「もし明日地球がなくなるとしたら」なんて日曜日の朝に考える事ではないだろう。でも彼女にとってはそうではないようで、現に今もその形の整った頭で沢山の終末を考えているらしかった。


「とりあえず貯金は全部使う」
「用途は?」
「服靴鞄プラス貴金属」
「見事に全て無意味ですね」


次の日には地球がなくなるというのに、服や靴なんて買って何が得られると言うのだろうか。皆目見当が付かなかったが彼女が柔らかい笑みを浮かべているのでそれ以上は何も言えなくなった。代わりに貴方なら何でも似合いますよと小さな声で付け足す。そうする事で何が変わる訳でもないだろうが、今以上に彼女の目尻が優しく下がる事を願っていた。


「ありがとう」
「いえ」
「あとね、おいしい物を沢山食べるの」
「例えば?」
「世界中の珍しい果物とか」


今度は口から飛び出しそうになる辛い台詞を無理矢理気管に押し戻しながら、彼女の声音に耳を済ませた。とても澄んでいるこの人の声は聞くに心地良く、耳という器官をやわやわと撫でられている気分になった。

次の日に死ぬ、というのに果物くらいで良いとは、女性というのはよくわからない。でももし自分に置き換えたら、と考えてもやはり特別何をしたいのかは分からなかった。ただ漠然と、きっと私はそんな日でも仕事をするのだろうと予想が出来てそこはかとなく寂しい。だから彼女がガラス玉みたいに笑って願望を話せる事が、本音を言えば少し、羨ましい。


「…でも、一番は違うわ」
「一番?」
「そう。服より食べ物より、まずジャーファル」
「私?」


まさかここで彼女の口から自分の名前が出て来るとは露ほども考えていなかった為、聞き返した声が少し震えてしまった。我ながら情け無いものだ。
そんな私をどう思ったのかは知らないけれど、彼女は嬉しそうに微笑むとその今にも折れそうな白い腕を私に向かって伸ばしてくる。それは瞬きを二回し終えた頃に私の頭、詳しく言えば緑色のベールにゆっくりと載せられた。

彼女はこういう行為が男に有らぬ期待を抱かせると気付いているのだろうか。違うと思うが、もしそうだとしたらかなりの手練れである。けれども彼女にだったら手玉に取られても良いか、なんて考えてしまう私は少々いかれているようだ。

取り敢えずこのままでは自分の中で何かが収まりがつかなくなってしまいそうなので、頭の上から一ミリも動きそうにない白い手を掴んで放漫とした動作で下ろしてゆく。彼女もそれに文句を言うでもなく、二人の手が視線の高さまできた所で落ち着いた。


「子供じゃないんですけれども」
「子供扱い、嫌?」
「子供扱いって…」


分かってやっているんですか、と訊くまでもない事を口にすれば私を見やる彼女の表情が変わる。ふふふ、可愛いなあ。微塵も嬉しくない言葉に襲われて、何だかおかしな気分になった。だからもう、子供じゃないのに。彼女に刃向かうのは心情的に嫌だったけれど、意思表示をしなくては何も始まらなさそうなので無理矢理眉根を寄せて顔をしかめてみる。


「あれ、そんなに嫌?」
「…まあ、快くは全くないですね」
「そう。ごめんね」
「いや、謝る程では」
「でも、私駄目なの。ジャーファルの事は弟のように思わないと、駄目なの」


意味が分からなかった。と同時に少し苛立ちを覚えた。彼女の思考はいつだって、この国の財政なんかより余程難解だ。だから私は困惑してしまう。一見楽天的で何も考えていなそうであるのに、実は頭の中でごちゃごちゃと難しい事を辿って辿って、挙げ句道に迷っているのだから。
思わず掴んだままの手首に柔らかく力を込めていた。


「どういう意味です?」
「ジャーファルが子供でなくなったら、きっと私は君を好きになってしまう」
「は?」
「それが堪らなくこわい」
「ちょ、意味が…」


分からない、そう声を上げるほんの一瞬前に、彼女は寂しそうに目を伏せた。

一体何がいけないというのか。好きな人に好きになられそうだと分かってから引き下がれる筈は到底なく、彼女に先を促すような意味合いを込めた視線を送った。それを静かに受け取った彼女はまるで彫刻や絵画の中の人物のような静かな微笑みを口元に携える。この人は、私をおちょくっている訳ではない、と信じたい。信じたいのだ。


「未来ある君を、奪ってはいけないでしょう?」
「すみません、意味不明、です」
「…もうね、長くないみたい」


伏せられたままの彼女の長い睫毛の間から、ぼんやりと薄い光が漏れ差し込んでいる。それが酷く優しく残酷に見えて、知らぬ間に同じように目を伏せる自分がいた。

ノーモーションで投げられた彼女の言の葉の意味を理解出来なかった訳でも、まして意図的にしなかった訳でもない。
ただ、その言葉は余りにも現実味が無さ過ぎて、心に刺さらなかったのだ。仕方無いだろう。なんせ今の今まで彼女は、世界が終わる一日前の話を笑顔でしていたのだから。夢かとすら考えた。


「まあ、実感は湧かないけどね」
「…私もです」
「でも、どうやらこの体はもう取り返しのつかないところまで行っているみたい」
「そう、ですか」
「だから、ジャーファル」


何時の間にか力の抜けていた掌からスルリと彼女の手が抜け、再び頭の上に載ったのが感覚で分かった。

彼女が死ぬ一日前に、自分も死ねたらどんなに良いだろう。不意に笑い事でも何でもなくそう思った。視線を落とした先の絨毯の冷めた青が否応無しに目に刺さる。痛い。心臓が、破裂しそうだ。


「世界がなくなる前日だけは、どうか側にいてね」


我が儘だけど、と付け足された彼女の台詞に間髪入れずに首を振った。心なしか冷たくなった気のする空気が私の全身を絶え間なく刺しているのにも関わらず、世界の終わりの前日を頭に描く。

こちらこそ、とお願いしたいくらいだ。そうしたら一日、何もないけれど有り得ない程幸せな24時間を送ろう。願わくば、彼女より先に世界の寿命が切れますように。
泣きそうなくらいに強い願いを右の奥歯で噛み締める。ギリリという耳障りな音が漏れるのも構いはしなかった。


「寂しくなるなあ」
「ええ」
「ジャーファル」
「はい」
「…何でもない」


頭の上の白い手の平には、驚く程の熱が込められているようだった。もしかしたら彼女はこの腕で、この手だけで抱えきれないくらいの感情を伝えたかったのかもしれない。何となくそう考えた。そして、それならば私も彼女の気持ちに沿えるようにしようとも考えた。そうしたら少しでもたくさん、笑った表情が見れる気がして。


「世界がなくなっても私は貴方を永遠に、尊敬していますよ」


だから、だから、こっちを見て笑って欲しい。そんな風に泣きそうな目をしないでもらいたい。
思わず愛してると言ってしまいそうになる口を、なけなしの自制心で塞いだ。




午前九時、死にたくなる



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ジャーファルさんは年上でも年下でも美味という

(20121027)




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