彼女の部屋の扉を通り掛かったその瞬間、中から激しく咳き込む音が偶然にも聞こえてきた。一気に自分の血液が冷たくなる感覚を覚えて、まさか、と思わず声を上げてしまった。そして気付いた時にはもう私は、閉じていた部屋の扉をノックも何も無しに開けて最愛の彼女の元へと駆け寄っていた。

彼女は、なまえはどうやら吐血してしまったらしい、私の存在などまるで気付かないようにして自分の手のひらをただ静かに見詰めるその姿に、何故か鳥肌がたった。が、何時までもぼーっと見ている訳にもいかない。素早く寝台のそばにしゃがみ込めば、漸くその美しくもくすんだ黄金と目が合った。


「なまえ、大丈夫ですか?」
「え?あ、ジャー…ファル、いたの」
「貴方が咳き込んでいるのを聞いて駆け付けてきたんです」
「そう、…ごめん、気付かなくて」
「いえ。それより早く手を拭きなさい」


それとも、まだ苦しいのですか?
左手を伸ばして常備されている白く清潔な布を手にとりつつ、彼女の顔色を見る為に下から覗き込む。いつもより更に青白いと思った。

ただなまえはもう大丈夫と言って私に一見平常通りの微笑みを投げかけてくるものだから、私は首を捻らずにはいられなかった。この様子は、おかしい。いつもなら具合が悪い時には悪いと正直に言う彼女が、こんなにも青ざめた表情で恋人に微笑みかけるだなんて。何かストレスになるような事でもあったのかと尋ねようと口を開く寸前に、彼女は先を越すかのように声を発した。


「兄様が、分からなくなったの」


とてもか細い声だった。小指の爪ですら引っ掛けてしまったなら切れてしまうのではないかと思うくらいに、弱くて小さい。

普段の凜とした声音からはかけ離れた音や、まさしくそれで紡がれた言葉の不審さに眉根を寄せたのと、彼女の下半身を覆う白い布団の上に何か小さな箱が乗っている事に気付いたのと。それらは本当に同時で、そして鮮明に私の鼓膜や網膜といったあらゆる膜に刻みついた。やけに、強く、印象に残ったのだ。


「シンがわからない…とは?」
「分からないの。何もかも。それでいて、強くて怖い」
「私にも分かるようにお願いします」
「…死ねない」
「は?」
「不老不死に、なれって」


この薬を飲んで、死ぬな、って。
震える口蓋を隠しもせずに言いながら、彼女はその木箱を指差した。一瞬、空気に溺れた。比喩でなく、本当に溺れたと思ったのだ。まるでこの大気が私を揶揄するように、一時的に酸素の量を減らしているのではないか、と思わずにはいられなかったのだ。

なまえは私の動揺の色を見てか、小さく息を吐いて「笑っちゃうでしょう」と目を伏せた。いや、笑えない。そもそもそう言うなまえの目だって、全く笑ってはいなかった。


「不老不死など…シンが、本当に?」
「効き目は保証する、って言ってた」
「そんな。そんな物がこの世に存在するなど…」
「うん、もしかしたら嘘かもしれない。でも、兄様のあの目は確信を持ってた」


淡々と、まるで他人事のように言葉を発するなまえの細い指先が、薬が入っているという木箱の細かな彫刻を滑るようになぞる。

不老不死の薬などにわかには信じ難いが、シンが彼女に与えた物というのだったら話は別だ。彼はなまえを本気で可愛がり哀れんでいる。だからこそ、中途半端に希望を持たせるような事は絶対にしないし言わない。それはこの兄弟の傍にいれば直ぐに分かる事だ。そのシンが、不老不死の薬と言ったたのだ。無論自分で試した訳ではないだろうが、恐らく本当に死なずの薬なのだろう。
それでいて、シンは。


「貴方に飲め、と言ったのですか…!」


黙り込んだ彼女の瞳に恐々とした色が浮かんでいるのは、おそらく見間違いではない。だからこそ容易にその沈黙が、私の質問に対しての肯定を意味する事は分かった。

なんて、なんて残酷なんだろう。身震いをしてしまいそうになるくらいの恐ろしさの所為で、思わず彼女の苦しそうに起こされた上半身を抱き締めていた。ジャーファル、と今にも折れてしまいそうな音の自分の名前が耳に滑り込んでくる。ああ。彼女はこの細い肩で、どれだけの恐怖を受け止めた事か。


「…兄様が、お前は生きてくれ、って」
「…貴方もそれで、生きたいのですか」
「生きたい、けど、死なないのは、嫌」
「……」
「ねえ。ジャーファルも、ジャーファルも私に不死になって、欲しい?」


弱々しく耳元で囁かれて、無意識のうちに目を閉じた。
本音を言えば私だって、なまえに生きていて欲しい。当たり前だろう、彼女は私の愛おしい命なのだから。それこそ、こんなにも早く生を散らさなくてはいけない彼女をどうにかして助けてやりたいと、日々文献を漁るくらいなのだから。

しかし、しかしそう思っているからと言って、首を縦に振りはしなかった。否、肯定したなら彼女をもっと傷付けてしまう気がして、出来なかったのだ。その代わりに、掠れた声で「いいえ」と漏らす。すると、私の背中に回っていた彼女の白い腕が、ぎゅっと力を込めたのが感じ取れた。
そうだ、私は正しい。これ以上彼女をひとりになどさせてはいけない。


「わたし、ジャーファルが好き」
「ええ」
「だから、私はジャーファルが死ぬところなんて見たくないよ」
「…ええ」


それは私だって同じだ、と心中にだけ反論を浮かべた。
シンは確かに残酷だ。彼女をたったひとりにしようとしている。何千年経っても死ねない、という重い枷を嵌めようとしている。
だがそれを言うなら、なまえだって十二分に残酷だ。私に自分の死を看取らせようとしている、彼女だって。

腕の中の彼女に掛からぬように、弱い吐息を零した。




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