「ジャーファル…大丈夫?」
「ええ。いつも通り美味ですよ」
「そう…」


なるべく音を立てずに銀のナイフをテーブルに置けば、なまえは良かったと言って寂しそうに微笑んだ。その笑顔にどうしようもなく胸が締め付けられて、私はゆっくりと二度、瞬きをする。静かな部屋の中に二人で浮かぶこの時間は、永遠にも刹那にも感じられた。

幸せなような、残酷なような。どっち付かずで愛おしい空気に何故か眉尻が下がる。彼女はそんな私の機微に気付いたのか、徐にその白い腕を私の肩口あたりへと伸ばしてきた。


「…ごめんなさい、ジャーファル」
「いいえ、私が好きでやっている事ですから」
「でも頼んだのは私だもの」
「引き受けたのは私です」
「…それでも、やっぱり申し訳なく思うの」


そう口にしたなまえの額には、うっすらとシワが寄っていた。ああ、彼女は私以上に沢山考え、沢山悩んでいるに違いない。そんな小さな確信が胸部を通過してゆくのを、何とはなしに感じ取る。と同時に、彼女をどうにかして幸せにしてやりたいと、彼女の願う事ならどんな事でも叶えてやりたいと、そんな盲目的な感情が浮かんだ。いや、もしかしたら私は日々、彼女に対しては盲目なのやもしれないのだが。


なまえの食事の毒味係。
それが今、私が政務と並行して毎日行っている務めだ。シンに薬を盛られそうになった、という話を聞いた日に、彼女に頼まれた仕事である。無論、即答で引き受けた。普通なら恋人に何を頼んでいるのだと怒るのかもしれないが、全く嫌な気は起こらなかったのだ。

それは恐らく、このまま私が毒味をしなければ彼女は物を一切口にしなくなるだろう、という自惚れに違い確信があったからだろう。考えて見れば当たり前だ、姫宮と言えど女性、そんな女性が実兄に睡眠薬を盛られたのだ。私がなまえだったとしても、もう食物など口に入れたくないと思うに違いない。

だから、こそ、だ。
だから、毒味などと言う役を頼まれても不快感は微塵も起きないし、寧ろ嬉しいとさえ思えた自分がいた。そう、本音を言えば私の内側には嬉しい気持ちが全面的に存在していたのだ。彼女が私を頼って、縋ってくれた事が。

けれど、毒味を始めてからというもの、なまえはしきりに私の事を心配し、申し訳ないと目尻を下げるようになった。引き受けたのも幸せに思うのも私なのだから罪悪感など感じないで良いのだが、きっと責務を感じずにはいられないのが彼女なのだ。そしてそんななまえだからこそ、私は無償とも言える愛を捧げているのだ。

そう自分の中である程度の考えが纏まると、言葉は案外すんなりと列を成して私の口蓋から出て行った。


「なまえ、気に病む事は何もないですよ」
「でも」
「貴方が栄養失調で倒れたりしたら、それこそ一大事です」
「……」
「だから安心して毒味を任せてください。ふふ、逆に私が口を付けた料理を貴方に食べさせるのが申し訳ない気がするくらいですよ」


ジャーファル、と。
少しだけ掠れた彼女の声音が、他の誰でもない私の名を紡ぐのが恐ろしく心地良かった。静かに笑みを浮かべてから、手元にあった、まるで何かを償うかのような豪奢な料理の入った食器たちを彼女の目の前に移動させる。

大丈夫、私は何よりなまえの意思を尊重します。
しっかりとそう口にすれば、彼女は丸く目を見開き、それから柔らかな動作で私の頬に己の手の平を重ねてきた。先程まで、肩口に乗らんと宙を彷徨っていた手だ。

透けそうな程に白い肌が、視界の端を焼き付けるようにひっそりと映る。自分で言うのは可笑しい気もするが、私は色白な方だと思う。そんな私とも比にならない位に白い彼女は、本当に病気なんだな、と、ぼんやりと考えてしまった。出来る事なら代わってやりたい。代わってやりたいが、そんな無理な願いを声に出したところで彼女はこれっぽっちも喜びやしないのだ。


「ジャーファル」
「はい」
「私は幸せ者だね」
「…そうですか」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「好きよ、ジャーファル」
「ええ、分かっています」


短い言葉のやり取りが、ナイフの立てる音が浮きそうだと思うくらいにしんとした静寂に包まれた空気を行き来する。ああ、本当に今彼女を失ったら、私はどうなってしまうのだろうか。シンはどうなってしまうのだろうか。

シンドバッド自身は、なまえに薬を盛った事を後悔はしていない様子だった。寧ろそう、どこか吹っ切れたように、悪びれもせずに優然と公務を果たしてさえいる。我が主ながら一抹の恐怖を覚えた。いつか、いや近いうちに「本当の実力行使」を強いるのではないかという、恐怖。今のシンならばやりかねない。何せ彼女の余命というやつは、もうあと二十日と少ししか残ってはいないのだから。

痛む臓器には見てみぬフリをして、彼女に気付かれないように唇の間からそっと吐息を吐き出す。と、ふと正面の彼女の目が細くなった。何時になく、真摯で澄んでいて、それでいてい瞳がそこにはあった。どうした事かと、左頬に添えられている彼女の小さな手を私のそれでそっと包み込んでみる。

何故か、寒気がした。底の知れない悪寒、が。


「ジャーファル、私、お願いがあるの」
「…はい」
「こんな事を頼むのはおかしいってわかってる。でも、でも、」


ジャーファルしか、こんな風に頼れる人間がいない。
彼女の吐く台詞が、まるで麻薬のように脳に回る。自分しか、なんて、愛おしい者に言われて喜ばない人間などこの世界にいるのだろうか。

けれど、今だけは。今だけは何か、違う予感がした。確かになまえの願いは叶えてやりたいし、私に叶えられる事ならどんな事でもしてやりたい。けれど、何故かは分からないが、この願いを聞いてはいけない気がしたのだ。誰という訳でもなく、強いていうならこの部屋の静まり返った酸素や二酸化炭素が、そう私に言い聞かせようとしているような、そんな気が確かにするのだ。

駄目だ、この先を聞いてはいけない。彼女の言葉を、聞いては。


「ジャーファル、私を殺して欲しいの」

窓の外は、彼女の気持ちを代弁するかのように、容赦なく雨が降っていた。それは彼女のルフの色にすこし似ていて、なんて皮肉なのだろうと、思う。



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