シスターたちは処女膜を守って生涯を終える。神様に捧げる身を下界で穢されるなんて以ての外、という訳だ。でも、私は生憎シスターでも何でもない。ただの女である。だから今日も今日とて、清純なシスターたちは知る筈がないであろう快感にゆったりと身を委ねる。 ジャーファル、掠れた声で行為の相手の名前を呼べば、それに呼応するかのように高まって行くのは他でもない愛おしさというこの世で一番複雑な感情であって。それが嬉しいと同時に凄く切なくなった。ああ私は一生、この人と通じ合う事など知らずに生きてゆくのだろう。なんて、重なる肌の温度にそぐわないにも程がある。 事情後の気怠い寝台の上、美しい銀糸を灯り代わりにして、そのうっすらと浮かぶ雀斑を指でついと撫でてみる。怒られるかなあ。確信に近い予感は的中し、途端にジャーファルの瞳が私を睨み付けるような鋭いものに変わった。 私的にはこの雀斑も彼の魅力の一つであるけれど、きっと彼にとっては劣等感以外の何物でもないのだろう。そのくらいは容易に推察出来る。けれど如何せんその斑点は際立って可愛らしいので、私はいつも知らず知らずの内にそれに見とれ、触れずにはいられなくなってしまうのだ。だからそんな棘のような視線を投げなくても良いのに。 「何です?」 「何でもない」 「いつも言っていますよね?私は、」 「顔を触られるのは苦手だって?」 「…分かっているなら尚更止めなさい」 しれっと叱りつける彼の口振りは、一般男性がセックス後の恋人に対するそれとはまるで違う。彼の場合、平生と何ら変わらないのだ。まあ、それは私が果たして「恋人」と呼べるものなのか分からない、微妙な存在である所為なのかもしれないけれど。 未だに一糸纏わぬ姿の私とは違って、後処理を終えて直ぐに中着を羽織ってしまったジャーファルの体温をうっすらと感じつつ目を閉じた。そう、まるで現実から逃げるように。 「…ジャーファル」 「ん?」 「私、シスターにでもなれば良かったかな」 「はい?」 目蓋の奥の暗闇の中から、搾り取ったような声で言葉を紡ぐ。彼が予想だにしなかったであろう台詞を吐いた私の心の端の方では、ぼんやりと丸い光がたゆたっていた。それは欠片ほどの正常な理性なのか、それとは真逆の私の中で形を成した欲望なのか。どちらかは分からなかったし、分かりたくもなかった。 ただ無性に泣きたくなって、両目の接着剤は剥がさぬままで、右腕だけを重力に逆らうようにして天井へと突き出す。本当はそれはジャーファルの温度を直に確かめる為に宙を掻いたのだけれど、やはり腕一本でさえ彼へと伸ばす事は出来なかった。自分の意気地の無さにはほとほと呆れるばかりだ。 「シスターだったら、きっと世界が百八十度違ったんだろうなあ」 「貴方には似合いませんけどね」 「はは。でも、やっぱり、」 「やっぱり?」 「純粋でいれたら良かったのに」 って、偶に考えるの。 黒の中で言葉を咀嚼し外に漏らせば、横で身体を投げ出す愛しい愛しい人の小さな呼吸の音が鼓膜を撫でる。 シスターなんて異性を知る事が出来ない詰まらないものだと、そう思う反面、多少なりともいつまでも清らかでいれる彼女達への羨望も持ち合わせていた。 もしジャーファルの隣が私でなく彼女達であったら、彼は壊れ物を扱うようなもっと優しい手で、柔らかい視線で恋人に対峙するのだろうか。そんな仕方のない考えまで抱いてしまう、矢張り私は紛れもなく意気地なしのようだ。 気管の入り口まで溜まり、今にも零れそうになる溜め息を外に出すまいと奮闘している私の横で、ジャーファルが寝返りを打った。それから間髪入れずに、彼の口がゆっくりと開かれる。 「貴方は、それで良いのですか?」 一体、何が?と聞き返す前に、シスターとして生きるとしたら、と急ぎ付け加えられる。それも何とも彼らしくない眼差しを向けつつ、だった。何故その機微に気付いたかというと、それは単に彼の発言に驚いた瞼が勝手に上がっていったからで、彼らしくないというのはその瞳に憐れみが込められていたからである。 同情や憐れみは時に相手を傷付ける武器となる。それならば、生半可な優しさなど使うべきではないのです。 そう言っていたのは他でもないジャーファル自身であるのに、あろうことか彼は私に対してその武器を振りかざしていた。一瞬にして返す予定の言葉を見失ってしまう。 そんな目で、見ないで欲しい。 言える筈のない台詞が左心室に引っ掛かって、どうしようもなく痛かった。そのまま暫く痛みに身を固め無言でいたからだろう、痺れを切らしたような彼の、どうしました?が至近距離で私を飲み込もうとしてきた。 「どうも、しない」 「…よくもまあ、白々しい」 「違うの、ただ、よく分からなくて」 「何がです?」 「結局、何がいいたいの?」 本当は何となく分かっていたけれど、小さく小首を傾げて分かっていない振りをした。鋭いジャーファルは、私のそんな急繕いなんてきっとすぐに見破ってしまったろう。けれど幸いここは見逃してくれるようで、仕方ないですねと言って溜め息を私の素肌にぶつけるだけにしてくれた。 「シスターだとしたら、我慢できるのか。私はそう聞いているんです」 「ああ、ジャーファルを我慢出来るのかって?」 「私というより、男性全般を」 至って真面目な表情をするジャーファルと、正面から向き合う。先程まで瞳に滲んでいた白色の憐憫は魔法のように消え去り、代わりに通常通りの純銀に戻っていた。 その事に内心胸を撫で下ろして、彼に悟られないようにごくごく小さく息を吐く。寒い訳でもないのに、その吐息まで銀に染まってゆく気がした。 「我慢出来るよ、」 「へえ、それは意外ですね」 「ジャーファル以外なら」 「は、何ですそれ」 「だから、もしシスターだったら、世の男性、たとえシンドバッドに迫られたって下半身を開かない自信があるの。けど、ジャーファルは無理」 きっと我慢できない。神様に捧げる筈の貞操だなんて忘れて、ジャーファルを求めてしまう。 それは最早私の性であると言っても過言ではないだろう。それだけ私の中での彼の存在は稀有で貴重な物なのだ。たとえ彼が、私に対し同じ気持ちを抱くどころか憐れみすら覗かせているとしても。 「つまりね、私はジャーファル以外要らないの」 「…ああ、だからですか」 「え?」 「私には、貴方が欲張りに見えるのは」 欲張り。その単語が何故か心臓の真ん中に突き刺さった。そうか、私は欲張りなのか。それならば砂の器に水を流すように、底抜けに彼を求めてしまう事も致し方ないと思ってもらえるのだろうか。 もしそうなら私は、欲張りでいい。 思うと同時に、私の体は勝手に動き出し気付けば彼の白い手首を、持て余し気味だった右手で掴んでいた。ジャーファルの目がほんのすこし見開かれるのを確認してから、短く息を吸う。 「欲しい、ジャーファルのぜんぶが」 そして欲を言えば、ジャーファルも私のすべてを欲してほしい。 流石に言葉にするのは憚られて、それでもどうにか伝えたくて、小声で彼の名前を呼んだ。ジャーファル。いつまで経っても本当には私を欲しがってくれない彼の名前は、寂しくて切なくて、でも甘美な音で出来ている。 「私はいつでも、貴方の欲望を享受しているでしょう?」 「それはきっと、違うの」 「…違いませんよ、何も」 「じゃあ、その証拠をちょうだい」 欲張りな私は欲しくて欲しくて、掴んでいた彼の柔らかい手首に唇を寄せた。ちゅ、とせめてもの可愛らしいリップ音を立てて、目を閉じて。だからその時ジャーファルがどんな目をして私を見ていたかなんて分からない。でも、きっと凄く、呆れた面差しをしていたのだろう。 「…放しなさい」 どこか遠くの海岸を思わせる静かな静かな声音を発したジャーファルは、何故か悲しげな表情を浮かべていた。 私はただ、欲しいだけなのに。彼の体が、声が眼差しが、そして何より彼の隣にいる証が。それの何が悪いのだろう。 自問しても答えなんて見えないし、もしかしたら無いのかもしれない。けれど白い手首から口唇を離した時、すこしだけ、ほんの少しだけ、後悔した。 綺麗に汚れていくばかり (plan:炯然) (20121116) |