彼女に初めて会ったのは、シンドリア建国の1か月前だった。それまでシンに妹がいるなど露ほども知らず、もう少しで国が出来るという重要な時期に突然シンドバッドが我々の眼前から姿を消したこと、その一週間後に何食わぬ顔で彼が見知らぬ女性を一緒に連れ帰ってきた事には驚いた。特にシンドバッドは建国間際になって怖じ気付いて逃げたのではないかとも考えた私にとって、彼の蒸発からの女性と連れ立っての帰還は目玉が飛び出るかという程の衝撃を孕んでいたのだ。

勝手に出て行くなんて!と怒り喚いた私たちとは正反対に、その時シンドバッドはとてもとても幸せそうに表情を崩していた。今思えばきっとそれは、隣に別れ別れとなっていた妹がいたからなのだろう。そしてそのシンに手を引かれつつも戸惑いの色を浮かべて辺りを見回していた妹というのが、彼女だったという訳だ。

彼女の名前はなまえといった。よく笑いよく働く女性だった。当初、仮にも姫宮という地位を貰い受ける彼女はきっと傲慢で貪欲になるにちがいないと、そう思っていた。
だがなまえは違った。自分がシンドリアという国の姫になる事などまったく知らないかのように、なまえは他の者と同等、またはそれ以上に汗を流しながら建国の準備を手伝っていたのだ。

日の光を浴びて嬉しそうに輝く黒青の髪、それに視線をまぐわすのを躊躇ってしまうくらいに深い黄金色の瞳。シンと瓜二つのようで、すこし違った。話し掛ければ比喩でなく花のように顔を綻ばせて「なあに?」と言ってくれる。優しくて美しい彼女。私が惹かれていったのも頷ける話だろう。そして同い年という事も幸いしたらしく、彼女と私がお互いに甘く大切な存在となるのにはそうは時間はかからなかった。

姫宮だというのに街に下り新しく流れてきた民に笑顔で花を分け与える彼女は、シンドリアの誇りであり象徴になっていった。まるでシンの目指す理想を一人で体現したかのようななまえ。彼女に私だけでなく、国民誰もが夢中だった。眩しかった。愛らしく優しい、私のなまえ。何があっても彼女を守ろうと、そう決めていたのに。
なのに私は、護れなかった。

ある日突然、彼女は血を吐いて倒れた。建国から数年が経っていた。医師からの診断を仰げば、初老のシワだらけの顔をゴミのようにくしゃりと歪めて静かに言葉を宙に浮かべた。「もう手遅れでしょう」
その残酷な一言は今でも私の鼓膜にこびり付いている。目の前が暗くなった。そしてそこから、彼女の闘病生活は始まったのだ。




「…なまえ、」
「ん?」
「…何でもありません」
「ええ、気になるよジャーファル」
「大した事じゃありませんから」


ね、と言いながら静かに目を瞑る。
もう、あの時とは違う。呼び掛けても、なあに、と首を傾げて笑ってはくれないのですね。

夜も十一時を過ぎ、シンドバッドから渡された不老不死の薬への恐怖に眠る事が出来ない彼女に添い寝を提案してからもう一時間が経っていた。いまだに眠る気配の見せない彼女に内心溜め息を吐いてから、何時の間にかずれていた白いタオルケットを右手でゆっくりと持ち上げる。そのまま彼女の細い肩に掛けてやれば、私の目の前にはようやく笑顔が広がった。ああ、安心する。何故なまえが微笑むと、この世界の全ての色彩が濃くなるのだろう。


「優しいね、ジャーファル」
「このくらい当たり前です」
「…眠れなくてごめん、仕事もあるのに」
「別に構いませんよ」


私もあなたの横にいれて嬉しいですから、と微笑み返せばなまえは小さく幸せだと呟いて睫毛を伏せた。その儚げな美しさに、思わず目を伏せる。彼女は昼間よりも夜の方が似合う、というのは前々から感じていた事だが、いま正にそれを痛感した。

彼女の髪が暗闇に溶け込んでいるのか、はたまた闇が彼女の髪に溶け込んでいるのか判別が付かないくらいの濃紺の中に、透き通るような黄金の瞳が浮かぶ。

その様は、背中が粟立つ程に美しかった。さすがはシンの妹である。そしてその兄でさえ見る事はないであろう夜中のなまえを私一人が見詰めているのかと思うと、情けなくも優越感で一杯になった。今はそんな俗な感情などに身を委ねている場合ではないというのに、私は。私は最低な男だ、と卑下してみても別に現実が変わる訳ではないのだが。

自分の思考の余りのくださらなさから大きな溜め息を吐こうと肺を空虚な窒素で一杯にしたその瞬間、謀ったかのようになまえが再び声を上げた。「やっぱり眠れない」彼女はそう言って小さく寝返りを打つ。眉間には少しとはいえシワも寄せていた。


「無理に眠らずともいいのですよ」
「うん、でも…」
「今日はあんな事があったんですから、眠れないのも当然です」
「え?」
「は?」
「…私が眠れないのは兄様の所為じゃないよ」


至って真面目な面もちで繰り出された彼女の言葉に、再び「は?」と短い声を上げていた。

だってなまえはそもそも、今日はシンとのやりとりが頭から離れなくて一人でいるのは恐ろしいからと言って私を頼ってきたというのに、眠れない理由は兄様ではない、とはどういうことだ。他に何か彼女を煩わせる出来事でもあったのだろうか。だが仮にあったとしても、不老不死の話題以上に残酷な出来事であったのだろうか。

今度は私が眉をひそめて考える仕草を示すと、なまえは何故か躊躇うような表情を零してから口を開いた。ジャーファルの所為だよ。と。
は?私のせい?思ってもみなかった返答に声も出せずに瞬きを二度繰り返す。何度瞼を持ち上げても、この部屋の暗闇も彼女の瞳の美しさも、それに彼女の短命も変わることなどなかった。


「何故です?」
「…だって」
「だって?」
「せっかくジャーファルと一緒にいれるのだから、寝てしまうなんて勿体無いでしょ」


少しだけ尖らせた唇からは驚くくらいに可愛らしい台詞が飛んで来て、正直心臓に穴が開くかと思う程に痛くなった。何故、彼女なんだろう。何故なまえが死ななくてはならないのだろう。
世の中は理不尽だらけで、汚いもので溢れ返っている。ただその中でも彼女が微笑めば、一斉に世界は美しくなる。それなのに、彼女がいなくなったらこの世界は一体どうなってしまうのか。濁ったまま、もう何色にもなれないのだろうか。

一瞬、彼女にあの木箱の中に入っている薬を無理矢理にでも飲ませたいという衝動に襲われた。それはどこか狂気と似ていて、自分の無力さと弱さを心から憎らしいと思った。視線の先には今も、神々しさまでも感じさせる程の美を秘めた彼女が私を見透かすように微笑んでいる。美しい、としかもう言葉が出て来なかった。

お願いだからそんなに優しい瞳で見詰めないで欲しい。私は君を病魔から守れなかった、と言うのに。




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