僕の世界は、曖昧でぼやけている。 それは思わしくない視力の所為なのか、それとも自分自身で嫌になるくらいに弱々しい態度と女々しい性格の所為なのか。自分でもよく分からなかった。 ただ僕の視界は、無条件でぼんやりと像を結んでいる。だから眼鏡やコンタクトといった小さなガード無しでは、自分から他人を見分けられないし、自己表示する事もままならない訳で。 でも、そんな中でも僕が見分けられる唯一の存在が彼女だった。 彼女ならばどこにいても、どんな人混みの中にいても見付けられる、走り寄る事が出来る。そう思っている。 それは、彼女が何時も僕を呼んでくれるから。鈴の音のように心地良い高めの声音で、僕だけの名前を呼んでくれるから。 だから僕の視界は、その瞬間だけは霧が晴れたようにすっきりと広くなるのだ。 彼女がいるから僕はいる。最近ではそんな出過ぎた考えまで抱くようになっていた。 でもそれと相対するように、ふと思う。もし彼女が僕から去っていってしまったら、と。 それはそれは考えるのも恐ろしく、目を閉じてしまいそうになる。 でも、有り得ない事ではない。 いつ離れていってしまうかなんて、神様でも分からないだろう事を、僕が分かる筈がない。 いっそ、早い内に僕から離れていってしまおうか。そんな小狡い考えに襲われた事もある、何度もある。 何時かは壊れてしまう関係なら、少しでも傷が浅いうちに終わりにしてしまった方が良いんじゃないか。 そう考えるのも、考えるクセに実行には移せないのも、きっと僕が女々しいという証拠に他ならない。ああ、いっそ彼女が僕を突き放してくれればいいのに。 なのに、また聞こえるではないか。 「明音くん、明音くん!」 彼女の綺麗な声が、沢山の生徒が行き交う廊下を縫うようにして近付いてくる。僕の鼓膜を叩く。 今日こそは、今日こそは彼女から卒業しよう。 きっと脆いであろう決意を抱えて、わざと彼女の声が聞こえないようなフリをしてみる。 するとどうだろうか、僕の視界に、彼女の白くて細い手が写り込んできた。 沢山の同級生たちの頭に紛れてしまいそうになりながら、でも確かに高い位置に掲げられた彼女の手。 彼女はそんなに背が高くない。 もしかしたら、僕に気付いてくれるようにと背伸びをしているのかもしれない。 そんな、それは自惚れだと言われても仕方ない考えを抱いた。それと同時に何故か、目頭が少しだけ熱くなった。 「明音くん、柳明音ー?」 続けて、また僕の名前を呼ぶ声。 もう無視は出来ない…というよりしたくないと、思うより先に僕の足は勝手に彼女の方へと動いていた。 結局、彼女を突き放すなんて到底無理な話だったのだ。 そう思いながら彼女との距離を縮めていく。彼女の嬉しそうな表情を見、僕は一生自分からは彼女との繋がりを断ち切れはしないだろうと、何となく予見してしまった。 「明音くん、聞こえなかった?」 「ごめんね、人が多くて」 「いいよ、だって結果的に私に気付いてくれたもん」 ふふ、と廊下の真ん中で笑う彼女。 思わずその頭を撫でてあげたいなんて考えてしまう僕は、もう引き返せないところまで来ているのだと思う。 でもいいかなあ、彼女がこうやって笑ってくれるなら。それだけで僕は幸せになれるのだから、とも思う。 彼女に控えめにシャツを引っ張られて、そのまま廊下の脇に移動する。 相手の頭を撫でてあげたいと思ったのはどうやら彼女も同じだったらしく、不意に白い手が伸びてきて僕の頭をゆっくり撫でた。 「明音くん、背伸びたね」 「そうですか?」 「あ、敬語、駄目って言ったじゃない」 「あ、すみませ…ごめん、」 「あはは、明音くんおもしろい」 また彼女が笑う。 その笑顔はふんわりと軽くて、手を離せばガス風船のように気流に流されて飛んでいってしまいそうで。確かに不安にもなるけれど、でもそれと同時にとても満たされた気分になる。 彼女が僕に笑顔を手向けてくれる、今この一瞬が大切で大切で、宝箱に閉まって自分だけが鍵を持っていたいと思った。 「明音くん、明音くん」 「え?」 「もう、聞いてる?」 「あ、ごめんぼーっとしてて」 彼女は何時も、僕の名前を二度呼ぶ。そしてその時だけ、僕の視界は開けるのだ。 ああ、何度断ち切ろうとしたって無駄。 彼女の美しい声がある限り、そして彼女が僕の名前を声に出す限り無駄だ。そう、だから僕はまた、あなたの所為で今日を幸せに生きてしまうんだ。 ポロネーズ午後五時さまに提出 (20120311) |