『神がお怒りなのだ』



はあ、とひとつ大きく溜息を吐いた。天井を仰ぎ見れば、たった今自分が零したばかりよ溜め息が空中にふわふわ浮いているような気がした。俺もとうとう焼きが回ったか。今度は心中だけで深く吐息を零して、信頼する家臣から無情にも突きつけられた今日までの書類に目を通す。頭が痛くなる文字量のそれに、本日何度目かの辟易をした。

今日もシンドリアは雨だ。この気候が、俺の頭を悩ませる原因になっていた。
雨天特有の重く纏わり付くような空気を肌で感じながら、今の心境とほぼ同じ色のインクを浸し羊皮紙に署名を滑らせる。この憂鬱を晴らせるのはまさしく日光だけなのだが、そいつはいつになったら出てくるのか。この国は俺が、作り上げたはず、なのになあ。いつになく重たい頭に耐えかねて瞼を下ろすと、なまえの姿がぼんやりと浮かんでくる。いつだって瞼の奥の妹は、自分と似ているようで似ていない美しい瞳を伏せてはらはらと涙を流していた。俺が、泣かせたのだろうか。

自分の生まれた意味は何かと、彼女は問うた。


いかんいかん、今は仕事。はたと思い直して、重い瞼を持ち上げる。途端に視界はまた室内の有機的な明るさで満ち広げられた。それと同時に、なまえの姿も消える。残念なような、それでいてどこかで安心している自分がいて、これでよく一国の王を務められている物だと面白く感じた。

サラサラと、書類の末尾に署名を書いていく。たったそれだけの作業であるのに、酷く気力がいるように思えた。再び口から飛び出しそうになる溜め息を何とか抑えながら、筆を走らせる。ちらりと横目で残りの量を確認するが、しなければ良かったと後悔した程山積みだ。やるしかないぞ、シンドバッド。そう自分で自分を鼓舞していた時、コンコン、部屋の扉がクリアな音を立てた。反射的に扉を見やる。扉の向こうにいる人物は、なんとなく察しが付いていた。


「シン、ジャーファルです。今入っても?」


当たり、だ。思っていたのと同じ人物であったことに少しの安堵を交えて、入れと軽く返事をする。すると間もなく重厚な扉が開く音がして、その隙間から見慣れた銀糸の部下が入ってきた。いつもより更に険しい顔をした側近中の側近に、自然と自分の眉間にもシワが寄っていくのが分かった。


「なんだ、ジャーファル。そんな深刻な顔をして」
「実際深刻だからです。シン、分かってるでしょう?」
「…なんとなくな」
「雨が、続いています」


みなまで言わずとも分かる。いや、分かりきっていた。ジャーファルの二の句を待たずに、鈍色の吐息を深く吐き出す。こめかみがジクジクと痛む。何にかはわからないが、何かに追い詰められている気持ちになりそうだと思った。


「…分かっているさ」


そう、分かっているのだ。分かっているのだが、対処法が見つからない。どうすればいいと言うのだ。

今シンドリアは、壊滅の危機に瀕している。というのも、ここ10日間、雨天、それも豪雨と言うべき激しい雨が続いているのである。元々この国の天候は崩れやすく、スコールのような激しい雨が降ることも稀ではない。しかし、それは時々降ると言ったレベルの話であって、雨の後には必ず太陽が顔を出してくれていた。

それが今はどうだ、10日間、雨は一度もやみはしなかった。そればかりか勢いを増し続け、今や国内の河川は氾濫寸前、海は潮位と波浪がどんどん上がっていく一方なのである。これは由々しき事態だ。このままだと、この国は波に飲まれ消滅してしまう。それを察知しているのだろう、国民は皆怯えているようだった。当たり前だ、自然の脅威ほど、俺たち人間に当たりの強いものはない。何とかしなければと、考えてはみるもののどうにも策がない。それはこの国の優秀な文官である部下も同じな様で、深い緑のクーフィーヤを揺らしてジャーファルは困ったように眉根を寄せていた。


「何かいい案はないでしょうか。」
「それはこっちが聞きたいさ。何かないか。」
「うーん…。昨日の朝議の際にヤムライハが言っていた、天候を操る魔法はどうなりました?」
「あれか、ダメだったよ。何故かは分からないとヤムも言っていたが、効かなかったようだ。」
「そうですか…」


言葉尻をすぼめて言ったきり黙り込むジャーファルを他所に、窓の外では今も大粒の雨が容赦なく大地を叩きつけている。俺が途方も無い苦労をして、築き上げたこの大地を。そう思うとはらわたが煮えくり返りそうだったが、そんな感情を抱いたところでこの状況を打破できる訳でも無い。もう一度大きく肩で息を吐いてから、ソファに深く座り直した。


「何かしら手を打たなきゃいけないんだが、策がない。この異常気象の理由も分からないしな。」
「他国からの魔法の可能性は?」
「それは無いだろう、ヤムライハが言っていた。」
「そうですか…」


先刻と全く同じように言葉を紡ぎ終えたジャーファルを横目に、ヤムライハの泣きそうな顔を思い出す。只でさえかなりの魔導師でないと扱えない天候を操る魔法を、何日も持続させるなんてことは人間には無理だとヤムライハは言っていた。という事は、だ。この雨がもし故意なのだとしたら、人間でない存在が意図的にそうしている事になる。例えば、神や精霊などが。馬鹿馬鹿しい話だが、ただの天災と捉えるよりは希望があるだろう。そして、その説には心当たりがあった。


「なぁ、ジャーファル」
「なんでしょう」
「これは、可能性の話なんだが」


一度そこで言葉を切って、しっかりと目の前の部下を見やる。怪訝な顔をしていたジャーファルも、俺の雰囲気を見て真剣な話だと悟ったのだろう、キッと表情を硬くしたのが見て取れた。
ああ、この部下になら、大丈夫だ。信頼できる、なんとなくそんな風に改めて思って、 ゆっくりと息を吸う。気が付けば右手は、頭が痛いことを思い出させるかのように自分の額へと宛てがわれていた。


「この雨は、なまえが原因かもしれない」


出来ればこんな事、言いたくなかった。それは当たり前の感情である。ただ、言わざるを得なかった。今言わなければ、永遠にこの雨は止まない気がしたからだ。これは直感ではない、寧ろ確信だ。理由はないが、強くそう感じた。
余程驚いたのだろう、声も出せず目を見開いているジャーファルに向かって、もう一度言葉を紡ぐ。


「ここ数日毎日な、夢の中で、ジンたちが語り掛けてくるんだ。」
「…な、なんで、それがなまえと関係が…」
「まだ、はっきりとなまえの事だと聞いた訳ではないが」


そう前置きしてから、連日見ている夢の内容をジャーファルへ伝える。暗い空間で、ただ、フォカロルやらゼパルやらのジンたちが俺に一言囁くだけの単調で不思議な夢。言いたいことがあるなら俺の脳内に直接話しかけてくればいいのだが、夢から醒めた後にどんなにその言葉の真意についてジンたちに問うても返答は一切なかった。

ただ、今ならその意味が分かる気がした。


「『神がお怒りなのだ』とジンたちが俺に囁くんだ。『彼女を奪うな』とも。」


もしかしたらこれは、なまえの不老不死の件に関係しているのではないか。声に出さずとも、ジャーファルには俺の言わんとすることが伝わったようだ。その証拠に、もしかして、とか細い呟きが湿気の多い空気に浮かんでいった。

もし、これがなまえのことを指しているのだとしたら。だとしたら、酷く残酷じゃないか。神は、彼女が天に召されることを望んでいるという事だ。つまり、自分達の側に置くために、彼女が下界に留まることをどうにか阻止しようとして、この雨を降らせていると仮定したら。彼女を死という選択へ差し出せという事である。つまり、俺に、妹の命と国民達の命を選べと、言うことだ。

可能性が確信に変わった。目の前が暗くなるような感覚に襲われる。ヤムライハの魔法が効かないのは当然だ、なんせ、相手は神なのだから。雨は今も、止まることなど知らないかのように降り続けている。

辻褄が合ってしまうことに寒気を覚えるのは初めてだった。


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