神田ユウ、とても聞き慣れた響きだ。 それは私と神田が幼馴染み紛いの関係だからなのか、それとも学校に行けばキャーキャーと黄色い声で女子達がその名前を連日口にしているからか。分からないけれど、どちらにせよ神田ユウという一つの固有名詞は私の中で確固たる地位を築いていた。 でもそんな彼は今日を以て、この学校にサヨナラするらしいです。 親の都合で北海道、ですって。どうしよう。北海道は遠い、予想以上に遠い。もう私は神田の一寸の狂いもなく整った顔を毎日拝めなくなるのか。ああ、私の大事な目の保養が。 「おい、何キモい目で見てんだよ」 「手紙出してよね」 「出すかお前なんかに」 「シンデレラの葉書持ってたじゃん書いてよ」 「もってねーよ死ねよ」 「それは無理」 言いながら神田のサラサラの黒髪に触れる。するとごくごく自然に嫌な顔を向けられ、そのまま三次元によくぞいらしたと言うべきポニーテールが左右に大きく揺れた。無論その感触を指先に焼き付けようとしていた私の手は呆気なく弾かれる訳で。 おまけに振り子のように振れたポニーテールが武器と化し、私の横面をバシンと叩いたものだからたちが悪いったらない。というか痛い。 黒髪は凶器だ、なんて馬鹿みたいな事をぼんやり考えた。でも目の前の、そんな黒髪使いに攻撃を受ける事も叶わなくなるのかと考えたらすごく寂しくなった。ああ思えば私たち、小学三年生からクラスが離れたこと無かったよね。 「…なに泣いてんだよ」 「ないでないじ…っ」 「鼻ずびずび言ってんぞ」 「ぎのぜい、でずぅ」 私の意志とは関係無しに、涙はボロボロ散っていく。 おかしいな、こんなに神田の事大切だなんて思ってない筈なのに。なのに私の今日限りで目の前からコイツの姿が消えて、明日からは滅多に会えない北の地で私の知らない女の子たちから黄色い悲鳴を浴びるのかと思ったらぜんぜん言うこときかないんだ、私の涙腺てやつは。 ただ、そんな私の胸中を踏みにじりたいらしい神田は、バカにしたように鼻で笑って私の額にデコピンしてきやがった。イケメンだから何も言い返せないのが悔しい。 「お前はバカだよな」 「へっ、バカって言ったらカバと結婚ですおめでとー」 「泣き止んだのか」 「余計なお世話だわ」 そう口にしてから、ずぴっ、女子高生にあるまじき擬音と共に鼻を啜った。勿論神田からは呆れたような視線を送られたけれど、そんなのは慣れっこだ。無視、無視。 自分に言い聞かせるように小さくふるふると首を振れば、何故か私の脳裏を今までの思い出みたいなヤツらが過ぎって行った。しかも瞬速で、だ。 小五の時に蝉の抜け殻集め競争で私が僅差で勝った(神田は拗ねて丸一日口を利いてくれなかった)こと、中二の時に我が家のアルバムに収められている神田のオールヌード(8歳)を友達に見せると言って奴を強請った(神田は怒って三日間口を利いてくれなかった)こと。 それにあと、テレビゲーム目的で訪れた神田の部屋で躓いて、近くに畳んで積まれていた彼の下着たちに顔面ダイブした(神田はキレて一週間目を合わせてもくれなかった)のはまだ記憶に新しい、去年の事だ。 考えたら止まった筈の塩水がまたじわり、心臓の真ん中から滲んでくる。神田、かんだ。行かないで。その単純過ぎる五文字が私の本心なのだと、今更気付くなんて遅いだろうか。 でも気付いたからと言ってどうなる訳でもなく、ましてやその言葉を口にする事なんて出来ずにただ下唇を噛みながら神田を見詰める。滴り落ちる水滴に視界が阻まれるけれど、それでもこの顔を今のうちに網膜に焼き付けおきたかったのだ。 「また泣くのかよ」 「違う鼻炎なだけだもん」 「お前は目から鼻水出すのか」 「ぞ、ぞうでずよ、だあ!」 「はぁ…ほらよ」 「な、なに、」 「ハア?分からねえのか?」 タオルに決まってんだろ。 何食わぬ顔でそう言いながら紺色のパイル地をずいと差し出してくる神田の黒髪が、ビル風に押されてかふわりと浮かぶ。 頭一つ分以上高いところから感じる彼の視線は、とても美しく感じられた。いや、視線に美しいという形容詞は当てはまらないかもしれないけれど、それでも。それでも切れ長の闇から放たれる視線は、他人を魅了する妖艶さにほんの少しの脆さ儚さを含んでいた、ように見えた訳だ。 神田の折角の行為を無碍に突き返す気はさらさら起きず、かと言って素直にお礼を言うのも気恥ずかしさに邪魔されて、気付けば私はただ無言でタオルを彼の手から奪い取っていた。そのまま水源地である両目を、柔らかいタオルでがしがしこする。 涙が出た。拭いた側からやっぱり、出てくる。なんて厄介なんだろう。 「いい加減泣き止めよ」 「…っ、さすが、かんだ」 「あ?」 「タオル常備とか、流石だよ」 「普通だろ」 「普通じゃない、私持ってないもん」 「お前女子力ねーもんな」 馬鹿にしたような口調のクセに、あったかみが有るなんて反則だよなあ。考えながら震える声帯を無理矢理開く。こりゃ、白雪姫の葉書も真実味を帯びてきたね。あれ、シンデレラだっけ。 気の抜けた言葉に比例してか、ここぞとばかりに口内に侵入してきた窒素や酸素、アルゴンなんかは妙に生ぬるかった。きっと目の前で私に対して悪態を吐く、この男が全て悪いんだ。分かりきっていた事を確信しても涙が止まってくれないらしい。 どんどん、どんどん落ちてゆく。 その度ネイビーを目の端にあてがっても、神田に見られないように俯いても、次の瞬間に何かが変わるなんてミラクルは起きなかった。 「北海道とか、とお、い…し」 「そうか?」 「そ、だよ。寒いんだよ」 「お前寒がりだから凍え死ぬだろうな」 「うん」 「よし、一緒に行くか?」 「凍え、死んでなんてやんねっ、ばか」 ばかばかばか。一人地元に残りますくらいの根性見せろよ、とは言えなかったけれど、凄く強く、思った。 でも思った瞬間に、神田はまだ泣き止まない私の頭に鋭い空手チョップを見舞ってきやがったから何か涙も思考回路も一瞬吹っ飛んだ。ヤツは読心術でも使えるんだろうか。 脳内に響く警報に従って身構える。けれどそれは不必要だったらしい、神田は私を目を細めてて一瞥してきてそれからくるりと向きを変えた。まるで安っぽい青春映画のラストシーンのように、無駄に規則正しいリズムで。 それが別れの合図と、悟った時にはもう神田の背中はゆるゆると発進し始めていた。このまま終わりでいいのかと、そう強く疑問に思って声を張り上げようとした。 したけれどかき消された。何故かって、私より一瞬間だけ早く神田がその艶やかな声音を出力したから。だから僅かな差で先手を取られた私は必然的に黙るしかなかった訳だ。なんだか情けないけれど。 「それ、絶対返せよ」 「え?」 「俺のモンなんだ、お前がちゃんと返しに来い」 こちらを振り返りもせず言い放った神田と相反するように、私は彼の背中と手の中のタオルを交互に見詰める。片手をひらひらと振る彼の背中はみるみるうちに小さくなっていった。なるほど神田も、私と離れる事を少しくらいは寂しく思ってくれているらしい。 余計悲しくも嬉しくもなり、思わず肺に思い切り空気を溜めて一息に叫んでいた。ばいばいくらい、言えよ馬鹿!なんて随分安っぽい台詞だとは分かっていたものの、声に出さずにはいられなかった。まあ、随分小さくなってしまっていた神田からの返事は窺えなかったけども。 一度大きく息を吐いてから、神田の置き土産の感触を掌に染み込ませるように撫でてみた。いつ返しに行けるだろう。来週とか、再来週でいいかな。 私の雫を存分に吸収して、心なしか重い気がするハンドタオルを右手でぎゅうっと握り締める。 もうコレは必要ない。不思議なことに私はすっかり泣きたい思考から脱出していた。どうやら涙も底を突いたようで、もう流そうとしても無理みたいだ。ただ時間が直線的に流れていくのがもどかしい、とか思ってみたり。 あいつのグッド・バイ (20120510) |