一瞬の静寂のうち、正面のジャーファルの瞳が僅かに歪んだ様を、私は見逃さなかった。それでも、それを見ぬふりをしてゆっくりと微笑みを浮かべてみせる。なんて、狡い人間なのか。自己嫌悪の気持ちがむくむくと育つ傍らで、ジャーファルの次の言葉を大人しく待つ。

もし、私の願いを受け入れてくれるというのなら、私は今すぐにでも全てを終わらせよう。兄様とすれ違って辛い思いをするのはもう嫌だ。これからも分かり合えず、このままギスギスしたまま緩やかな死を待つくらいたらば、もしくは無理矢理不死にさせられるくらいならば、死んでしまおう。いや、死んでしまいたいのだ。ジャーファルにどれだけの負担をかけるかは分かっている。分かっているつもりだ。でも、でも。

もう耐え切れないの。

私の口蓋から、意識しない間にポロリと零れたのは弱音だった。いつの間に自分がこんなにも弱くなったのかは分からないけれど、どう飾るでもない、ただの音が言葉となって、何時もより重い空気に耐えかねたのかストンと落ちてゆく。

ジャーファルが、小さく息を吸う音が聞こえた。まるで何かを決意したかのような、ゆっくり、鋭い響きだった。


「許しません。そんな事、私がはいと頷くとでも思ったんですか?」


真っ直ぐに飛んで来た灰色の眼差しを、静かに伏せた睫毛で受け止める。勿論、思ってはいなかった。きっとジャーファルは拒否するのだろうと、分かっていた。分かっていてわざわざ言うなんて本当に、自分の性格はどれだけ曲がれば気が済むのか。自分自身でも呆れる程だったけれど、それでも矢張り、心の何処かでは期待していたのだ。ジャーファルが私の願いを、全て形にしてくれる事を。それが例えどんなに彼自身を傷付けるものだとしても、全て叶えてくれることを、なんて、私は自分の立場を兄のそれと勘違いでもしているのかもしれない。

自分で言うのも何だけれど、全くもって馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい、のに、胸が痛かった。心臓が締め付けられるように痛んで、上手く呼吸する事が出来ないのだ。

おかしい。こんなのは私ではない。私でないはずだ。何で。なんで今すぐ、私は死ねないの?死期を選ぶ事もできない。このままでは、永遠に死ぬ事が出来なくなってしまうかもしれないと言うのに。


「ジャーファル、わたしは」
「考えなさい」
「え?」
「…貴方より私の方が、今、何倍も胸が痛いはずです。目を逸らさずに考えてください」


まあ、きっとなまえのことですから、それもこれも全て分かった上で私を頼っているのでしょうけれど。
そう言ってジャーファルは静かに吐息を吐いた。

確かに、彼の言うとおりだ。自分の恋人に、殺してくれと頼まれたのだ。深く考えずとも、その要望が彼自身に傷を付け、そして受け入れ難いものであるかは分かる。否、分かっていた。でも、言ってしまった。私はただの、自己中心的な人間だから。本来なら我慢しなくてはいけない言葉を、安安と口に出してしまったのだ。

ゆっくりと一度、故意的な瞬きをする。一瞬だけ暗くなった視界の中で、見えやしない筈のジャーファルの銀色の髪の毛がキラリと光った気がした。何時もとは違って、寂しくて、寒い色だった。暖かみのある雪の色とは違う、まるで無機質な銀食器のような色。

…ああ、ごめんなさい。ごめんなさい、ジャーファル。

声には出さずに、心の中だけで深く頭を垂れて謝罪の言葉を紡いだ。
言葉に出来なかった理由は、ただひとつ。ここで謝ったら、きっとジャーファルは責任を感じて、悲しそうな顔で逆に謝ってくるのだろうから。だから、何事も無かったような顔で。まるで死ぬ事も生きる事も忘れたような表情を作って、無理矢理に首を縦に振るのだ。本気の願いだったことを、悟られないように。


「分かった」
「叶えられなくてすみません」
「ううん、いいの」
「はい」
「…ああ、でも代わりに一つ、いい?」
「出来ることなら」
「うん、今度のお願いは簡単よ」


ジャーファルを悲しませたくないとは思う。出来るだけ迷惑をかけたくないとも思う。今まで散々に世話をかけてきたのだから、当たり前だろう。でも、でも、逆に、ジャーファルにだけは、私の全てをぶち撒けてしまいたいとも思う。どうしたら一番良いのかなんて分からない。分からないからこそ、こうやって笑うしか出来ない私を、兄様が見たらどれほど幻滅することか。


「だきしめてくれる?」


少しだけでいいからと口にしながら、右の拳をぎゅっと握り込む。目を伏せたままである為、ジャーファルがどんな表情で私の言葉を受け取ったのかは計りかねるけれど、少なからず驚いた事だけは感じ取れた。ジャーファルがついと、息を飲むの音が聞こえたからだ。

改めて笑顔を繕ってから、生ぬるい南国の空気が充満する部屋の中で音もなく顔を上げる。右の手のひらがヒリヒリした。少し力を入れ過ぎてしまったのだろう。視線を落とすと爪の跡が薄っすらと付いた皮膚が、当たり前のように目に飛び込んできた。痛い。矢張り私は痛みを感じる事のできる、ヒトという生き物なのだ。永遠に生きる化け物などではない。そう、信じているし、これからも信じたい。信じたいからこそ、私は。


ふわり、と。一瞬にして、私の視界が真白に侵された。後頭部に暖かい人の体温がある。恐らく掌で頭を押さえられているのだろう。大人しく私よりも広く凹凸のない胸に重心を預けて、スローモーションのようなスピードで目蓋を下ろす。暖かい、ジャーファルの心音が鼓膜を絶えず揺らしてくれるのがこの上なく幸せに思えて、骨張った体に腕を回した。心の奥の方に確かに浮かぶ、寂しさと苦しさを織り交ぜたような気持ちは見て見ぬ振りをして微笑んでみる。

死ぬことと、死ねないことと。どちらも禍々しく、どちらも選択したくない事だと、私は考えている。でも、必ずどちらかを選ばなくてはならないのだ。いや、答えなんてもう決まっている。

私は死にたい。死にたいのだ、死にたいの、死ぬの、死ぬ、死。


「なまえ…?」
「…?」
「何故、泣いているんですか?」
「え、…あれ?私泣いてる…?あ、ええ」


どうやら知らない内に、涙が頬を通過していった、らしい。何故かは分からない。分からないけれど、漠然とした寂寥感だけが私の胸に渦巻いていた。そこはかとなく、けれど確かに私を支配する感情は留まるところを知らず、それは私の涙となって次々と外の空気に落ちてゆく。ああ、辛い。何が辛いって、そう、だ。

死ねばもう、ジャーファルにこうやって抱き締めてもらうことは出来ない。そう考えた途端、どうにも胸が苦しくなったのだ。矛盾の足音が廊下を跳ねるのを、否応無しに感じた。



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