「兄様、そんなに慌てて何かあったの?」


何の前触れもなく開いた扉の向こうに息を切らして現れた兄は、珍しく頬を紅潮させ思い切りの良い笑顔を私に見せ付けるようにして浮かべた。

通常、私の部屋を訪れる時の兄の顔はやるせなかったり、寂しそうだったり悔しそうだったりと決して明るいとは言えない表情ばかりなのに、今日は何がどうしたことか。
扉を閉める間も溢れんばかりの笑みを広げる兄、シンドバッドを小首を傾げて見詰めると、催促するまでもなく彼の口が開いた。まあるく、嬉しそうに。


「喜べ!なまえ、薬だ!」


そう言って兄は私に、今まで後ろ手に隠していたらしい長方形の木箱をずいと差し出してきた。黒い側面には見たこともない花が細かに彫ってあった。

なるほど。くすり、ね。シンドバッドにバレないように心の隅だけで息を吐く。
私の病状が薬などで収まるとは到底思えなかったし、兄だってそれを重々承知していたからこそ今までヘタに薬の類を持ってきたりはしなかった筈なのに、何故今頃になって。

どうせ効きはしないのに、という皮肉混じりの言葉は、少しだけ迷った末に喉元に留める事にした。折角の兄の気遣いを無碍にしたくなかった、という理由ももちろんあるが、それともう一つ、彼の表情が本当に本当に晴れやかだったから。だからもう手遅れであると一番わかっている私自身ですら、思わずにはいられなかったのだ。この木箱の中身はもしかして、本当に私を治してくれるのではないかと。


「ありがとう、兄様」
「ああ。断言するよ、これを飲めばお前は良くなる」
「断言するって…そんなに凄い薬なの?」
「まあな、手に入れるのは苦労したが、効き目は約束する」


いつになく自信たっぷりな兄さんに、自然と口元が緩んでゆく。こんなにも意気揚々としている兄は久しぶりだ。血を分けた彼の笑顔は、私よりも幾分か明るい黄金の瞳は、この手の中の木造の箱などよりも余程効果があるような気がした。

でもその笑顔は、実際は薬には程遠い、残酷な残酷なものだったのだ。と、気付いたのは次の瞬間に私の鼓膜を破らんばかりに耳に流れ込んできた言葉のせいだった。


「なんせ不老不死の薬だ、これでもうなまえ、お前が苦しむことはなくなる」


一瞬、息が止まった。
不老、不死。ふろうふし?頭の中で兄が笑顔で放ったその単語が彗星のようなスピードで行ったり来たりを繰り返す。どんな攻撃をしても崩れないであろう彼の笑顔が、急に恐ろしくなった。それと同時に、いま私の手の中にある木箱もとても恐ろしい物に見えた。大袈裟でなく、爆弾を抱えているような心境になる。

恐ろしい。不老不死の薬。老いないし、死なない。つまりこれを飲んだら私は死なない。いや、死ねないのだ。
あまりの衝撃の所為かそれとも兄が感謝しろと言わんばかりに仁王立ちをしている所為か、急速に喉が乾いて口を開いても声が出なくなった。その代わりに、チクチクと窒素と酸素が容赦なく刺さる。

兄様は私に、この薬を飲めって、そう言うの?
声にならない叫びが全身を駆け巡るのを感じつつ、なんの翳りも見えない黄金色の双眸をただ呆然と見詰める。満足げに微笑む彼を見れば、私の疑問など愚問に過ぎない事が簡単に理解できた。恐ろしい。兄は恐ろしい生き物である。ふと、達観ともとれるような考えが脳裏を過ぎ去っていった。


「に、いさま、わたし、あの」
「なまえ、それは俺がお前の為を思って探し出した薬だ。もちろん飲んでくれるな?」
「でも、わたし」
「なまえ」
「…はい」
「俺はたったひとりの妹が死んでしまうなど、考えるだけで気が狂いそうなんだ」


だから優しいお前は、生きてくれ。
そう言って兄は、爽やかな笑みを浮かべる偉大なる兄は、私の頭に柔らかく手のひらを載せた。頭上に添えられた確かな人間の温度を心地良いとも寒々しいとも感じつつ、反論は言うまでもなく、首を横に振ることさえできない自分を恨む。心臓が悲鳴を上げていた。

人徳という魔力をたっぷりと含んだ兄の言葉に逆らう事の出来る人間なんて、恐らくいない。でも、逆らいたい、とは思うのだ。
矛盾する気持ちと行動に息が詰まるような感覚を覚えながら、木箱の上にそっと手を重ねる。私の命みたいに、この中の薬も薄れて無くなってくれればいいのに。


「じゃあ、すまないがもう俺は公務に戻るよ」
「あ、はい…忙しいのにわざわざ、ありがとう」
「可愛い妹の為さ。いいか、なるべく早めに飲むんだぞ。時間はあと僅かなんだ」
「…そう、ね」


今日初めて焦りの色を浮かべた兄だったけれど、その後は直ぐに身を翻して悠々と部屋を去っていった。一気に侘びしくなった空間でひとり俯く私を、ジャーファルが見たらなんて言うのだろうか。顔を上げてすこし考えて、考える事に疲れて、またうなだれた。すると落ちた視線は必然的に木箱に寄ってゆく。今すぐ、中身まで粉々になるくらいに壊せればいいのに、それなのに指先が震えて手放す事すら出来なかった。

こんな薬が存在する事が恐ろしい。兄の思考も恐ろしい。深く深く息を吐いて、白いシーツの上に塗り広げてゆく。
もし私が不老不死になれば、確かに兄をはじめ皆が喜んでくれるのだろう。無論、私だって本当はこのまま死にたくない。暖かい彼等とより長く生きていけるのだったら嬉しい。

けれど。でもそれは、裏を返せば、兄やジャーファルが老いて死んでしまっても、この世界に戦争が起こっても、何があっても死ねないという事なのだ。老いる事もなく、大好きな人達が死んでゆくのを看取らなくてはならないなんて、そんなの耐えられる筈がないだろう。その事実に彼、シンドバッド兄様は気付いているのだろうか。絵に描いたような微笑みで、私に死よりも重いものを掛けようとしている事に、兄は。

ぐ、と唇を噛んだ。死にたくない。でも、死を選択したい。
体の中で正反対の思いがせめぎ合って、気管までもを占領してゆく。途端に息が極端にし難くなって、身体全体で咳き込んだ。掠れた奇妙な雑音に乗じて少量の赤い液体が手のひらに付着するのを、他人事のようにぼんやりと見詰めた。ああ、そうだ。もう私には時間がない。

目を瞑って、兄と、そしてジャーファルの顔を思い浮かべる。生暖かい南国の風が、兄様の笑顔のように私の頬を横殴りにしてゆくのが何となく憎たらしいと思った。三日前の新月の夜に貰った言葉を静かに静かに思い出す。
もってあと、1か月でしょう。




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