今日も土砂降りだ。
深夜0時、軽いため息とともに部屋を出た。シンドリアの夜は猫でさえ歩くことを戸惑うくらいに美しい闇と静寂に包まれるのだが、雨はそんな慣習など御構い無しのようだ。

ザーザーと雨音が私を追い立てるように降っているのを横目で捉えながら、重厚感のある扉をそろりそろりと開ける。木造の扉であるが故か、開ける際に軋むような濁音が上がったが大して気にはせずに、ドアの隙間から顔を出した。中には、私が今日訪ねて来た人物、この国の完璧なる主が少し驚いた顔でこちらを見ていた。


「なまえ、どうした」

その言葉には、普段はいきなり兄の部屋を訪ねるなど失礼なことはしないのに何故、や、ノックもせずにドアを開けるなどお前らしくない、というような棘が含まれているような気がして、思わず背筋を伸ばす。勿論、こんな夜更けに自分を訪ねてくるなんてどんな理由だという驚きも感じられた。

「すこし、話があって。ごめんなさい、こんな時間に突然」
「…気にするな。こちらにお座り」

そう言って、私に自分の前のソファを勧める兄の顔からは、既に驚きや私を責めるような響きはなくなっていた。
順応するのが異様に早いのは兄の器の大きさを表している、と私は常々思っている。自分の非常識でも、それが他人の常識であれば受け入れ、認める。私には中々出来ないことだ。それを容易に、まるで呼吸するかのように自然にやってのけるシンドバッドはやはり王たる資格を持つ者なのだと、真紅のソファに沈みながらそこはかとなく考えた。


「体調はどうだ?」
「まあまあかな。雨で気圧が狂ってるのか、最近頭痛が酷くて。」
「そうか…何かお茶でも出すか?」
「ううん、大丈夫。」


お前を心配している。
兄の深い黄金の双眸が、そう訴えているのが分からない程鈍感ではない。ただ、今だけは鈍感なフリをして、表情を崩さずにしっかりと兄の目を見つめる。膝の上に置いた拳をきゅっと握る。食い込む爪の痛みに、生きていることを感じた。


「今日は、仲直りに来たの」
「仲直り?」
「そう、5日前の事があってから、ろくに顔も合わせていなかったでしょう。でも、やっぱりそれは寂しくて。兄様はわたしのたった一人の肉親だから、仲直りがしたいの。」


湿気と交わって消えてしまいそうな正直な気持ちを、必死にかき集めて目の前の相手に届ける。兄様は一瞬、意外そうな表情を見せたもののまたすぐ元の穏やかな表情に戻った、ように見えた。


「そうだな、あの時は、なまえ、すまなかった」


意外な兄の言葉に、思わずえ、と声がでた。まさか、私に薬を飲ませる事が正義と信じて疑わない兄が素直に謝罪をするとは。肩透かしを食らったような気分で、どんな顔をしたらいいのか一気に分からなくなる。

兄は他人の常識を受け入れる器がある。それは認める、正しい、その通りだ。しかし、一人だけ例外がいた、それが私だ。兄はこと私に関しての事になると、いつも周りの「常識」を蹴散らして自分の「非常識」を周りに認めさせるのだ。私がシンドリア宮に姫として入ることや、今回の不老不死の件がそれに当たる。
だから、本当に思ってもいなかったのだ、彼から、すまないなんて言葉が出てくるなんて。

聡い兄のことだ、そんな私の気持ちの機微など手に取るように分かっているのだろうが、彼は微笑みを崩すことなく、こちらを見つめ返していた。その瞳の奥にどんなものを隠しているかなんて、私には分からない。逆に、彼の眼は私の全てを見透かしているようで背中が粟だつ。でも、ここで目を逸らしてしまったら兄様の思う壺のような気がして、しばらくそのまま踏ん張ることにした。


「なんだ、俺が悪いと思っていないとでも思ったか?」
「っ、いや、……うん、そう、思ってた」


喉元まで出かかった否定をなんとか飲み込んで、思った通りに伝える。兄様の言葉が剣だとしたら私の言葉など紙よりも軽いけれど、それでも少しは伝わるところはあったのか、シンドバッド王の視線が私を外れ、窓の方へと流れていった。


「そうか。安心してくれ、俺はなまえに薬を飲んでもらうことを諦めてはいないよ」
「え、それじゃあ」


同じじゃない、と私が言うより早く、兄様の口角が上がった。そのまま紡がれる兄の言葉はどこまでも奔放で、柔らかいソファが体を飲み込まんとばかりに沈んでいく感覚が背中を走った。


「ただ、この間のような卑怯な手は使わない。しかしだ、お前の寿命を考えるとそんな流暢な事も言ってられない。だから俺は卑怯でない範囲で、なまえを口説いたり時には少し強引な手段に出ることがあるかもしれない。悪く思わないでくれ。」


お前を思っての事なんだ。
最後にそう付け足して、南海の覇王はにこりと笑う。再び、背中がぞくりと粟立った。

何も変わらないじゃないかと反論しようとはしたが、上手く言葉が出てこなかった。兄が約束を違えたことはない。だから、今後兄の基準にする卑怯のラインを超えるような強硬手段は本当になくなるのだろう。ただ、どこからを卑怯とするかは彼の匙加減であって私の裁量からはほぼ遠い可能性がある。可能性があるというか、ほぼ百パーセント遠いだろう。だって私たち兄妹の考え方は、180度違うのだから。

なんと言い返せばいいのかと脳内でぐるぐる言葉を探っている間も、兄様はニコニコと笑いながら頬杖をついてこちらを見ている。

「これじゃあ、仲直りっていうより改めての宣戦布告じゃない…?」
「ははっ、そんな事ないさ。俺はなまえと、俺と、この国が幸せになれるようにしたいだけだよ。」
「言ったでしょう、兄様。不老不死は、私にとっては幸せではないの」


分かっているくせに、この兄はわざと言っているのだろう。そう思い咎めるように口にした台詞も、シンドバッド王にはなんの効果もないようで、笑顔のまま受け取られる。でも、その皆を従える笑みのまま、この兄王は悪魔のようなことを囁ける人物なのだ。


「そうは言うが、お前もたまに思うだろう?なんで自分だけこんなに早く、と。もっと親しい人々と一緒にいたい、もっと笑顔が見たい、自分がいない世界が想像できない、自分の愛した人が自分以外を愛するようになっても、死んでしまっては何もできない。」


歌うように口にする兄は、危惧していたとおり、本当に悪魔そのものである。
今、彼が言ったような事を考えないと言ったら真っ赤な嘘になる。思う。毎日のように、その感情は押し寄せてくる。まるで波のように、押しては引いてを繰り返してくる。

何で私だけがこんなに早く死を受け入れなくてはならないの?何で私なの?私だってもっと兄様と、シンドリアの皆と、ジャーファルと一緒にいたい。大好きな人たちの笑顔をずっと見続けたい。私の死後の世界なんて想像できない、したくない。もし、もし、ジャーファルが。

「ジャーファルが、私以外の特定の誰かを愛するようになる姿なんて…」


気が付けば、立ち上がって感情のままに自分の気持ちを声に出していた。激しい雨音も、今だけは小雨のように静かに感じられる。私はこんなに醜い心を持った人間だと、兄様はきっととっくの昔に知っている。知っているからこんなやり方をしてくるのだと、唯一正常に働いているらしい脳のどこか一部分でぼんやりと思う。それと同時に、これが兄様の「卑怯でないやり方」なのだと、改めて自分と兄の考え方の違いを感じた。

私の考えを裏づけるかのように、逞しくしなやかな腕がこちらに伸びてきた。あ、と思った時には、その腕は私の背中に回っていて、視界ははだけた寝衣から覗く艶かしい肌色でいっぱいになっていた。いつぶりだろう、兄様に抱き締められるなんて。

彼の表情を確認したくて顔をあげようとしたが、私を囲う腕の力は存外きつく、代わりに分厚い胸板の奥から聞こえる心音を確かめるように額を寄せる。とくとくと、兄様の心臓の拍動を感じた。


「不老不死は辛い事だと分かっている。でも、死ぬのはもっと、辛いだろう?」


耳元でそう囁きかけてくる血の繋がった悪魔は、いまどんな表情をしているのだろう。再度そう疑問に思ったけれど、今度は顔をあげようとすることすら出来なかった。ただひたすら、この国の美しい王の、人間を動かす音に耳を傾けた。

「死…ぬ、のは、怖い。」

顔を上げられなかったのではない、しなかったのだ。今、兄様が悲しい顔をしていたら、絶対と決めた私の死が崩れてしまいそうで。目の前の覇王が突きつけてくる現実、つまり、規則正しい兄の鼓動は生きているから聞けることや、抱き締められて感じる温もりは死んでしまったら一切消えてしまうのだということは、私の体を裂いて遊んでいる。痛い、と素直に思った。


「ねえ兄様、わたしは何のために生まれたんだろう」


シンドリアを濡らし続ける雨粒の方が、私の数百倍、自分の生きる意味を知っているような気がした。ほろりと溢れた疑問と共に頬を駆け下りた涙は、雨の湿気と匂いの中に溶け落ちた。


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