熱くなる。私の気持ちなど気付きもしない達雄くんは、もっと熱くなってない?なんて言って心配そうに顔を歪めるけれど。けどそれは、風邪じゃなくてあなたの所為だから、なんて言えたら苦労しないだろうに。 暗闇に紛れるように息を吐く私の傍らで、彼はちょっと待ってろよなんて言って今度は自分が体を起こした。どうやら私を看病する気らしい。これで気を遣わせてしまって寝不足にでもなられたら申し訳が立たないので慌てて私も上体を起こすと、咎めるような視線が飛んでくる。途端に右奥歯がキュウと痛んだ。でも、我慢しなくちゃいけない。 「達雄くん、いいよ、私帰るから」 「はあ?馬鹿言ってないで寝てろって」 「だって、移しちゃったら悪いし」 「あー、いーよいーよそんなの」 「駄目だよ、だって明日からキャンプでしょ?」 「いーんだよ別に」 「だめ!」 「マスクするから大丈夫だって」 「駄目なの」 「いいから」 そう言って達雄くんはまた、じたばたする私をベッドに縫い付けるみたいに組み敷いた。無言で彼を睨み付けてみるも、あまり効果はないようで何時ものお得意の笑みで軽く流されてしまう。それどころか、頭に柔らかいキスを落とされて逆に封じ込められてしまった。不覚だ。元々達雄くんに適うとは思っていなかったけれど、それでも。 その優しさと愛おしさに負けて口を閉じたのを良いことに、彼はしめたと言わんばかりの表情で素早くベッドから飛び降りる。それから奥のキッチンへと姿を消してゆき、この部屋は彼という要の色を失ってただの虚しい黒色に染まってしまった。達雄くんがいなくなっただけで、心臓がずきずきと痛む。時たま「どこだったけな」とか「あ、これか」「違う」なんて声と、手当たり次第に戸棚を開ける音とが聞こえてくるけれど、それもほんの気休め程度にしか思えなかった。私の生活の中心は彼なのだ。熱さに弱る頭で、そう痛感した。 しばらくすると漸く達雄くんはこちらへと戻ってきた。右手には水の注がれたコップ、左手には錠剤の入った箱を持つ彼の目は抱えきれないくらいの愛に満ち溢れているように思えて、なんだかそれだけで泣きたくなった。 静かに起き上がって、達雄くんから薬を受け取る為に手を伸ばす。纏わりつく外気は相も変わらず肌を刺す冷たさを含んでいたけれど、彼が微笑んでいてくれるお陰かあまり寒いとは感じなかった。それとも、ただ単に熱に浮かされているだけだろうか。 「わり。俺普段風邪なんかひかないからさ、薬見つけんのに時間かかっちった」 「ううん、ありがとう」 「飲んだらちゃんと寝ろよ」 「うん。達雄くん、ごめんね」 手間掛けさせちゃって、ベッド占領したみたくなっちゃってごめん。 苦笑いでそう口にした。すると達雄くんは、やっぱり暖かい笑顔で馬鹿だなあって言いながら私の頭を撫でてくれる。幸せだ。これ以上幸せな世界なんてあるのかな、と大分熱に犯された頭で考えつつ、受け取った錠剤を口に含む。二粒あったので、まず一粒。続けて手渡された水を一口、喉に川を作るみたいに錠剤と一緒に飲み込んだ。錠剤なのに、少しだけ苦い。そう言えばこの薬は、歯の痛み止めとしても効くのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、あと一粒を口元に運んでゆく途中のこと。 それまで、まるで観察するようにじいっと私に焦点を合わせていた達雄くんが声を上げた。ねえ、と。 「ん?どうしたの?」 「あのさ、結婚しない?」 「……え?」 「いやだ?」 「い、やじゃないけど、え、まって、え?」 薬飲んだら早く寝ろよ、って言った時と全く同じ調子でサラリと流れてきた言葉に、私の頭は完全に置いてけぼりである。 だって、いきなり結婚しようって。しかもどうしたらこの流れで、この深夜に、しかも歯痛と熱に困っている時に、だなんて。 達雄くんらし過ぎる展開に瞬きしか出来ずにいると、彼は何を思ったか布団の中へと入ってきた。もちろんマスクなど付けていない。この嘘吐きめ、と思ったけど上手く声にならない。代わりに情けない「どうして?」なんて疑問の声が暗い部屋に漏れた。 「んー、なんつーかさ、なまえが辛そうに息してるの見たらさ、俺が代わってやりたいとか思っちゃうんだよな」 それって、何も風邪だけじゃないと思うんだ。俺はそれが結婚て事だと思うんだけど、なまえはどう? 達雄くんはそう言って笑った。気を少しでも落ち着かせようと、もう一粒の錠剤を取り急ぎ口に放り込んで、水も使わずに飲み込む。そのくせに熱はどんどん上がっていくみたいだった。もう全身が熱い。歯痛なんて比じゃないくらいに、私の神経という神経は熱に蝕まれてゆく。はやく退いてよ熱。はやく効いてよ薬。 震える指先で、達雄くんの手を取った。 「達雄くん」 「うん?」 「こんな私でいいなら、いくらでも風邪、もらって下さい」 私に応えるように飛びきり柔らかな笑顔をくれた達雄くんに自分から唇を重ねてしまってから、この熱は錠剤なんかでは到底下がりそうもない事、それにこんな状態でキスしてしまったら結局本末転倒ではないかという苦くて甘い事実と向き合う。これから続く幸せのてっぺんを見つけた、ある真夜中のことだった。 キミの言葉がまたひとつ魔法になる (20121227) (title:√A) |